河井継之助年譜

1852年(26才)
斎藤拙堂,古賀茶渓の久敬塾で蔵書を写しながら読む,佐久間象山の塾にも行くが性格が合わずにやめる。
1855年(29才)
牧野忠恭の帰城のとき、講義を頼まれるが、俺はそんな事をするために学問をしてきたんじゃあないと拒み,「御叱」をうける
1856年(30才)
川島億二郎と共に東北遊歴
1857年(31才)
家督相続。これは継之助の父の迷いに迷った挙句の判断か。ちとは落ちつくと思ったらしい。
1858年(32才)
外様吟味役となる.宮路村の庄屋と農民の葛藤を解決する.その後、遊学へ
1859年(33才)
備中松山藩山田方谷に入門.その後、四国・九州遍歴。indexの写真はその時のもの。
1860年(34才)
3度目の久敬塾,長岡へ
1860年(35才)
1年中,長岡の家で過ごしています.藩政について牧野市右衛門に意見を述べています.前の年は山田方谷の元を辞し,江戸で過ごしています.「峠」ではこの年,継之助が松を眺めていて「蒼竜窟」という雅号を付けたことになっています.
1862年(36才)
藩侯の所司代辞任を建白
「峠」ではおすがを連れて”ますや”で芸者を上げています.また,継之助が幕府など亡ばば滅べ,とこいたそうだという噂が流れ,原則論を述べています.藩侯とのやりとりもこのあたりです.
1863年(37才)
京都詰
”峠”では長岡藩が京都にいるべきではないとして,牧野忠恭の京都所司代辞任運動をしています.また,重役に物の考え方を説いています.「失敗者というものは夾雑物を過大に見,夾雑物に手を取られ足を取られ,心まで奪われてついになすべきことをせず,脇道にそれ,ますます失落の淵に落ちてしまう.」
5月, 継之助は一足先に帰国.
6月11日,牧野公京都所司代辞任.継之助の工作は成功.江戸に帰ることを許された.継之助は”江戸は不可であるいっそ越後に帰られる方がよい”と力説.
9月13日,牧野忠恭公、老中就任.継之助の観測は当たった.
1864年(38才)
正月(江戸) 物頭格御用人勤向,公用人兼帯を命ぜられる.「結局あの男が藩の中心になってきた」と継之助の義兄の梛野嘉兵衛なども,好意と不安の目で,継之助の活動を見ていた.
5月19日,笠間侯・牧野貞明と藩主の所司代辞任につき激論し,不敬の罪を得て,その職を辞する
私儀、痔疾にて引篭罷在候処着時全快の体も無御座候に付乍不本意物頭格御用人勤向公用人兼帯当詰御免被成下候様相願度奏存候此段御組頭に御内意御伺被下度奏願上候以上 五月十九日 河井継之助
おすがの好日がはじまった.自宅ですごす
1865年(39才)
再び,外様吟味役,10月郡奉行,11月山中村の庄屋と村民の紛争を円満に治める
(1)巻騒動解決,(2)水腐地処分,(3)中の口川改修,(4)山中騒動(再),(5)賄賂禁止,(6)協同的救助法制定,(7)毛見制修正, 改革を次々と着手。実現
1866年(40才)
3月,中ノ口川御普請掛,治水に尽力
11月,御番頭格,町奉行,兼郡奉行:風俗の一新,財政建て直し
1867年(41才)
4月,寄合組に列する.江戸詰
9月,支藩・小諸に出張,内紛鎮圧
11月21日中老(御年寄役)に昇進。
「峠」ではファブルブランとの商館でスネルに出会っている。商館に赴く前に”刀は武士の魂ではない”といっている。
藩主・牧野忠訓を擁して江戸を出発し,海路を持って,大阪蔵屋敷へはいる.
11月25日幕府軍艦「順動丸」に乗船、29日に西宮。30日には大阪藩邸入り。
12月15日に老中板倉勝清に拝謁し、「将軍家は関東に戻って体勢を立て直すべき」と進言
12月19日、忠訓公とともに淀川を上る。病床の忠訓公が”わしも行く”というと医者が顔色を変えた。そこで「人間の命なんざ、使うときに使わなければ意味がない」と独り言を言う(峠)
12月22日,藩主名代として議政所にいたり,建白書を奉呈する.
