河井ヲ偲ブ旅

河井ヲ偲ブ旅 presented by 我妻さん



河井ヲ偲ブ旅

 去る 4/30〜5/2、予てより友人と計画の旅に行って参りました。 行程は次のとおり
30日 慈眼寺・三仏生・朝日山・妙見城跡・榎峠 1日 森立峠・河井記念館 2日 長 岡・見附 周辺探索
先ず驚愕すべき事2つ
いろいろありましたが有意義な旅でした。

第1日目

 4/30AM8:30慈眼寺着、車は近くの体育館駐車場へ。葉書によるアポ済みの為、早速 会見の間へ。写真で見慣れた筈の部屋を、改めて見回し感慨に耽る。展示品の陣羽織・ 書簡などの撮影を終え庫裏へ。和尚さんに旨い茶をいれて頂き、世間話に花を咲かせ る。2H程で御暇し三仏生へ。千曲川堤防上より対岸の榎峠・朝日山を観測 、両軍の布陣について友人と意見を交わす。(遠眼鏡・地図必携!)越ノ大橋たもとの「 峠」文学碑で小休止、橋を渡りコンビニで弁当購入、朝日山へ向う。麓の浦柄神社へ駐 車、徒歩で山頂を目指す。当初容易と思われた登坂だが、日頃の運動不足と前日の深 酒が祟りやっとの思いで頂上に至る。途中何回か車とスレ違っており、徒歩組は我々だ けのようだ。しかし途中には会津藩士の墓・落下傘発祥の地?(一寸インチキくさい)等、 見所も多く車同士スレ違いの煩雑さも考慮し、徒歩をお勧めする。(それでも車!の方は 軽4駆で)
 頂上には有名な塹壕(看板付き!)が残されているが、我々は藪をこぎ、南西の尾根筋に 遺構と思われる約2M長の窪地を発見した。
 榎峠・金倉山等の観測を済ませ、越後の山々を眺めながら昼メシ。 直ちに下山し、榎峠へと向う。

さて、浦柄から榎峠への登り口だが、山頂からの観測で畑の存在が確認されていたの で、その界隈を探すと以外や簡単に見つかった。小千谷名物「錦鯉ショップ」の向かい、 駐車場裏手の竹やぶに続く細道がそれであった。自販機で買ったお茶で喉を潤し、錦鯉 の優雅な姿に心和ませ、一息ついたところでサア出発!        途中、畑にいたば あちゃんに声をかける。「榎峠ァず〜っと普請してねーすけの、足元ァ悪い」との有難きご 忠告を胸に歩を進める。
(普通の人は下の国道を通る。ばあちゃんは今でも使うのか?) 
  杉林の中、道と思しきところジグザグに進むと、やがて切通しの上り坂が目に入る。これ を登り切った所が、かの有名な榎峠である。片側が完全な崖になっており、庇状の下草 等を踏み抜くと非常に危険だが、試しに腹這になり下を覗いてみる。「とてもこわいぞ!」 というのが素直な感想であり、よゐこの皆さんは、決して真似等なさらぬよう、ご忠告申し 上げる。つぎは妙見城跡探索だ!

 妙見城跡へのアプローチは、右側(北方を正面にして)の藪を少しこぐ事より始まる。しばら くすると尾根筋へと到達、あとはこれに添って2本目の高圧線の鉄塔を目指すだけだ。鉄 塔裏のこんもりとしたところが妙見城主郭跡である。わずか6畳程の面積に会水城跡と書 かれた標柱があるだけで、これといった見どころはないのだが、朝日山に目を転じてみよ う。山頂までの距離約1500m、しかも見上げる位置関係にある。つまり朝日山方向から 榎峠への砲撃は容易であり、榎峠という拠点確保の為には朝日山とセットで抑えておく 必要があるという事だ。ここに立てば、両軍が先を競った理由が実感できるであろう。さて そうこうしている間に、日も傾いてきたので、先を急ぐ事とする。車に乗り一路長岡へ。途 中、摂田屋により光福寺(本陣)を探すが、この界隈だけ地図を家に忘れてしまい、グルグ ル走り回り、やっと見つける事ができた。しかし良くしたもので、造り酒屋など古く立派な 家屋が多い事を発見。とりわけサフラン酒?という看板の屋敷には、非常に精巧な鏝絵 を施した倉が在り、今度ゆっくりと訪れたいものである。肝心の光福寺はというと本堂は 雪囲いのままで気分は出ないし、暗くなり犬には吠えられるし、本陣跡石碑の写真を撮り 早々に退散する事とした。

