河井継之助名言集

継之助の名言は常に継之助自身が自分に言い聞かせている事である.

人を得ずして、其の法のみ存するは、却って危険なり。

(稲川明雄 「河井継之助の言葉」)

「一時点にかぎっていえば物事はにっちもさっちもゆかぬように見える場合でも,時が経てば世の中のことは徐々にかわり、やがて事態がまったくちがってしまう。どうにもならぬときは、いそがぬことだ。」(〜2015.4.15)

(峠 下 p155)

「二度や三度は水っ溜りの中位へは放り込まれるかも知れないが、己を殺す程の気概のある奴は一匹も無い」と、相顧みて哄笑せりという。(〜2013.11.10)

(河井継之助傳pp.126) 藩政改革の際に良運さんにかけられた言葉(「随分険呑だから要心おし」に対する一言

「資治通鑑を三月に読むだとか,廿一史を幾日の間に読むだなどと自慢する者もあるが,何んな量見か気が知れぬ.会心の文字は何辺でも読むのがよい」(〜2008.8.11)

(河井継之助傳pp.50) 河井氏は書を読まずして書を味わいたり.会心の処に至れば,再読三読,終いにそれを諳んずるに至ると.王文成,李忠定の文集,陸宣王の奏議および資治通鑑など,皆然り.それによりてこれを見れば,継之助は読書に対して一種の信念を有し,従って自ら養うことの深かりしを知るべし.

その頃の書生の常として,女のことなどは口へ出さぬものであった.が,河井は「女房などは可哀想なものだ.何処へ行くというものだから,ナニ信濃川を上がれば江戸に来られるというておくとそれで安心しておるが,可哀想なものだ」と言ったことがある.そういうところは情が深い (〜2003,2,23)

(河井継之助傳pp.30) 継之助の情の深さが感じられます.

「今柳原の土手を通って帰ってきたが,立派な武士が通るところへ,横町から糞をか ついできた奴が突き当たって,刀の柄へ糞をかけられた,当たり前なら手打ちにしなけれ ばならぬのだ,併せながら全く間違いという場合に殺さずに武士の体面を保つにはどうし たら宜しかろう」(〜2002.11.25)

(河井継之助傳pp.28)「峠」において印象に残る継之助の台詞ですが,司馬さんの創作で はなかったんですね.考え練らされたと書かれています.

一忍可以支百勇一静可以制百動(〜2002.10.4)

 継之助の座右の銘.私はこの継之助の字を只見町で入手し,狭山で表装して貰った.”一忍をもって百勇を 支え,一静を以て百動を制す”と読む.
河井継之助の座右の銘.やはりこれも長となるものの 心得と考えていましたが,稲川先生によると ”一つのことを大事にしろ、それでなくては大きなことは成しえない。”と言う意味もあ るそうです.

天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。牛羊 となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどち らかとなれ。

”河井継之助傳”pp.416 継之助の口癖
 存在を意味ある物にすべきということをこの極端な表現を使って表している.

地下百尺底の心を以て事に当たる.

死んだ後に,地下百尺底の墓穴で自分自身の仕事の意味を考えて,それで良いという満足 が得られる仕事をし なければならない.
下記のような意味もあると思います。以下,procureさんの投稿
例えば西郷隆盛が山岡鉄舟を評して次のようなことを言っています。「地位も名 誉も金も命すらも眼中にないやつほど扱いにくいものはない。しかし、そういう やつでないと事に当たる時に頼りにならない。
河井継之助さんの"地下百尺底の心を以て事に当たる."というのもこれと同じよう なことを言っていると思います。すなわち何かやらなくてはならないことをやり 遂げるためには世間の評判とか身の危険を度外視して、事に当たらなくては達成 できないと。

人間というものは,棺桶の中に入れられて,上から蓋をされ,釘を打たれ,土の中へ埋め られて,夫からの心でなければ何の役にも立たぬ.今の世間一般で心と思うのは,真の心 ではない.今世間で心というのは,殺し拔て仕舞って見ないと心で無いものを心として物 を想像するのであるから,曲がった定規で物を裁つような者である.裁てば裁つ程曲がる .此本源から着手して往かなければ,善い事をしても,皆上辺の事になって仕舞う.天下 を経綸しても,根本から改造するとは到底六ヶ敷い

上の"地下百尺底の心を以て事に当たる."というのは,後に河井を評した者の言葉であり,継之助自身の言葉はこれである.今泉氏は”継之助は確かに一種不拔の信念を有して世に立てる者,従ってその生前と死後を問わず,彼の貴々者流の毀譽褒貶の如き,毫も介意せざりしが如し,是れ其の心事の多く世人に誤解せられし所以也."と述べている.