12月28日までその反応を待ち、29日に大阪へ戻る。そのときには大阪城内は戦闘準備が整えられている。「(勝てるのだ)と継之助は思うのである。京を陥落させるには包囲の一手しかない。薩長はたださえ少ない人数を各方面に分散せざるを得ないでありましょう。後は子供が下知していても勝ちます」(峠より) 12月29日,大阪へ
1868年(42才)
正月3日 鳥羽伏見の戦いでは長岡藩は玉津橋の警備で数は60名である。 正月6日,大阪を退去
1月7日の夜半に大阪を出発。大和路を経て伊勢松坂にいたり,海路を利用して三河吉田に至る。その後、東海道を急行し、18日に江戸に到着する。
江戸に着いたとき、「峠」では涙を流す。「涙なんてものはな、いつもおれの腹の底いっぱいに溜まっているのだ。しかし心という締め紐があってそれが一滴もこぼれぬようにできている。今は体が疲れ、心の締め紐がゆるんだ。ただそれだけでだらしもなくこのようにこぼれている。平素はもうすこしましな男だ。」
3月,江戸藩邸を処分.海路より長岡へ.藩士石高の平均を断行.
「峠」では福地について江戸城へ行き、福沢と出会っている。さらに、横浜ではエドワードスネルに出会い、立見とも議論している。「立見君、あなたの一生のために言うのだが、人というものはね」その長ずるところのものによって身を誤つものだ。
3月23日, 新潟港に着き、銅銭を売りさばき、大もうけ
3月28日, 長岡城に帰還。継之助が帰ると同時に藩論は”恭順”から”独立・中立論”へと変わる。
4月1日、藩主、藩士総登城のもと、継之助は天下の形勢、藩の方針、藩士の心得を説く。
4月3日, 新潟に行き、古屋佐久左衛門、萱野安之介(会津)、片岡九左衛門(村松)らと徳川家のための嘆願を協議する。
4月10日、安田正秀が継之助の政治姿勢に抗議する。継之助は安田を蟄居させる。
4月22日には山県有朋が北陸道鎮撫総督参謀になる。
閏4月26日には継之助は軍事総督となり、摂田屋を本陣としている。
閏4月,家老上席となる.
5月2日,西軍の軍監・岩村精一郎と小千谷で会談し,談判決裂する.
5月3日,摂田屋において開戦もやむなしと宣言する.
5月10日,榎木峠奪取.
5月11日,朝日山山頂を制する.
5月13日,朝日山攻撃で参謀時山直八戦死.
5月19日,長岡城落城.
5月21日,加茂に本営を置く.
5月25日,継之助の家族は捕らえられてしまう.
6月2日には今町の戦いにて,今町を占領し,翌日には見附町を占領している.
7月25日,八丁沖渡河作戦実行し,長岡城を奪還する.
7月25日,新町口の苦戦を督戦,重傷を負う.
7月29日,再び長岡城を失う. 8月2日,見附を発ち,3日,吉ヶ平,4日,八十里峠にかかり,5日,只見村へ.
8月12日,塩沢へ.
8月16日,瞑没.
「松蔵,火を熾んにせよ」
と継之助は一度だけ声をもらした.そのあと目を据え,やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた.(峠より)

そのとき継之助は!

2008NHK大河ドラマ”篤姫”のとき,継之助は!

 下に新撰組版もあります

大河ドラマ”篤姫” そのとき継之助は!