 長岡着、先ずは兎に角ホテルへチェックイン。場所は山本記念公園すぐ横、ホテルまるや ま。宿賃は4000円と格安だが駐車代が別途600円必要。各部屋に厠・風呂等の備え はないが、どうせ有っても、小さなバスタブに湯を張り入るつもりは最初から無い。大浴場 と称する小浴場につかり、身支度を整え、いざ夜の町へ。とは言ったものの、昼の疲れが ドット出て大した事もできそうもない。早速調べておいた居酒屋長岡藩へと向う。たどり着 くのは簡単だったが、なんと店の灯は消え、不動産関係の張り紙が!さては官軍にやら れたかと思い、他の店を探す。(心配無用、翌日はちゃんと開いていました。飲み屋の休 日は日曜が多い。)これといった目当ても無く、駅前のチェーン店と思しき店に入る。特徴 の無い店だったが、細切りの大根サラダ一人前「大皿テンコモリ!」には驚いた。ラー油 の辛さも丁度良く、酒飲みにはありがたい肴であった。友人と昼間の話などしながら、ビ ール1本・八海山をコップに2杯、ありがたく頂戴した。(友人は八海山の蔵元製造、地ビ ールなるものを飲んでいたが、その表情は複雑だった。)宿へ戻り、明日の日程に関する 軍儀など開催するも、睡魔に襲われ両名とも床へ直行、泥のように眠るのであった。明日 の惨事も知らず。 (ホテルまるやま TEL0258−35−1215)

第2日目

 さて二日目である。今日の予定は、森立峠経由会津塩沢、栃尾へ戻り周辺探索。6:30ホ テルをチェックアウト、山本記念公園を横切り駐車場へと向う。園内には山本五十六の生 家が移設されており、せっかくなので内部を拝見する。障子の上に有名な「場戦在常」の 額が掲げられており、でかい石膏製の胸像がデンと置かれている。園内に在る胸像の原 型か何かと考えるが、畳の上というのは、何とも珍妙である。いよいよ乗車、手始めに長 町河井邸跡ヘ寄り庭園を拝見する。ない!蒼龍の松がないっっ!4/1には確かに在っ た。今いくら目を凝らしても、無いものはない。庭木の冬囲い取り外しに伴い、撤去された ものと推測される。いくら切株だけとはいえ、河井信奉者にとっては御神体にも匹敵する もの。あまりの事に目が点になった。(友人は初見だが自分は二度目、一度見ているだけ にショックはでかい。それとも一度でも見られたことはラッキーか?)朝一番の大事件、更 に災難は続くのであった。

 気を取り直し再出発。長岡駅東口のコンビニへ寄り、おにぎりとお茶で朝飯を済ます。ここ より一気に東進、悠久山の脇を抜け、森立峠をめざす。緩い上り坂の勾配が増すにつ れ、道も七曲となる。路面には、お決まりのスリップ痕多数。コーナーを攻めるのも良いが 「注意一秒・怪我一生」充分に気をつけて頂きたいものである。頂上にたどり着き、ここよ り右折、尾根筋に沿って八方台方面へと向う。やがて一寸した駐車スペースが右側に現 れ、道路を挟んだ反対側に見返り地蔵はある。ここからは長岡の御城下を一望する事が でき、この場所を二度にわたり落ちていった藩士たちを思い、しばし感慨にふける。また、 約300m先には御殿場跡があり、石碑と灯篭が見える。碑文によれば、牧野の殿さんが 国見をされた所だそうだ。とにかくこの一帯は物事をゆっくり考えるには、ピッタリの場所 と言えそうだ。(清水なんかも湧いているぞ!)但し、日中はそれなりの交通量が見込めそ うであり、やはり早朝がお勧めかと思う。(夕日もよさそう?)   さて、次は会津塩沢だ! 

 森立峠を後にし栃尾方面へと坂を下る。途中の集落では、朝の畑仕事のせいか、フラフ ラとバイクのじいさんがやたらと多く、ぶつけられぬよう気をつけて走る。栃尾の手前で右 に折れ、R290への出口を探すがなかなか見つからず、さては迷うたか?とも思ったが、方 向的に間違いは無く構わず突き進む。(R290と並行する県道を走っていたらしい) しばら く行くと、春先恒例ガードレール取付工事の真っ最中。様子を聞けば、やはりこの先は未 だ冬季閉鎖中とのこと。いやな予感が頭をもたげるが「細い道だし有り得る話」と納得しつ つUターン。耕運機のじいさんに道を教えてもらいR290へたどり着く。ここからは道も良く 「塩沢?1.5H楽勝かやぁ」などとヘラヘラ快調に飛ばし、突き当たりのR252を左折する。し かしうまい話は続かない。やがて現れた電光掲示板には、燦然と光り輝く運命の文字が! “この先冬季閉鎖中” 絶体絶命、二人の運命や如何に?

