人物伝・河井継之助「中老〜家老時代1」
今回から継之助の中老〜家老時代として小千谷会談に至るまでを書いていこうと思います。 流れとしては中老〜家老時代の事績として「禄高改正」と「兵制改革」について書こうと思いますが、少々脱線したテーマも扱っていこうと考えています。
まずは時期の確認から入ります。中老となったのは慶応三(1867)年11月です。中老になってすぐに藩主忠訓公と朝廷に対して建言書を提出すべく11月25日京に向かい、12月22日に建言書を提出します。
大政奉還前後から鳥羽伏見開戦あたりまでの社会の動きとしては
慶応三(1867)年
10月 3日 土佐藩主山内豊信(参政後藤象二郎が代理)が老中板倉勝重へ大政奉還建白書を提出する 10月13日 徳川慶喜が在京諸藩の重臣に対し大政奉還の決意を表明する 10月14日 薩摩藩に討幕の密勅が下る 徳川慶喜が大政奉還・将軍職辞退の勅許を奏請 10月15日 朝廷は慶喜を参内させ大政奉還勅許の御沙汰書を渡す →大政奉還手続き完了、徳川幕府消滅 10月23日 薩摩藩討幕派が薩摩藩主及び国父へ出兵を建白 11月15日 坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺される 11月23日 薩摩藩主島津忠義が兵を率い上洛 11月29日 長州藩兵が西宮へ上陸 12月 9日 王政復古の大号令 小御所会議にて徳川慶喜の辞官・納地を決定 12月12日 徳川慶喜が二条城から大坂城へ移る 12月25日 江戸にて薩摩藩邸焼き討ち事件発生 慶応四(1868)年 1月 2日 (旧)幕府海軍が兵庫沖にて薩摩藩船を砲撃 1月 3日 鳥羽・伏見にて(旧)幕府軍と薩摩・長州藩兵が衝突→鳥羽伏見の戦い勃発 1月 6日 徳川慶喜、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬等を連れ大坂を脱出し海路江戸へ 1月 7日 徳川慶喜追討令発布
こうした時代の「大津波」に対し、長岡藩は大政奉還の情報が入ってすぐに河井継之助を中老とし、藩主と共に京へ上り、小御所会議の結果(徳川慶喜の辞官・納地を決定)で爆発寸前の世情の中、朝廷に対して「従来通り徳川家へ政権を委任せよ」と建白しています。その動きの中心はまぎれもなく河井継之助ということになるのでしょう。
この動き、みなさんはどう思われますか?
正直、私はすごく違和感を感じるのです。今まで読んだ河井継之助関連書籍でこの点について否定的な表現をしているものを見た記憶がありません。「義」に厚い好ましい行為として書かれているものが多いですよね。ないしは単純に継之助の行動力を称える論調か。
良い悪いというよりも、継之助の主体的意志というか本来のスタンスというか、それで行ったとは到底思えないのです、私には。
河井継之助という男の政治スタンスは、一貫して「藩優先」です。藩主が京都所司代になったら辞めさせるよう動き、老中になっても同様に動きました。「幕府のために貢献しよう」などと考えるよりも藩を建て直し、今後の長岡藩がどのような状況になってもやっていけるよう心がけていたように見えます。
そんな継之助自ら他藩ではほとんど行っていない徳川家擁護スタンスに立って長岡藩を危険な立場に陥れる行動に出るとは思えないのです。忠恭公の意向でそういう動きをとらざるを得なくなった、という要素は当然あるかと思いますが。
私は継之助の考えはこんなんじゃないかな?と思います。
1.(大政奉還の情報が入る) とにかく大変な状況になっている。藩の立場を考えると藩主は京にあって政局に対し 動きがとれるようにしなければいけない。事が重大なので同行する必要がある →藩主と共に関西へ向う。従来立場からまずは徳川宗家のいる大坂に行く ※内政面で沢山行わなければいけないことがあり正直後ろ髪を引かれる思いでは? 2.(「徳川慶喜への辞官・納地」情報が入る) 徳川家に対してそこまで要求すると事が収まらなくなり深刻な事態になることが予想される。これは明らかに悪令である。長岡藩のスタンスを明確にする必要がある。 →朝廷に対し建白書を提出
端的に言えば、建白書提出は幕府への忠義というよりも2.で枝葉的善悪論に捉われた ⇒判断ミス
ではないかと思います。継之助が「徳川慶喜への辞官・納地」が喧嘩の売り言葉であることがわからないほどの男であるとは思えないですが、薩長の力を軽く見てしまっていた可能性は充分にあるかな?と。
正直、鳥羽伏見の戦いは薩長にとっては「まぐれ勝ち」としか私は思えません。長期的には薩長が政治の表側に出てくるのは自然な流れであることはわかりますが、何をどう見たら鳥羽伏見の戦いの序盤において薩長が勝利を収めると予想できたでしょうか?
(旧)幕府側にも近代装備は充分にある&数的には圧倒的に有利、薩長は地理的に京を守る側という日本史上勝利を収めた例を探すのが大変な立場にあります。
例えば関が原の戦いは陣取りや開戦時の兵力以前に東軍が勝利するシナリオが充分に書かれています。鳥羽伏見の戦いにおいて西郷の頭に勝利のシナリオがあったと思われますか?あったとは思えないなぁ。
そういう状況で冷静に考えれば、「鳥羽伏見の衝突では一旦(旧)幕府が勝利するが政局は混乱し収拾のつかない状況になる」と継之助が考えるような気がするのです。
もし上記の状況になれば、長岡藩の動きは全体として「ものすごく賢い」と思うのです。 理論的には大政奉還を否定し、実態としては長岡に篭って強大な軍事力を背景に“時代に安易に流されず”事態を見守る、という動き(予測込み)が。
河井継之助一世一代の「大仕事」を結果的に台無しにしてしまった張本人は鳥羽伏見で下手くそな戦い方をした(旧)幕府陣営なのか、まぐれ大勝ちをした薩長陣営なのか...いずれにせよ鳥羽伏見の戦いが継之助の運命の歯車を狂わせたのは間違いないでしょう。
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