最終回「一本の道」(12月14日放送)江戸城を出た天璋院(宮崎あおい)のはなし。帯刀(瑛太)は足の傷が悪化し逝去する(1870年8月16日) 。 継之助は1868年に没している。1870年、帯刀が没した年に長岡藩は廃藩している。
第49回「明治前夜の再会」(12月7日放送)1868年(慶応4年)4月11日の江戸城引き渡しの前に大奥の住人達と別れを惜しむ。そして江戸城無血開城が実行。 42才.長岡.江戸城開城の前日4月10日、安田正秀が継之助の政治姿勢に抗議する。継之助は安田を蟄居させる。4月22日には山県有朋が北陸道鎮撫総督参謀になっている。閏4月26日には継之助は軍事総督となり、摂田屋を本陣としている。同時に家老上席ともなる。そして、小千谷会談は5月2日である。
第48回「無血開城」(11月30日放送)1868年(慶応4年)4月11日。3月14日に行われた勝(北大路欣也)46歳と、新政府軍参謀・西郷(小澤征悦)(42歳)の間で行われた和平交渉の結果、江戸城は開城され、新政府軍に明け渡される。その直前までのはなし。西郷の心を動かしたものは1通の手紙であった。 42才.長岡.継之助は3月23日に新潟港に着き、銅銭を売りさばき、大もうけして、3月28日に長岡城に帰還する。継之助が帰ると同時に藩論は”恭順”から”独立・中立論”へと変わる。4月1日、藩主、藩士総登城のもと、継之助は天下の形勢、藩の方針、藩士の心得を説く。4月3日には新潟に行き、古屋佐久左衛門、萱野安之介(会津)、片岡九左衛門(村松)らと徳川家のための嘆願を協議する。
第47回「大奥の使者」(11月23日放送)江戸城総攻撃前に篤姫の使者が西郷のもとに行く. 42才.江戸.継之助は3月3日まで江戸に滞在しつつ、長岡藩の近代化を実現していく。「峠」では福地について江戸城へ行き、福沢と出会っている。さらに、横浜ではエドワードスネルに出会い、立見とも議論している。「立見君、あなたの一生のために言うのだが、人というものはね」その長ずるところのものによって身を誤つものだ。
第46回「慶喜救出」(11月16日放送)鳥羽伏見の戦い勃発.朝敵になることを恐れた慶喜は江戸に逃げ帰る.その後,篤姫の説得により恭順する方針をとる. 42才.江戸へ.1月7日の夜半に大阪を出発。大和路を経て伊勢松坂にいたり,海路を利用して三河吉田に至る。その後、東海道を急行し、18日に江戸に到着する。江戸に着いたとき、「峠」では涙を流す。「涙なんてものはな、いつもおれの腹の底いっぱいに溜まっているのだ。しかし心という締め紐があってそれが一滴もこぼれぬようにできている。今は体が疲れ、心の締め紐がゆるんだ。ただそれだけでだらしもなくこのようにこぼれている。平素はもうすこしましな男だ。」
第45回「母からの文」(11月9日放送)王政復古の大号令.朝廷は慶喜(平岳大)に官位と領地の返上を命じる.母からは薩摩に帰るように文が届く.慶喜は大阪城へ 41才.11月25日幕府軍艦「順動丸」に乗船、29日に西宮。30日には大阪藩邸入り。12月22日,藩主名代として議政所にいたり,建白書を奉呈したのち、28日までその反応を待ち、29日に大阪へ戻る。そのときには大阪城内は戦闘準備が整えられている。「(勝てるのだ)と継之助は思うのである。京を陥落させるには包囲の一手しかない。薩長はたださえ少ない人数を各方面に分散せざるを得ないでありましょう。後は子供が下知していても勝ちます」(峠より)鳥羽伏見の戦いでは長岡藩は玉津橋の警備で数は60名である。
第44回「龍馬死すとも」(11月2日放送)帯刀は龍馬から大政奉還の秘策を聞き,それを諸侯に熱弁する.薩摩に帰った帯刀は龍馬暗殺の報にふれる.龍馬暗殺は慶応3年(1867年)11月15日 41才.長岡.9月に支藩・小諸に出張し,内紛を鎮圧したのち,江戸に戻り,11月21日に中老に昇進。「峠」ではファブルブランとの商館でスネルに出会っている。商館に赴く前に”刀は武士の魂ではない”といっている。