 念の為、近くの人に確認する。やはり春先の大雪か効いているようだ。一瞬の迷いは有 ったが、咄嗟の判断で只見線の使用を思い立つ。この辺りは以前仕事で寄った事があ り、事前のリサーチでも鉄道の存在は知っていたが、まさか自分で使う羽目になるとは思 わなかった。早速最寄の駅、入広瀬へと向う。しかしここでまた障害。なんと、次の汽車 まで4.5Hもあるじゃないか!しかも帰りの時間を考慮すると、塩沢での滞在は僅か1時間 11分。明日にするか?いや今日しかない(河井記念館は火曜休館)。栃尾・長岡方面へも どるか?有事により汽車に遅れては本末転倒。結論、待つのみ。下手に動き回らず、確実 な手段を選択した。幸い?ホームの向かいには、民俗資料館なるものが併設されており、 いにしえの生活用具に囲まれ、無理やり河合の時代に思いを馳せる。長岡軍も使ったで あろう大八車や米俵、蓑や笠に始まり担架にもなる戸板など、見どころいっぱいだー!しか しこれでも時間は余る。今度は川向うの保養センターで温泉につかり昼食、みやげ物ま で買ってしまった。全く何をやっているのやら、トホホ・・の旅である。やっとの事で汽車が 来る。会津塩沢への希望は繋がるのであった。 

    目的地迄の往復予定は次の通り。入広瀬13:37発・会津塩沢14:32着/会津塩沢15:43 発・入広瀬17:09着。前述の通り、全く時間が無い。かといって汽車の中でジタバタしても 始まらず、車窓より見える峻険なる山容に心を委ねる。「エライとこ来たなー」というのが 正直な思い。やがて、会津塩沢のアナウンスが車内に流れ、降車する。「なにコレ!」友人 の開口一番、自分も同じ思いである。山間の僅かな土地に、ポツンとホームが在るだけ、 しばし呆然とする。しかし、車掌さんも手馴れたもので「河井記念館ですか?」と合いの手 を入れてくれる。どうやら、ここより少し離れた所に在るらしい。一瞬の安心の後、兎に角 先を急ぐ。ホームを降り、田んぼ道を直進、突き当たりの国道を左折する。やがてダム湖 に流れ込む川に掛かる橋を渡ると、そこには翩翻とひるがえる、河井記念館の幟旗が! ああ、やっと着いた」の思いも束の間、ここで又障害発生。何と!私の右足の筋に痛みが 走り、うまく歩けないのである。しかし休んでいる余裕など全く無い。ビッコを引いてでも、 目的地へ辿り着かんとするその姿は、鬼神に憑依された落ち武者の如くであったと言う。

 数々の障壁を乗り越え、ようやく目的地「河井継之助記念館」へ辿り着く。外観もすっきり と洒落た建物である。早速スリッパに履き替え受付へ。先客と思しきオジサンが、何やら 尋ねている様子だったが、時間が無い旨を告げ、失礼を承知で300円を支払い、とっとと 入館する。先ず正面、河井の像がこちらを見据える様にデンと立っている。なかなかの迫 力である。次に左側、終焉の間が移設されており、いつもであれば感慨に耽り云々といっ たところだが、やはり時間が無い。(駅までの往復時間を考慮すると正味たったの40分)泣 く泣く館内を大特急で廻る。著名軍装研究家・柳生悦子氏描く長岡軍戦闘之図、レプリカ とはいえ大迫力のガットリングゴン等、我々にとっては宝の山である。(私と友人、共通の 趣味はミリタリーモデリング。いつの日か“河井継之助ガットリングゴン射撃セット”なるも のをキット化すべく目論んでいる。)いよいよ予定時刻が迫っており、残り僅かな時間を資 料購入に充てる。詳細は次の通り。(蠱だ鐐茲硫楼羞冉圭\700/見た目はパッとしな いが良く纏った小冊子∧蠱だ鐐菁群楼羞冉圭行程絵図\600/新聞紙より一回り小さ い位の絵地図、資料価値薄くコレクション用ああ英傑河井継之助(カセットテー プ)\1000/これが白眉?パッケージはハッキリ言ってショボイが、歌詞が良いので以下三 番紹介「常在戦場もののふは・疾風のように駆け抜けた・男の誠を大地に残し・築く歴史 の礎は・蒼龍窟の道しるべ・維新の扉開く夢」肝心の音の方だが、これは三日目今町攻 略の回に譲る。いよいよ定刻、後ろ髪引かれる思いで記念館を後にする。「ああ、医王寺 もまだなのに!」と叫びつつ、ビッコを引いて駅へ急ぐ。やがて汽車が到着、入広瀬に至 る。思えば、たった40分の為にここで4.5H待ち、往復\1300の汽車賃と2.5Hの乗車時間、 おまけに右足故障。いやはや凄い一日であった。何はともあれ、無事に車に乗り、栃尾 経由長岡へと向う。 

