幕末長岡藩総督・河井継之助


  蒼龍窟は継之助の号です。今泉さんと司馬さんは”邸内の松樹”を由来としていますが~ 、禅にはに次のような記述があります。

『為君幾下蒼龍窟』
(君が為に幾たびか下る蒼龍の窟)

道樹寺の ご住職の説明では"道の為には、危険を冒してまでも龍の珠が 欲しい。また、人生何の道を歩んでも真剣であればあるほ ど、その道は厳しい"とあります。継之助が禅を学んだ際に選ん だのではないかという説は有力であるように思えます。

稲川明雄先生が令和元年12月12日にご逝去されました.「不思議な縁で,不思議に心がつながるようで,不思議です」今ではそんな心にぽっかりと穴が空きました.心からご冥福をお祈りいたします.


一忍可以支百勇一静可以制百動

 幕末に北越戦争があったのをご存じであろうか.この時の東軍・長岡藩総督が河井継之助である.継之助は藩を幕府とは離れた一個の文化的・経済的な独立 組織と考え,ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした.また, 当時アジア圏に3門しかないガットリング砲(機関銃のような物)を2門手に入れ,当時最新式のミニエール 銃の各藩士への払い下げによる武装・身分を平均化するなどの改革を行い,軍事的にも独立したまさにスイスのような 武装中立国を長岡に築こうとした.が,西軍総監岩村との小千谷会談決裂により,やむなく東軍として参戦. (岩村は後に司法卿・江藤新平をも打ち首にしたキョロマである)長岡城を一旦奪われはしたものの,ナポレ オン戦術を思わせる今町戦,八丁沖渡河作戦にて,奪還に成功する.戊辰戦争でこのような奪回作戦が成功し たのは長岡戦のみである.しかしこの直後の督戦中,流れ弾に当たる.河井負傷により長岡軍の敗色は濃く なった.
 彼の"状況を的確に捉え迷わず判断する”ことこそは非常に重要な行動原理であると私は思っている.

河井継之助の人となり(稲川明雄

 長岡藩士の河井継之助は,文政10年(1827)1月に生まれています.継之助はこの地(長岡)を中心にして,友と交わり,学問にはげみ,自らを強く賢くしました.
 郡奉行,町奉行,家老など,長岡藩政をまかされる地位に登用されたのは,継之助の努力のたまものだと言われています.
 それまでの長岡藩政は,ゆとりのない状態が続いていましたが,継之助が改革を進めた結果,建て直しに成功しました.それは第一に民生を安定させ,経済を活発にさせたからでしょう.
 戊辰戦争では,西軍と戦うことを決断しています.長岡城奪還戦の際の負傷がもとで,慶応4年(1868)8月,会津塩沢で没しました.その生涯は,正義を重んじた政治力,ものを生み出す理財の才,際立った軍事作戦の妙など,北越の蒼龍と称されるほどの英傑だったといえましょう.


(写真:稲川明雄「河井継之助」より転載)

今日のお言葉

ごう牙の言説は奇人によくあるように自信と鋭気に満ち、 いたずらにするどく、 こちらがまともに太刀打ちしていれば受けにばかりまわらざるをえない。 しかしひるがえってみれば、 そのするどさも所詮は口舌のするどさにすぎぬ。
「本物でしょうか」
  と、 神吉某はいった。継之助はそれ以上答えなかった が、 内心ごう牙など 一文の価値 もないと見限っていた。 ごう牙には言説があって行動がない。 「かれは用いられざることを憤っている」
  と、 のちに継之助はいった。 「不遇を憤るような、 その程度の未熟さでは、 とうてい人物とはいえぬ」 と継之助はいうのである。

司馬 遼太郎. 峠(上中下) 合本版 (pp.262-263). 新潮社. Kindle 版.


人物評

徳富蘇峰「西郷と大久保と木戸を足したより大きいとはいえないが,この三人を足して3等分したより継之助の人物は大きかった」
司馬遼太郎「日本最後の武士」
        「幕末の人材を考えてみて,河井継之助は木戸孝允より3倍ほど上の人物です」
        「もし,西軍側の人物 であったら,今頃お札になっていたであろう人物」 
 三島中洲 「河井蒼龍窟」
      「王臣何ぞ敢えて王師に敵せん 賊と呼び忠と呼ぶ彼も一時 惜しむべし東洋多事の日 黄泉地下起こし難し大男児」
佐川官兵衛河井君と話をするときには,息の油断もできない,あんなによく理屈が見えて話に切り込みの烈い人は少ない.確かに近代の豪傑である.
勝海舟彼はなかなかの人物であったが惜しいことをした.河井の様な者は少ない.
西郷隆盛イヤイヤ東北にもなかなか人物がある,長岡の河井継之助は得易からざる人物である.不幸順逆途を異にしたので,賊名を負うてたおれたが,もしも今日世にあるならば,臺閣に立つべき一人である.確かに一代の傑物である
大久保への建白書(明治元年)東北の河井と勝とを手に入れなければ天下の大乱は免れない

塵壺

継之助名言集
継之助の名言は常に継之助自身が自分に言い聞かせている事である.
河井継之助年譜
河井継之助年譜は継之助26才古賀塾入門から,42才塩沢までを簡単にまとめた年譜
大河ドラマ”篤姫”,”新撰組!”と連動した,そのときの継之助も紹介
司馬遼太郎・河井継之助関係の本、読書  ,TV、映画
 マルクス・ガブリエル 世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか)2023/10/16
河井継之助の史跡を辿って
 管理人 蒼龍窟史跡巡り”2015.9.27、我妻さん ”河井ヲ偲ブ旅”、pongさん ”新潟に行って来ましたよ!”
継之助の好物
 継之助の好物”桜飯”の作成に挑戦
河井継之助シンポジウムとオフ会2006.12.30
 稲川先生を交えた継之助情報. 
人物伝 河井継之助2004.12.6
 長岡藩士さんによる河井継之助人物研究、塵壷解説
河井継之助マニアックス 2004.10.6
はれはさんによる備中松山平成塵壺紀行(LINK切れ)
雑談 河井継之助2001.1.30
 春秋さんによる河井継之助考.
”峠”について 2003.8.13

司馬遼太郎さんによる小千谷”峠の記念碑”と常連さんたちによる「峠」というタイトルの考察,継之助のディレンマ
インターネット河井継之助記念館  我妻さんによる河井継之助像の展示室です.(2001) 蒼龍BBS
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