第43回「嫁の決心」(10月26日放送)和宮(堀北真希)が徳川の人間になることを決心する話.慶応2年(1866年)12月25日,孝明帝崩御。慶応3年(1867年)5月,四侯会議が帯刀らの奔走により実現するが,慶喜の策によりつぶされ,倒幕へと傾く 40才.長岡.11月,御番頭格,町奉行,兼郡奉行となり、風俗の一新,財政建て直しをおこなう。12月25日、孝明天皇崩御のときは藩庁にいたが、継之助の顔色が変わったという。「えらいことになる」(峠より)
慶応3年(1867年)4月に寄合組に列せられ,江戸詰になる。
第42回「息子の死」(10月19日放送)1866年7月20日 家茂(松田翔太)の大阪城での逝去までの話.小松帯刀(瑛太)は寺田屋での坂本龍馬襲撃事件(慶応2年1月23日(1866年3月8日))で傷ついた龍馬(玉木宏)とお龍さん(市川実日子)をかくまうため,薩摩に新婚旅行させる. 40才.長岡.郡奉行。(1)巻騒動解決,(2)水腐地処分,(3)中の口川改修,(4)山中騒動(再),(5)賄賂禁止,(6)協同的救助法制定,(7)毛見制修正, 改革を次々と着手。実現 一方、長岡藩は5月に長州追討を命ぜられ、藩主忠恭公以下570名が出陣。7月6日に大阪にて待機。
第41回「薩長同盟」(10月12日放送)慶応2年1月21日(1866年3月7日)の薩長同盟に向けた動き.小松帯刀(瑛太)と龍馬(玉木宏)が構想する.篤姫は勝(北大路欣也)を通じて薩摩と長州の接近を知る 39才〜40才.長岡.ながい自宅謹慎を許され,1865年7月には外様吟味役にもどり,10月郡奉行,11月山中村の庄屋と村民の紛争を円満に治める。継之助にはこんなにいろいろあったが、TVはあっという間にこの期間を飛ばしてしまうのね。
第40回「息子の出陣」(10月5日放送)元治元年(1864年)2月28日,島流しを終え,西郷(小澤征悦)が帰ってくる.また,元治元年7月19日(1864年8月20日)「蛤御門の変」が勃発し,薩摩藩は慶喜(平岳大)とともに勝利をおさめる.この影響により,勝(北大路欣也)の創設した海軍操練所が閉鎖の危機を迎える.また,大奥では和宮懐妊騒ぎが起こる. 38才.江戸.正月 物頭格御用人勤向,公用人兼帯を命ぜられる.「結局あの男が藩の中心になってきた」と継之助の義兄の梛野嘉兵衛なども,好意と不安の目で,継之助の活動を見ていた.5月19日,笠間侯・牧野貞明と藩主の所司代辞任につき激論し,不敬の罪を得て,物頭格御用人勤向,公用人兼帯の職を辞する.その後,長岡に帰り謹慎.
第39回「薩摩燃ゆ」(9月28日放送)将軍家茂(松田翔太)が229年振りとなる上洛.そして薩英戦争(1863.7) 37才.京都詰から長岡へ.牧野忠恭の京都所司代辞任運動をおこない,5月には継之助は一足先に帰国.6月11日に京都所司代辞任.継之助の工作は成功.継之助は”江戸は不可であるいっそ越後に帰られる方がよい”と力説.老中にされるのではないかという恐れがあったからである..9月13日 牧野忠恭公、老中就任.継之助の観測は当たった.

 

NHK大河ドラマ”新撰組!”.そのとき継之助は!
大河ドラマ”新撰組!” そのとき継之助は!
総集編(12月26日放送)明治5年 おみつさんが近藤の思いでを語る 小千谷会談決裂後の継之助は東忠にて遅い昼食を食べ,翌日,5月3日,摂田屋において開戦もやむなしと宣言する.5月10日,榎木峠奪取.5月11日,朝日山山頂を制する.しかし,5月19日には長岡城落城.5月25日,継之助の家族は捕らえられてしまう.6月2日には今町の戦いにて,今町を占領し,翌日には見附町を占領している.そして,7月25日,八丁沖渡河作戦実行し,長岡城を奪還する.しかし,新町口の苦戦を督戦中,重傷を負う.7月29日,再び長岡城を失う.8月2日,見附を発ち,3日,吉ヶ平,4日,八十里峠にかかり,5日,只見村へ.8月12日,塩沢へ. 8月16日,瞑没.

「松蔵,火を熾んにせよ」
と継之助は一度だけ声をもらした.そのあと目を据え,やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた.(峠より)

長岡藩は明治3年10月に廃藩.