栃尾へは来た時と同じ道を辿る。R252を右に折れR290を一気に直進。やがて栃尾の街 へと至る。一瞬、30年前にタイムスリップしたかの如く錯覚を覚える。そう、狭い通りと、 寄り添うように立ち並ぶ家々、そして雁木。私の育った街そのものが、そこには在った。あ まりの懐かしさに、時間を割きたい気持ちも有ったが、そこは我慢、入広瀬で死ぬほど時 間を使ってしまったので仕方が無い。名物の油揚げの購入に専念する。(本来ならば栃尾 城跡探索の予定であった。無念・・・) 程なく「あぶらげ」の看板が目に入り、早速停車、 店の親父にその旨を告げる。やがて“草鞋大の厚揚げ”が出てくる。「え゛っ!」と思ったが、 どうやらこれがお目当ての品らしい。びっくりしつつも5枚程購入、明日もあるのでクール 宅急便をお願いする。(後程、食して判った事だが、中身はきっちり油揚げ。多分、低温で 手間隙を掛け、揚げるものと推測するが、何れにしてもこれは旨いっ!)目的を果たし、榎峠 (前日の榎峠とは別物)のバイパス“新榎トンネル”を通過、長岡へと向う。次はお待ちか ね長岡の夜っ!

長岡到着、今日のお宿はホテルα-1。長岡駅大手口より南へ150mの所、ビルが在る。宿賃は消費税込み4850 円、駐車料金520円である。いつもであれば“先ず風呂へ”となるところだが、昼間散々温泉に浸かってきたので、 これはpass。早速夜の街へ繰り出す事とする。ところで右足の痛み、これがどうもいけない。そこで妙案、車に搭載 の珍機、キックボードなる物の使用を思い立つ。(旅の前日、江戸詰の旧友からの到来物。今回同行の、遠来の友 人を持て成すべく、馴染みの酒場で宴の最中ひょっこり現れた。連休による一時帰藩との事。)長岡藩にあやか り、最新式の装備を手に意気揚揚、居酒屋「長岡藩」へと向う。途中、友人が腕時計の購入を申し出たので、通り に在る大型店へ寄る。(旅の前日、どこかへ置き忘れたらしいが、此処での買い物が、またまた物議を醸すのであ った。)通りを左折してすぐ、長岡藩の提灯が目に入る。細い階段を上り店内へ。カウンターが一杯であったので、 しぶしぶ3卓程用意された奥のあがりに腰をおろす。(私は入り口近くのカウンター席を好む。)先ずビールを注文、 今日の出来事など語りながら店内を見回す。早速、壁に掛かった古地図“慶応年間長岡城下町絵図”の中に、河 井の名を発見! どこで入手できるかを尋ねてみた。残念ながら忘れてしまったとの事であったが、近くの図書館(市 立互尊文庫)の場所と、此処で聞いてみてはどうか?とのアドバイスを頂戴した。やがて料理が用意され、これを肴 に痛飲する。(料理は冷奴・いか納豆・刺身等、酒は大好きな久保田を二合徳利で4本位?)カウンター席でなかった 事が残念だったが、楽しく時を過ごし、ゴキゲンのまま店を出る。この後二人は、懲りもせずラーメン屋を探し求め、 夜の街を徘徊する事となるのだが、さる書店前に“良知の人 河井継之助”“長岡城奪還”と大書された横断幕を発 見、明日の最後に寄っていく事とした。「たまには、いい事あるなー」等と呑気をかます二人の明日は明るい?     つづく 

