「峠」について

小千谷”峠の記念碑”(青木氏により投稿)と蒼龍窟が行くに来て頂いた皆さんの”峠”と言うタイトルについて考えて頂きました

  「峠」のこと

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。
17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自の近代文化の発展と実行者という点で、きわどいほどに先覚的だった。
 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
 その勢力が小千谷まできた。
 かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。
 といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえなかったのである。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。
 武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現した藩はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 平成5年11月      司馬遼太郎


小千谷”峠の記念碑”より(青木氏により投稿)

継之助のディレンマ

「継之助のどうにもならぬディレンマは人がその生涯に置いて一度以上はだれでもが経ねばならぬものですが一個の不寛容な思想人であるだけにそれが大きくかぶってくるものと思います.今朝は今からそのくだりを書かねばなりません.そのくだりを書くためにこの小説をはじめた気がします」


「峠」というタイトルについて

「峠」というタイトルについて 投 稿者:がんてつ 投稿日:2001/11/03(Sat) 10:50:01

自分も含めてですがこのサイトにきた多くの人が「峠 」を読んで河井継之助を知った人が多いと思います.ところでこのタイトルの「峠」とは 何処の峠なのかと考えてます.小説の冒頭にでてくる三国峠なのか,それとも最後瀕死の 継之助が越える八十里峠なのか,それとも他に何か意味があるのか?結局よく分からない のですが何か知ってる人がいましたら教えて下さい.

投稿者: ますや投稿日:2001/11/03(Sat) 21:20:03

がんてつさん、今晩は。自分の友人が、司馬先生にお会いした時、『僕の友達が 八十里・福島県側に住んでいるんですが、“峠”は八十里越えですね?』とお聞きしたら 、『只見ですね。いいですねェ。でも“峠”はねェ、初めはねェ・・・・・』と司馬さん ならではの優しい笑顔で答えて下さったそうです.つまり、『八十里越えではないぞ。』 と言っておりました.何でしょうか?


(写真提供:おなさん,峠の記念碑と蒼龍窟が行くメンバー)

投稿者: yoko投稿日:2001/11/04(Sun) 19:25:33

yokoです、ごぶさたしてます。さて、『峠』とは何処の峠かという事ですが、なか なか難しいですね。小千谷にある「峠の碑」には「小千谷の峠」にみたててというような 表現もみえますが、もしかすると、はっきりとした地名を指しているわけではないのでは ないでしょうか。そもそも、継之助が江戸留学や山田方谷の元で陽明学を学んだのも、幕 末の動乱期、長岡藩をどうもっていくかを探るため。その中で出てきた「武装中立」の思 想。正義を唱えるためには力を持たなくてはならない。だからこそ、長岡藩に力をつける ための数々の藩政改革。17歳に鶏の頭をしめて祭ったときから、その夢である「武装中 立」に向かって、継之助は一歩一歩、峠道を歩いてきた。そしてその頂こそが「小千谷会 談」。そんなところから『峠』の表題ができたのではないかなと思います。以前読んだ物 の中に、このような解説があり、僕自身非常に感銘を受け、それ以来このような解釈をし ています。悲しいことに、峠道は延々と続くものではなく、その山頂に達してしまえば後 は下るだけ。戦争という悲劇へと突入してしまうことになってしまったのですが・・・。

投稿者: 小名 投稿日:2001/11/04(Sun) 20:11:11

「峠」文庫版の下の403ページを読んで見ると・・・・

投稿者: yoko 投稿日:2001/11/04(Sun) 22:58:46

早速『峠』の403ページめくらせて頂きました。全くおなじようなことが書いてあ りますね。何読んだときだったかなーと思いながら上のレス書いてたんですけど、まさか 『峠』その本にあったとは。この「峠」の表現ですけど、この継之助の外交にとどまらず 、継之助のそれまでの人生そのものが峠の上り道であったような気がしてなりません。な ぜならば、江戸・西国遊学等、それまでのバックボーンが「長岡藩を生かす道こそが「武 装中立」にあり」と導き出したわけであり、だからこそ、司馬さんも多くの紙面をそこに 割いてきたのですから。

投稿者: 小名 投稿日:2001/11/05(Mon) 11:38:49

小名です。個人的な想いは、三国峠だと思っています。三国峠の北側(長岡)は屈 指の豪雪地帯で、年間の半分は身動きとれません。それにくらべ、南側(江戸、西国を含め)は冬でも雪の不便さはありません。そういう地理的条件にもかかわらず、河井さんと 言う時勢に敏感な人物があらわれ、当時だれもが想いもよらなかった中立を実現しようと した。峠の南側に生まれていたら・・・と思うと・・ほんとうにお札になっていたかもし れません

投稿者: かんりにん投稿日:2001/11/05(Mon) 18:19:30

長岡藩の幕末に渡ったきわどさの”峠”であったと思います.象徴となる場 所はというと,各舞台で峠がキーになっており,三国峠,榎峠,八十里全てを指すのでは ないかと勝手に考えています.だから峠の記念碑を見たときには少し意外な気分になりま した.