第49回(最終回)「愛しき友よ」(12月12日放送)慶応4年(1868年)4月8日、勇(香取慎吾)は板橋に移され、坂本龍馬暗殺への関与や甲陽鎮撫隊の顛末(てんまつ)などを詮議される。調べに対し、勇は、龍馬暗殺への関与を否定。4月4日歳三は、勝に、勇の助命嘆願を頼むが断られてしまう。4月25日、勇は斬首となり、閏4月8日その首は京の三条河原にさらされる。 42才.長岡.4月10日、安田正秀が継之助の政治姿勢に抗議する。継之助は安田を蟄居させる。4月22日には山県有朋が北陸道鎮撫総督参謀になっている。閏4月26日には継之助は軍事総督となり、摂田屋を本陣としている。小千谷会談は5月2日であった。
第48回「流山」(12月5日放送)慶応4年(1868年)4月2日 勝海舟(野田秀樹)から、江戸近辺より立ち去るようにと命令され、新選組を流山に移動し、本陣を長岡屋に張る。翌日には西軍に包囲され、近藤は大久保大和と名乗り、投降する。 42才.長岡.継之助は3月23日に新潟港に着き、銅銭を売りさばき、大もうけして、3月28日に長岡城に帰還する。継之助が帰ると同時に藩論は”恭順”から”独立・中立論”へと変わる。4月1日、藩主、藩士総登城のもと、継之助は天下の形勢、藩の方針、藩士の心得を説く。4月3日には新潟に行き、古屋佐久左衛門、萱野安之介(会津)、片岡九左衛門(村松)らと徳川家のための嘆願を協議する。
第47回「再会」(11月28日放送)慶応4年(1868年)3月1日 江戸を戦火にさらしたくない勝海舟(野田秀樹)は隊名を甲陽鎮撫隊と改めさせ、出陣させる。近藤勇は若年寄大久保大和、土方歳三は寄合席内藤隼人となる。しかし、甲府はすでに3月4日に官軍の手に落ちている。布陣は翌5日であった。これより前に永倉は勇と袂を分かつことを決意し、左之助(山本太郎)と共に隊を去る。 42才.江戸.継之助は3月3日まで江戸に滞在しつつ、長岡藩の近代化を実現していく。「峠」では福地について江戸城へ行き、福沢と出会っている。さらに、横浜ではエドワードスネルに出会い、立見とも議論している。「立見君、あなたの一生のために言うのだが、人というものはね」その長ずるところのものによって身を誤つものだ。
第46回「東へ」(11月21日放送)慶応4年(1868年)1月11日 勇は佐々木(伊原剛志)との最後を大阪城にて立ち会い、新選組は幕府の軍艦(富士山艦?)で江戸に引き上げる。山崎が出航後間もなく死亡する。江戸に帰還した勇は松平容保(筒井道隆)から慶喜の恭順を聞かされる。 42才.江戸へ.1月7日の夜半に大阪を出発。大和路を経て伊勢松坂にいたり,海路を利用して三河吉田に至る。その後、東海道を急行し、18日に江戸に到着する。江戸に着いたとき、「峠」では涙を流す。「涙なんてものはな、いつもおれの腹の底いっぱいに溜まっているのだ。しかし心という締め紐があってそれが一滴もこぼれぬようにできている。今は体が疲れ、心の締め紐がゆるんだ。ただそれだけでだらしもなくこのようにこぼれている。平素はもうすこしましな男だ。」
第45回「源さん、死す」(11月14日放送)慶応3年(1867年)12月20日 勇は病身の総司(藤原竜也)を伴って大坂奉行屋敷にて療養のために下坂。TVでは医師・松本良順(田中哲司)の治療を受けるために大阪城へ。慶応4年(1868)1月3日に鳥羽伏見で戦端が開かれ、翌4日に源さん死す。 41,2才.京都.12月22日,藩主名代として議政所にいたり,建白書を奉呈したのち、28日までその反応を待ち、29日に大阪へ戻る。そのときには大阪城内は戦闘準備が整えられている。「(勝てるのだ)と継之助は思うのである。京を陥落させるには包囲の一手しかない。薩長はたださえ少ない人数を各方面に分散せざるを得ないでありましょう。後は子供が下知していても勝ちます」(峠より)鳥羽伏見の戦いでは長岡藩は玉津橋の警備で数は60名である。
第44回「局長襲撃」(11月7日放送)慶応3年(1867年)12月18日 慶喜(今井朋彦)は京都を出て大坂城に入る決意をし、勇に二条城を守れと命じる。慶喜の命に従い入城しようとする新選組だったが、水戸藩本国寺組と争いを起こす。その後、永井尚志(佐藤B作)に従って伏見に布陣する。12月18日 朝、阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の三人が沖田総司を襲撃するも、伏見に移った後で目的達せず。夕刻、二条城へ軍議に出掛けての帰途、伏見街道墨染辺で阿部、篠原らに、近藤勇は狙撃される。近藤は馬上右肩に銃弾を受けて逃走する。 41才.京都.12月15日に老中板倉勝清に拝謁し、「将軍家は関東に戻って体勢を立て直すべき」と進言する。19日、忠訓公とともに淀川を上る。病床の忠訓公が”わしも行く”というと医者が顔色を変えた。そこで「人間の命なんざ、使うときに使わなければ意味がない」と独り言を言う(峠)12月22日,藩主名代として議政所にいたり,建白書を奉呈する.