3日目

三日目最終日、本日の予定は、長岡周辺の史跡巡り、見附の今町周辺探索、そして仕上げは悠久山である。近 場とはいえ、訪れるべき場所が多く、効率よく廻る必要がある。5:30起床、さっぱりとシャワーを浴び、身支度を整 える。さて朝めしへと思っていると、何やら騒がしい様子で友人が迎えにくる。聞けば金やカード、果ては帰りの切 符までもが無くなったとの事。手には空の財布がしっかりと握られている。財布を落とす話はよく聞くが、中身だけ というのは、前代未聞である。取敢えず朝食を摂りながら、前夜の記憶の糸を辿る。しかし、互いに「世の中、酔っ 払いの記憶ほど当てにならぬものは無い」という事実を再認識するに留まった。「夕方、長岡藩へ行って訊いてみ よう」という事で話がまとまる。因みに朝食はバイキング形式で、和洋の惣菜から飲み物・果物まで、たっぷりと用 意されている。料金は、チェックイン時の前払いで800円と、満足のいくものであった。何れにしても、平穏とは、 我々にとって縁の無い言葉らしい。波乱の三日目の始まりである。  つづく    (ホテルα−1 TEL0258-37-7600)

AM7:00出発。先ずは河井の墓所へ詣でる。場所は言わずと知れた栄涼寺。長岡駅東口より線路沿いに北へ約 1Kmの所に在る。車を線路脇の一寸したスペースに停め、境内の脇からお邪魔する。本堂の裏手へ廻ると、ずい ぶんと大きく立派な墓石が目に入る。牧野の殿さん忠訓の墓である。忠義を重んずる河井のこと、此処を素通りし ていっては「この不届き者!」等と叱咤される恐れがあるので、丁寧にお参りを済ませる。さて河井の墓はという と、これより奥に高さ3m程の石柱があり『河井家の墓は此処 忠良院殿が継之助様であります』とくっきりと刻ま れている。この直ぐ横が河井の墓石であり誠に解り易い。墓には菊花が飾られ、清酒菊水の缶がお供えしてあっ た。志半ばにして只見の露と消えた河井の無念を思うとき、その心中察するに余りあるであろう。しばし感慨に耽 る私の脇で、友人も随分と熱心にお参りをしていた。やはり彼も同じ思いかと、時の過ぎゆくのを待った。(後程判っ た事だが、どうやら失物の一件を願掛して居たらしい。確かに差し迫った問題ではあるが、河井はお稲荷さんや金 毘羅さんではない。何か違う気がするのは、私だけであろうか?)その後、二見虎三郎の墓にお参りを済ませ、次 の目的地中島上陸地へと向う。 つづく

中島上陸地「明治戊辰戦蹟顕彰碑」への順路は、長岡駅大手口より大手大橋方向へ直進、橋の直前の十字路を 右折する。これより600m程直進、道路右側の路地裏に顕彰碑の建つ一寸した公園がある。もし迷う事有らば電柱 の表示「中島一丁目」を目印に少し歩いてみると良い。我々は少々手間取ったが、それもその筈、なんと公園の真 ん前、近所の住人のものと思しきでかいバンが停まっていたのである。「しょうがねーな」と思いつつ、車の裏へ廻 る。此処には顕彰碑の他「東西両軍戦死者之墓」不動明王等が祀られている。お参りを済ませ、碑文を撮影する。 碑文の大意は次の様「東西両軍の兵士三十余名の屍を火葬、西軍の遺骨は小千谷の船岡山に改葬、東軍の遺 骨は遺族が小さな墓石を草叢の間に建て弔った。路線改修によりこれらが隠滅するのを遺憾とする渡邊さんが、 自己の所有地に移修した。最後に教訓、成敗ヲ以テ順逆ヲ論ズベカラズ」なかなか趣の深い碑文である。この後 信濃川堤防上より、長州兵が船を出した対岸の本大島村方面の観測と撮影を行い、次の目的地蔵王堂へと向 う。 つづく

中島上陸地より、道なりに約1.8km北上。やがて道路が大きく右カーブを描き、柿川に掛かる橋を渡る。こ の直後左折し、奥まった所が、蔵王堂城跡である。現在では、金峯神社の境内となっているが、L字形の 濠と土塁が残されており、長岡の町の開祖とされる堀直寄の銅像が建てられている。戊辰の役では、此 処に薩摩兵が上陸し、大激戦が繰り広げられた。とは言え、対岸に向け据付けられていたであろう、砲の 陣地跡などは全くみあたらない。暫くの間、休息を兼ね、境内の散策を行う。欅などの落葉樹が生い茂 り、木陰を渡る風が心地良い。耳から入る鳥のさえずりも心地良く「夏の午後、昼寝にピッタリだな」など と思っていると、キャーキャーうるさい子供たちの声。どうやら社会科の野外学習のようだ。頻りに、石灯 籠の模様や文字、古木に掲げられた看板など書き写していた。「平和なものだな」と思いつつこの場を後 にし、伊藤道右衛門の碑・城岡へと向う。   

