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人物伝・河井継之助「中の口川改修(郡奉行時代3)」
河井継之助の郡奉行専任時代(慶応元年(1865)10月 13日~慶応2年(1866)11月)に行った事のうち代 表的な事柄である ・巻騒動解決 ・水腐地処分 ・中の口川改修 ・山中騒動(再) ・賄賂禁止 ・協同的救助法制定 ・毛見制修正 のうち、今回は「中の口川改修」について書きます 郡奉行は地方行政を行う機能です。当時の長岡藩における地方 行政というと、各地域の農政が主要課題になります。河井継之 助の郡奉行時代における仕事を紹介するにあたって上記のよう に幾つかに分けていますが、「環境整備」という大きな目標に 向けて行った事柄の一つ一つだったりします。巻騒動は地域に おける「騒動」の解決、水腐地処分は水害に関連した制度の見 直し、等全て「環境整備」の一環です。その「一環」のうち、 最も根本的な取り組みが「治水」でした。水害によって問題が 発生し、その問題の解決のために諸制度ができ、その諸制度に よって腐敗が起こったのです。今回の「治水」関連の話です。 この話をするとなると、地名や河川名が出てきます。地図をア ップしたりした方がわかりやすいのでしょうが、その技量が無 いため(^^;;検索エンジンの地図等を活用していただいて位置 関係等ご確認いただければと思います。 まずは「信濃川」、説明の必要は無いでしょうが、上流から長 岡を通り、新潟に流れています。次に「中の口川」、信濃川か ら翼市あたりで分岐し信濃川の西側を流れ、黒埼町で戻る川で す。あと、信濃川・中の口川の西側に「西川」があります。こ の状態が江戸中期の状況とお考えください。 川の流量が増えすぎた際に起きる水害が信濃平野における大きな 問題であったため、文化14(1817)年に長岡藩・村上藩が 幕府の許可を得て「新川開発」及び「西川底桶伏入」を着工しま した。長岡・村上両藩はこの地域に領地があり水害対策に迫られ ていたため対策に乗り出しました。この工事は文政3(1820 )年に竣工、西川と直交する形で日本海へ流れ込む「新川」がで きたのです。この工事は牧野忠精公の力に負うところが大きかっ たようです(当時、忠精公は老中でした。)。ここまでは継之助 よりも前の話です。 継之助の郡奉行時代には西川・新川の川底に設置した「底桶」が 木製のため腐食し、川底に土がたまり、両川が決壊しやすくなっ ていました。そこで継之助は慶応2(1866)年12月~慶応 3(1867)年5月に改造工事を行いました。 ここからがタイトルの内容です。継之助の治水事業において最も 規模の大きかったものは、「中の川改修」でした。当時の中の川 は上流にある信濃川との分岐点の幅が80間、下流にある合流地 点の幅が30間、つまり入り口の幅より出口の幅が狭かったので す。そのため増水により度々決壊が起こる状況となっていたので す。そこで継之助(を含む農政担当者)は「分岐点の川幅を30 間にする」ことを長岡藩同様中の川流域に領地を持つ村上藩と連 名で幕府に願い出、許可を得て慶応2(1866)年2月から着 工となりました。しかし、そこで大きな騒動が発生しました。信 濃川本流地域に領地を持つ新発田藩・桑名藩が中の口川改修に伴 い信濃川本流の方が今以上の流量となり水害の危険が増すとして 猛反発したのです。形の上では「領民の蜂起」として、領民が工 事現場に襲撃するとの噂が立ち、村上藩の責任者である菊名仙太 郎は当時老中職であった村上藩主を通じて幕府から工事現場警備 の命令を出させ、両藩から計150名の藩士が屯営する事態とな り、一触即発の状態となりました。そうした中で長岡藩は郡奉行 の河井継之助、村上藩は奉行夏目吉兵衛が管宰者となって工事は 進み、2ヶ月後の慶応2(1866)年4月に竣工しました。ち なみに工事費は7千642両1分、内訳は幕府が5千604両2 分、両藩が2千両、私領(地域住民)が37両3分だったそうで す。典型的な「公共事業」ですね。 継之助は西川・新川の川底桶伏入更改や中の口川改修などの工事 によって水害が発生しにくい土地への転換を図ったのです。 読まれた方が「そんなの、その時に担当だっただけじゃん」って 言われるかもしれません。実際その要素はあります(^^;;。内容 自体は当時やらなければいけないと皆が認識していたものでしょ う。継之助はそうした案件を「実行する」ところがすごいと思い ます。あなたの周りにいませんか?口だけで実行しない人が。 ここから余談ですが、上記対策以外に信濃川における大きな事業 がありました。「大河津分水路」です。継之助が諸工事を行って いた頃はあまりに規模が大きく、中の口川改修に反対する勢力が 「それならこちらをするべきだ」と看板に掲げる程度で終わって いたのですが、時は流れて明治42(1909)年に政府の直轄 工事として本格的に始められ、13年の歳月と、廷べ1,000万人の 人手を費やして、大正11(1922)年に通水しました。この 時が信濃平野における悲願であった治水事業の大きな到達点に立 った瞬間でしょう。その後も数多くの治水事業が行われ水害は以 前と比べられないほど減少したようですが、現在も度々ある水害 に対応するために各種事業が進められています。国会中継やテレ ビ番組、しまいには居酒屋の話題でまでも「公共事業」は無駄な ものとして言われています。勿論、無駄な事業や無駄な要素は沢 山あってチェックは厳しくしなければいけないでしょう。しかし、 その事業が「必要なのかどうか」は近視的な見方だけで判断すべ きではないことを理解する必要があると思います。 次回は山中騒動(再)について書きます。 |