「欲の一字より、迷の様々心を暗ます種となり、終りは身を失ひ、家をも 失うべし。 心を直に悟るなら、現在未来の仕合あり、子々孫々も栄ゆべし。ほめそや さるるは 仇なり。悪みこなさるるは師匠なり。只々一心正直に真実つくすが身の 守、此言夢 々忘るべからず。」

6/9 谷氏より投稿。

民者国之本(民は国の本)吏者民之雇(吏は民の雇い)

 国は人民のためのもので吏はその人民に雇われているのに過ぎない.継之助はこのように近代政治についても精通していたようである.

八十里 こし抜け武士の 越す峠

 会津に落ち延びることとなったときに,担架に乗せられ山越えをしながら,自嘲した~ 一 句.王を助け、経世済民を目指した男の思わざる結末である。

以下、三上氏より投稿(1998.8.18)
自嘲の意味の「腰抜け」と、越後を越える意 味の「越抜け」 の二つの意味がありますから、「こし抜け」と表記した方がよいのではと思います。 心情的には限りなく「腰抜け」なのだと思いますが。
ところで継之助がこの句を詠んだ場所は諸説あります。吉ヶ平で出発前に詠んだ、番屋乗 越に向 かう手前の 里眺め」で詠んだ、越後見返りの松があったという「小松横手」で詠んだ、国境の「木の 根峠」で 詠んだ・・・
実際八十里越を歩くと不思議な郷愁を覚えます。あの句は「里眺め」で詠んだと私は思 っていま す。
なにもかもぴったりのように思いましたので...

これからの世は商人が活躍する

プラグマティズムな史観からすればマイナスな面が目に付くかもしれません 。長岡では河井の”これからの世は商人が活躍する"という戦争中に 術懐した一言が伝説になって、長岡の商業発展や人物輩出に繋がったとい われています。
墓が鞭でたたかれたという話は司馬さんなども紹介していますね。山本有三も河井ギラ イ で”米百俵”はある意味では河井批判の書です。河井が居なくても歴史が変わらな かったと 言うのには異存がありますが、それも視点ですので、”プラグマティズムからすれ ばそうか”ぐらいですね。日露戦争のバルチック艦隊同様、運命の一弾ににより、 歴史は 変化するものですから。エルゴード性はないでしょう。山縣有朋の越の山風をよむ とその 一弾のきわどさが分かります。あの後、関原をつかれれば、大瓦解でその史観における マイ ナスの要素がさらに膨らんだことでしょう。まあ、政権自体、異なったものにその 後なっ ていたとすれば、その史観においてはそりゃプラスになるということなんでしょうね。 我々は遥か後年の神の立場でその時点を判断できるので、プラグマティズ ムに評価できます。その点における線、面への展開をその人物がどう為し得たかも 一つの 視点であると考えています。(幕末ラブ掲示板にて河井が歴史に必要なしという発言に対する反論)

攘夷尊王などと浪人ども言ひふらし居り候趣,迂愚の至りに候.普天の下,率土の浜, 王臣に非ざる者なし.尊王の儀をわきまへざる者一人もこれなく候.攘夷とは何たる儀 に候や.洋舶渡来候とて,吾に網紀立ち,兵強く,国富み候はば,恐るるに足らざる事に 候.用意も致さず候て,攘夷攘夷と騒ぎ候は,臆病者のたはごと,心痛この事に候.吾 に用意これあり候へば,通商の道を開き,勢いに乗じ,国富の実を挙げ候事も出来申す べく,(中略)薩長の外船砲撃とは何たる無謀の振る舞いか,嘆息のほかこれなく,行く 行く派は天下の乱階となげかはしく深憂に堪えず候.今日は容易ならざる大事の時,上 下一致,綱紀を張り,財用を充し,兵力を強くし,一朝の変,御家名を汚さざる心掛け第 一と存じ奉り候.

1864年9月14日付 義兄宛書簡より

こうして居ってもポッカリ遣られてしまえばそれ迄なり

望月忠之丞の談.小千谷に出発する際,傍人に言った言葉.首をなでて,一笑している.