金峯神社の境内より東へ600m直進、駅前からの太い道との交差点を左折し、900m程直進する。栖吉川 に掛かる橋の直前を右折、直ぐに見えてくる次の橋を渡る。この栖吉川と福島江用水に挟まれた三角地 帯、城岡三丁目に伊東道右衛門の碑が在る。城岡の土手を守備する大砲隊長として布陣した六十二歳 の老戦士は、甲冑刀槍より背幟表帯に至るまで、先祖伝来又は、歴代藩主からの賜わり物にその身を 固め、退却する長岡藩兵のしんがりを務める。やがて現れた薩摩兵に対し「吾と戦はむと欲する者は来 て勝敗を決せよ」と口上を述べ、これに三名が応じ抜刀した。ところが伊東家は、代々の槍術の名家、た ちまち二名が血祭りに揚げられる。これを見た西軍は大いに驚き、「老武士惜しむべし」と言いつつも「戦 機失うべからず」と、遂に之を射殺してしまう。何たる豪胆!何と愛すべき頑固爺であろうか!石碑を前 に、柳の下で槍を操る奮戦の図を思い浮かべ、しばし感慨に耽る。しかし石碑の周りは、なんとなく学校 の花壇風であり、風情というものが感じられない。おまけに正面からはどのアングルから撮影しても、背 後にある電柱とその看板が写り込んでしまい、どうにも頂けない。此処は一つ風情のある柳の植樹を提 唱したい。物事は『カタチ』というのも大切である。さて、お次はいよいよ八町沖作戦、富島町の巻。  

城岡三丁目より2500m程東進、途中新幹線の高架とR8バイパスの下をくぐり、亀貝町の脇を通り過ぎる と富島町に辿り着く。此処で地図上の鳥居マークを目指す。この日光社の境内に長岡藩士鬼頭熊次郎 の顕彰碑が建つ。八丁沖作戦に際し、その先導を勤め、作戦を成功へと導いた武功によるものだが、当 の本人は上陸後間もなく討死してしまう。せめて長岡城の奪還を見せてやりたかったな、と思いつつ顕彰 碑を写真に収める。さて他のものは?と境内を散策するが、この日は5月としては随分暑く(朝方は皮ジャ ンだったが)Tシャツ1枚となり調査続行の結果、他の藩士や日露戦争当時の碑等を認める。また激戦の 地の事、社殿に弾跡でも無いかと探し回ったが、それらしきものは発見できなかった。次は上陸地点だ が、これは日光社の裏手(北側)200mの地点に「八丁沖古戦場」の碑が建つ公園がある。半分はゲートボ ール場となっており、じいさんばあさん達が集う。これを尻目に地図を広げ、作戦開始地点の四ツ谷方向 の観測を行い、当時の藩士達の苦労に思いを馳せる。また地蔵さんや不動明王(戦没者を弔ったものを 此処に集めたものと推察)の写真撮影を行う。思えば、この激戦の地が130余年の時を経て、じいさんば あさんが達が集い、ゲートボールなる遊びに興ずる平和な地になろうとは、流石の河井も見通せなかった であろう事は、想像に難くない。「カツーン!」と、快い打球音が皐月の空に響いた。その時一瞬、河井の 微笑む姿が心に浮かんだ。  

田んぼの中の道を北上(直線で約2500m)大黒町へと向う。此処にも西軍の堡塁が在り6/14・22と東軍 の攻撃を受けたが、これを持ち堪えた場所である。(この後7/25早暁、先刻の富島を抜かれ、東軍の長 岡城奪還と相成る) 大国主神社脇の道へ駐車、境内より八丁沖方向を眺める。100m程先、田んぼの中 にポツンと浮島の様な公園を認め、これを目指す。此処には山本五十六揮毫の「戊辰戦蹟記念碑」が建 つ。当時堡塁の在った場所を記念公園としたものと思うが、余りに整備し尽くされ(厠まで在る!)取って 付けた感を否めない。しかし此処から眺める東軍の前線、福井の集落の何と近いことよ!暗闇の中、八 丁沖北端に沿って、東方丘陵迄連なる東軍各陣地に、かがり火が列を成し揺れる光景を思い浮かべる。 今町陥落後、守勢に転じた西軍兵士の心中をふと思った。  