投稿者: おか投稿日:2001/11/05(Mon) 23:00:37

峠…。越後人にとっては三国峠は特別な峠ですね。私も幼い頃、春休みに電車で「 トンネルを抜けると、そこは春だった」という体験をしました。越後はまだまだ雪の中な のにトンネルを越えただけでそこには春があったのですから、幼心に大きな驚きでした。 河井さんがあの時実際通ったのは碓井峠ですが、あの小説では三国峠でなければならなか ったのでしょうね。そしてかんりにんさんのおっしゃるように榎峠、八十里越えと節目に 峠が舞台となります。最初は単純にとらえていましたが、なかなか奥が深いですなぁ。

投稿者: 早井一之助 投稿日:2001/11/08(Thu) 07:14:53

継之助の人生の節目節目を「峠」という名称で象徴していると思います。心理的に見ると最初の方はなだらかな峠、最後の方は険しい峠、八十里峠は体力的にも険し い峠ですが・・

投稿者: かんりにん 投稿日:2001/11/09(Fri) 17:55:51

只見の河井継之助記念館に八十里越の行程図がありますが,見ているだけで 大変そうですね.

投稿者: ますや投稿日:2001/11/10(Sat) 11:28:58

確かに険しいです。古道・中道・新道とあり、我々が今歩くのは新道で、当時戸 板に河井氏乗せ、どのように歩かれたかは不思議なほど、さぞ、決死の覚悟の峠越えだっ たのでしょう。しかし、歩いてみると六尺の道型が残っていたり、道の排水溝、荷を置く 大石、橋の跡、峠の茶屋跡等など文章を思い出しながらズーット佇みたくなるような個所 が多く、見受けられますよ。

投稿者: ますや 投稿日:2001/11/10(Sat) 18:14:59

本当に厳しい峠です。我々の今日歩いているのは新道で、当時は古道・中道とも っともっと険しかったのにあえてその道を選ばなければならなかったのですね。歩いてみ ると道型や荷を下ろす大石・側溝跡・橋の跡・茶屋跡等など、目を瞑り、文章を思い出し 、感慨に耽る場所がかなり残っておりますョ。新潟市が“広い潟”だった頃、中心は長岡 市で、関東への主要道は、八十里峠を越え、会津西街道に進む順路だったと聞きます。

以上,峠というタイトルについて考えて頂きました.


峠の場所について(coodさん,2003年1月)

 上のやり取りを読まれて,情報を頂きました.以下にご許可の上で転載致します.
 
 15年くらい前の発行された、日本文芸散歩(今は絶版になっている)と言う単行本には「榎木峠」となっていました. 司馬遼太郎さんが取材されたときから、地元(小千谷・長岡南部周辺)では「榎木峠」だと言うことが常識になっていま す。ちなみに「榎木峠」の地籍は長岡市で上杉氏の有力な家臣「石坂氏」の居城、会水城があった要害の地です。  どこかで読んだか記憶がありませんが、峠の主題は、「小千谷談判に向かう継之助がたった一人で(時代)という峠を こえて行ったこと」にあると言われています。「峠」のクライマックス(史実)が「小千谷談判」にある以上、「榎木 峠」=「時代の峠」となぞらえて判断するのは至極妥当なことだと思います。少なくても戦いに負けた腰抜け武士が越した かなしい峠を主題としたお話しではないと思います。
 ただし、小説をどう読むかな個人の自由ですので、個人的な判断は尊重されるべきだとは思います。
 小千谷では朝日山古戦場等戊辰戦争関係の史跡は早くから整備されていましたが、長岡南部の戊辰戦争関連の史跡はつい 最近まで省みられませんでした。榎木峠古戦場パークが長岡市によって整備されたのもつい最近のことです。小説「峠」 が発表されたときから史跡を整備をしておけば、地名をを奪い合うような混乱はなかったものと思います。これは、長岡 藩や継之助自体が被害を被った藩内の周辺農村農民から強い反発を受けていたことと無縁ではないかもしれません。
 貴HPの「峠」についてのコーナーをはじめて拝見して、意外に思いましたのでメールいたしました。 すこしきつい言い方になったかもしれません。お許し下さい。
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