何でもよい,1つ上手であればよいものだ,煙草延しでも,上手でだければ名人といわれ る,これからは何か一つ覚えて居らねばならぬ

自分の子供についていったこと.維新後のことを察していたのではないかと妹は述懐して いる.

人の世に処するというものは,苦しいことも嬉しいことも色々あるものだ.その苦しいこ とと言うものに堪えなければ,忠孝だの,節義だの,国家の経綸だのというた処が到底成 し遂げられるものではない.その苦しいことを堪えると言うことは,平生から錬磨をして 置かなければ,その場合に限って出来るものではない.

足に出来物が出来たときに佐吉少年に行った一言.

”人間万事,いざ行動しようとすれば,この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲ん でくる.大は天下のことから,小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている.この 矛盾に,即決対処できる人間になるのが,俺の学問の道だ.”

”峠”pp.30  これは鈴木少年に面白いから勉強するというのなら,芝居の方がよほど面白いと言ったことに通ずるものがあります.

鈴木少年”吾を善とし吾を語るものが吾の仇なり,吾を悪として吾を語るものが我が師な りと言うことがあります.あなたは吾を褒めたのであるから,我が仇だと申したのです”
河井”よくそういうとこへ気がついてくれた.今のはおれの失言であった.”

”河井継之助傳”pp.26  継之助が鈴木少年に1本取られるシーン

河川は一国の共有すべきものなるに,多年の慣習なりとはいえ,独り長岡の船乗りらが不 条理なる特権を有して交通の妨げを為し,また長岡の商人らがその陰に隠れて不当の利益 を占めるを喜ぶがごときは,大いなる心得違いなり

”河井継之助傳”pp.98 継之助の改革.織田信長との共通点が見られる.最近高速道路などでたくさん交通網が張られてきたが,この考えからするとやはり無料にするべきであろう.

殿様でもご家老でも馬鹿では仕方がない,百姓でも町人でも堅固とした賢いものなら何で も取り上げなければならぬ.一體人間は目さえ見れば利口と馬鹿とがわかるものだ.

”河井継之助傳”pp.102 継之助の口癖 確かに目さえ見ればわかるような気がします。

まだそうだろう.お前の境遇ではそうだろう.一體英雄豪傑が人を見るのに,話だの議論 などを聞いて知るのというトロッコイことでは世に処することができるものか.

”河井継之助傳”pp.31  土田衝平に師事するよう言われた旨を鈴木少年が伝えると,土田がこの台詞を返す.以前,司馬さんも”人間が3流かどうかはすぐ分かる.そう思ったら相手にせん." ということを言っておられたが,3流はある程度見たら分かると思う.一流かどうかを見極めるには一目見て分かるようになるのは大変なことだろう.友人が修行僧に”自分より上の人と話をしなさい”といわれた話をふと思い出した.

ひとに頼らず,おのれのみを恃めということさ.(〜2000.11.4)

”峠”pp.400   峠の中で大阪近辺に駐屯していた長岡藩が如何にして大阪を脱出するかを聞かれたときにこの台詞をはく.乱世にあっては由緒は縁起はあてにならんと言うことさ.

「民を安ずるは恩威にあり。無恩の威と無威の恩は、 二つながら無益、基本は公と明とにあり。 公けなければ人怨まず、明らかなれば人欺かず、 この心を以て、善と悪とを見分け、賞と罰とを 行ふときは、何事かならざるなし。 有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ 事立たず、老兄は立事の才、余りありて、人を服するの 徳は御不得手の様、存ぜられ候間、誠を人の腹中に置く 御工夫、御油断これなきよう、ひとえにこいねがう ところなり。」(〜2001.1.12)

郡奉行の時に巻組代官萩原貞左衛門を諭した言葉(稲川明雄「河井継之助」pp.75)徳と才能の関係.人をどのように管理すればよいかがよく分かる. 

名言集〜敵将の言葉〜

いったい越後口に向かった黒田や,山縣が,河井に逢わないで,岩村のような小僧を出したのが誤りじゃ.黒田はあんな気風の男だからなおよかったろうし,山縣が逢っても,戦争せずに済んだかも知れぬ.己はいつも山縣に言うことだが,時山を殺したのはお前だ,河井に逢わなかったのは間違っていると,こういうと,今でも山縣が真っ赤になってそうじゃないとか何とかいって怒るのじゃ.河井が死んでから,皆が惜しいことをしたといっていた.何でも生きているやつが勝ちじゃ,後から何のかんのと丁度よい加減のことをいっているからな・・・とは品川弥二郎氏の談

      河井継之助傳 pp.207

敵兵の抵抗力が著しく減退したものは,海路より進発したる官軍が,松ヶ崎付近に上陸し て,その背後に入り込みたるもの,其の重なる原因たるに相違なしといえども,しかも河 井の重傷負いたるもの,又興りて力ありしならん乎.