次の目的地、見附市の今町へと向う。此処は、長岡城陥落後、加茂に於いて反撃体制を整えた東軍諸隊 が、故城奪還に向け作戦を開始、西軍の前線を大きく南下せしめた大激戦があった場所である。概要は、山 本帯刀率いる牽制軍が、正面より西軍の主力を引き付け、河井率いる主力部隊が、側面より攻撃、といった 陽動奇襲作戦である。先ず、山本隊が砲撃を行ったという、坂井の神明社を目指す。R8バイパスを北上、見 附市に入る。これを更に北上、今町の郊外を通り過ぎ、堤防に掛かる橋を渡ると、間もなく坂井町へ入る。この 直後四つ角を左折、直ぐ広い道に突き当たるので、これをまた左折、300m程南下すると、右手に細い参道が 見える。しかし此処で困ったのは、駐車場所。短時間なので、路駐も考えたが、大型車の交通量も多く、余り 感心できる状況に無い。そこで100m程手前に在った交差点まで戻り、裏手の方へ廻り込んで見ると、デイケ アセンターの駐車場より、境内まで乗り入れ可能である事が判明した。車を降り付近の散策を行うが、此処に は石碑の類は全く無く、今町方面の観測と、社殿を背景に攻撃目標を指差す自分の姿等を写真に収め、早々 に切り上げる事とする。

さて、いよいよ今町だが、まず、神社裏手に見える北陸自動車道の下をくぐり抜け、刈谷田川の堤下迄直進、 此処より河井隊の進路を辿りつつ、川沿いを南下、今町を目指す。乾坤一擲の決戦に臨む河井の心中を思い つつ、悠然と車を進める。更に気分高揚の為、一計を案じ、あるテープを取り出す。そう、昨日只見で購入せし 「ああ英傑 河井継之助」である。早速デッキへ挿入、音楽が流れ出す。「♪チャ〜ラァララ、ラララ・・・・」一瞬、 私の目は点となり、友人の体は石のように固まる。抑揚の無いリズムボックスと渋い大正琴の響き、更にエス ニックな香りすら感じさせるフニャフニャした電子オルガン。おまけに2-3の曲間では、いきなり転調、和歌が吟 ぜられる!「しかぁ〜ばねをぉぉ〜お、ただみのぉ〜・・」 トドメを刺された我々の周りには、何とも言えぬ不思議な世界が広がってしまった。幸い通行人も居らず、事な きを得たが、これがもし、街中で在ったなら、妙な音楽を大音量で流しながらゆっくり走るセドリック、さぞかし 怪しまれたであろう事は想像に難くない。

話を元へ戻す。再び高速の下をくぐり抜け、最大の激戦地と言われる源助坂を探す。此処ぞと思われる場所を ウロウロするが、今ひとつ確証が持てない。そこで、通りがかりのじいさんに声を掛けると、案の定、ここは今 町とのご返答。それは此方とて先刻承知。昔の事ゆえ、地名が変わったかと思い、その旨尋ねると、いつ頃 かと、逆質問。「戊辰の役の頃!」とはっきり答えると「フェ〜」と呆れられてしまった。結局、判らず仕舞いのま ま、次の目的地、永閑寺を目指す。地図上には卍印が二つ在り、どちらがそれとも判らぬので、街中を適当に 流す。程なく目的地へ辿り着くが、安っぽい標柱に「戊辰戦役官軍本陣跡」とあるのみ。長岡市の史跡に比 べ、見附市は寂しい限りである。 さて、お次は最終目的地、悠久山!

  R8バイパスを一気に南下、長岡を目指す。時刻は既にPM1:30、そろそろ昼飯を摂らねばならない。遠来の友 人の事を考慮、此処は一つ、越後名物「へぎ蕎麦小嶋屋」へと、取って置きの笑顔でこれを勧める。そんな私 に対し、彼は首を縦に振らない。理由を問うてみれば「どうせビール等飲みながら1.5Hは固いだろう」との御指 摘。う〜む恐ろしい。あの旨い蕎麦を断る勇気もさる事ながら、私の事を、其処まで読んでいたとは!。堅実な る御注進に従い、コンビニ弁当+缶ビールで我慢する。程なくして目的地へと到着、北側の駐車場へ車を停め る。早速、鳥居の脇で持参の弁当を広げ、殆ど散ってしまった桜を眺めつつ、即席の花の宴と洒落込む。40分 程でお開きとし、何とか重い腰を持ち上げる。しかし、この頃より雲行きが怪しく成り始め、ゴロゴロと遠雷が響 き渡る。すわ一大事と、大急ぎで石段を登り始める二人であった。