      1998.7.14 山縣有朋 「越の山風」より

山縣有朋が長岡戦争巻き返し時に術懐した言葉


名言集〜峠編〜

「人間のいのちなんざ、 使うときに使わねば意味がない」

「人間のいのちなんざ、 使うときに使わねば意味がない」という旨のことを藩主に言うでもなく詮庵にいうでもなく、つぶやいた。
「たとえ殿さまといえども一個の男子であり男子として考えて差しあげねばならぬ。 こん にち殿さまは義侠によって上洛あそばす。このとき御病気なるがゆえにお控えなされたと すれば、 あと百年のお命があったとしてもそれは無駄というものだ。 いま徳川家は危機 に瀕しておる。 三河以来の譜代におわす牧野家の御当主としては、このとき敵地へ乗りこみこのとき陳弁せねばなんのための譜代であろう。 世々七万四千石の御禄をいただいてきたのは、この一日のために ある。 男子とはそういう一日を感じうる者を言うのだ」

司馬 遼太郎. 峠(上中下) 合本版 (pp.618-619). 新潮社. Kindle 版.

政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だせ。

意見じゃないんだ、覚悟だよ、これは。官軍に抗して起つ起たぬか。 起って箱根で死ぬ。箱根とは限らぬ、節義のために欣然屍を戦野に曝すか どうか、そういう覚悟の問題であり、それがきまってから政略、戦略が出てくる。政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だせ。

「気分だけなのがいけない」

「忍藩については、少しも感心しない」と継之助は言う。「気分だけなのがいけない」というのである。幕府への恩義を感じるというのはいいにしても、ただその気分だけでそういう姿勢をとるなら、最初からあっさり城を開いてしまった方がいい。(司馬遼太郎「峠」pp.552)

ちなみに、どの物事でもそこに常に無数の夾雑物がある。失敗者というものはみなその夾雑物を過大に見、夾雑物に手をとられ足をとられ、心まで奪われてついになすべきことをせず、脇道に逸れ、みすみす失落の淵におちてしまう。

<人の世は、自分を表現する場なのだ>とおもっていた。なにごとかは人それぞれで異なるとしても、自分の志、才能、願望、うらみつらみ、などといったもろもろの思いを、この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば怨念が残る。怨念をのこして死にたくはない、という思いが、継之助の胸中につねに青い火をはなってもえている。


司馬遼太郎 峠 p.181

不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。

司馬遼太郎 峠 p.154

一年も居馴れてしまえば、ちょうど冬の寝床のように自分の体温のぬくもりが江戸という寝床に伝わってしまう。そうなれば住みやすくはあるが、物を考えなくなる。寝床は冷ややかなほうがいい。

司馬遼太郎 峠 p.115

「おれは知識を掻きあつめてはおらん」 せっせと読んで記憶したところでなにになる。 知識の足し算をやっているだけのことではないか。 知識がいくらあっても時勢を救済し、歴史をたちなおせることはできない。 「おれは、知識という石ころを、心中の炎でもってとかしているのだ」

司馬遼太郎 峠 p.29

眼前に、難路がある。 これも継之助の思考方法から見れば、山中の賊であろう。 継之助は、難路そのものよりも、難路から反応した自分の心の動揺を観察し、それをさらにしずめ、静まったところで心の命令をきく。

司馬遼太郎 峠 pp.23

尊敬するのあまり,おれのきらいな百姓仕事まで手伝うとなれば,これはおべっかさ.尊 敬はあくまで醇乎たるべきものであり,おべっかがまじっては相成らぬ.

”峠”p.195山田方谷邸にて修行中,何故,何も手伝わないのかと問われていった言葉.

「人というものが世にあるうち,もっとも大切なのは出処進退という4つでございます. そのうち進むと出ずるは人の助けを要さねばならないが,おると退くは,人の力をからず ともよく,自分で出きるもの.拙者が今大役を断ったのは退いて野におる,ということで 自ら決すべきことでござる.天地に恥ずるところなし.」

  古賀先生とのやり取りにて,継之助が言った言葉.”河井は男だ!”と返答.


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