此処、悠久山は、その全域が、公園として整備されており、桜の名所として良く知られる。三代藩主、牧野忠 辰を祀る蒼紫神社や、戊辰の役に殉じた、武士達を祀る招魂社、他にも長岡所縁の先人達の碑が彼方此方 に点在する。先ずは一番奥に在る郷土資料館へと向う。徒歩15分位の距離だが、昨日足を痛めており一寸キ ツイ。僅かに咲き残る桜並木や、林立する屋台の「おでんの香り」の中を通り過ぎる。やがて高台に、城郭風 の立派な建物が見えてくる。実はこの建物、長岡の街からも良く見え、それと知らぬ人であれば、本物の城と 言っても、決して判らぬであろう立派さである。展示品目は、長岡所縁の先人達の業績を紹介するものであ り、勿論、戊辰戦争関連のコーナも在る。河井の書や愛用の軍扇等、各種展示品を食い入るように見つめるう ち、瞬く間に時が過ぎる。今しばらく時間を取りたかったが、小雨も降り始めてきており、撤収を決める。帰り掛 けに、資料を購入、詳細を次に記す。…慌藩戊辰戦争関係資料集\1500/当時の藩士や兵卒が、綴った手 記をまとめた物。総て「候文」であり、簡単には読み下せぬが、これが逆に面白い。資料価値大。長岡の地 図\3000/元和四年(1618)〜近代までの各種絵図(地図)を掲載。カラー頁も美しく、長岡の歴史をより深く知る 為の必須アイテム。この他に、A5サイズのパンフ「越後長岡戊辰史跡めぐり」を頂戴。広げると新聞紙半分ほ どの大きさで、近在の史跡が写真付きで、実に巧く纏っている。使い勝手も良く、最大の収穫か?。この後、 河井の碑と招魂社を廻り、駐車場へ。三日間に亘る史跡巡りは、これで総て終了。軽い虚脱感の中、強まり つつある雨に急き立てられ、街中へ戻る。

さて、いよいよ最後の仕上げ、長岡市街巡回である。先ずは、昨夜チェックしておいた本屋を探す。目印はで かい“カニ”。長岡駅大手口より西へ直進、2個目の信号を右折すると、やがて“カニ”の看板が見えてくる。そ の向かいが、目指す場所である。「書林長岡TEL0258-32-1135」肝心の品揃えの方だが「およそ河井に関す る書物で、無い物は無い!」といった状況である。(彼の河井継之助傳\12000も常備) 私の購入品目は次。 (蠱だ鐐茲箸Δ曚紀行(無明社出版)\1890/A5サイズ146頁、美しい写真と詳細な解説、長岡周辺は勿論、 東北各県の史跡について広く述べられている好著。因みに、友人も同じ物と次を購入。河井継之助の真実 (東洋経済新報社)\1785/ガイドブックとして最高、筆者の河井に対する思い入れが良くわかる。更に、居酒屋 「長岡藩」で見かけた古地図“慶応年間長岡城下町絵図”も取扱っている事が判明。しかし、例の失せ物の一 件がネックとなり、涙ながらにこれを断念、店を後にする。次に、その失せ物の件で、朝の予定通り「長岡藩」 を尋ねる。少々不安な面持ちで店に入って行った友人を車内で待つが、結果はやはりダメであった。すっかり 諦めてしまった彼に対し、此処は一つ基本に戻り、交番を訪ねる事を強く勧める。気を取り直し、駅前の交番 に向うが、激しさを増してきた雨のせいか、その足取りも重い。車中で待つ事暫し・・・。やがてスキップで此方 へ向ってくる彼を認める。ホッと胸を撫で下ろし、詳細を問うてみた。どうやら途中で寄った大型店、腕時計購 入時の置き忘れを、店員さんが届けて下されたものらしい。モノは現在、警察署に保管されているとの事、そ の手に案内図が握られている。これに勢いを得た友人は、先程の書店に舞い戻り、よほど嬉しかったのであろ う、買い洩らした地図をはじめ“長岡城燃ゆ/長岡城奪還”等、次々と買い漁る。  しかし、無事に戻った落し物とは、誠に不思議なものである。状態としては、何も起こらぬ時と変わりは無い が、妙に嬉しい気持ちを抱かせ、やもすれば得をした気分にすらなれる。これを応用し、普段の生活を、質素 倹約に努めれば、一寸した事でも嬉しい気分が味わえる、というのは如何であろう?「足る事を知る」私にとっ て重要なキーワードである。 その後、案内図に従い警察署へと向い、無事その目的を果たす。時刻は既に PM6:00、街の灯が点り始めた長岡を後に、我々は家路を急ぐ。
「さ〜て、どっかの温泉でフロへって、家けってイッペやっか!」
是にて「河井ヲ偲ブ旅」越後長岡珍道中は一巻の終わり。
めでたしめでたし。    もう一寸つづく 


へもどる