第43回「決戦、油小路」(10月31日放送)慶応3年(1867年)11月18日 伊東甲子太郎(谷原章介)は油小路木津屋橋で襲撃に遭い討死する。遺体を引き取りにきた七人のうち、藤堂、服部、毛内の三人を待ち受けていた新選組で斬る。この回見てないです。 41才.江戸.11月25日幕府軍艦「順動丸」に乗船、29日に西宮。30日には大阪藩邸入り。
第42回「龍馬暗殺」(10月24日放送)慶応3年(1867年)11月15日 大政奉還の献策などじゃまになり始めた龍馬暗殺を岩倉(中村有志)は、西郷(宇梶剛士)らに命じる。龍馬は見廻組に襲撃を受けるが,なんと新撰組の左之助(山本太郎)と永倉(山口智充)が護衛に向かうという。左之助が間に合わなくて、”こなくそ!”というあたり、歴史ファンへの配慮ですなあ。。 41才.江戸.小諸から江戸に戻り,11月21日に中老に昇進。「峠」ではファブルブランとの商館でスネルに出会っている。商館に赴く前に”刀は武士の魂ではない”といっている。
第41回「観柳斎、転落」(10月17日放送)慶応3年(1867年)6月22日 観柳斎(八嶋智人)が斬殺されるまでの顛末。最後は河合の墓参りをしているところ。観柳斎の自己顕示欲とか,立ち回りとか,人間くささが出ていて良かった。 41才.江戸.4月に寄合組に列せられ,江戸詰になる。9月には支藩・小諸に出張し,内紛を鎮圧している。
第40回「平助の旅立ち」(10月10日放送)慶応2年(1866年)12月25日 孝明帝(中村福助)が崩御したときの様子を描き、伊東甲子太郎(谷原章介)が一派を作り離脱しようとする話。 40才.長岡.11月,御番頭格,町奉行,兼郡奉行となり、風俗の一新,財政建て直しをおこなう。12月25日、孝明天皇崩御のときは藩庁にいたが、継之助の顔色が変わったという。「えらいことになる」(峠より)
一方、長岡藩は9月16日には兵を率いて長岡に帰ってきている。
第39回「将軍、死す」(10月3日放送)慶応2年(1866年)7月20日 谷三十郎(まいど豊)が斬殺され、左之助(山本太郎)がまさ(はしのえみ)が夫婦になり、周平(浅利陽介)が脱走失敗し養子縁組を断られ、最後に将軍が逝去するという話。 40才.長岡.郡奉行。(1)巻騒動解決,(2)水腐地処分,(3)中の口川改修,(4)山中騒動(再),(5)賄賂禁止,(6)協同的救助法制定,(7)毛見制修正, 改革を次々と着手。実現
一方、長岡藩は5月に長州追討を命ぜられ、藩主忠恭公以下570名が出陣。7月6日に大阪にて待機。
第38回「ある隊士の切腹」(9月26日放送)慶応2年(1866年)1月28日 勇は伊東甲子太郎(谷原章介)、尾形俊太郎、篠原泰之進とともに広島に出張。一方で2月12日勘定方河合耆三郎(大倉孝二)が斬に処される。哀れと言うよりほかない。 40才.長岡.郡奉行。(1)巻騒動解決,(2)水腐地処分,(3)中の口川改修,(4)山中騒動(再),(5)賄賂禁止,(6)協同的救助法制定,(7)毛見制修正, 改革を次々と着手。実現
第37回「薩長同盟締結!」(9月19日放送)慶応元年(1865年)5月21日 龍馬と中岡は下関で薩長同盟を目指すが、西郷に振られてしまい桂は憤慨。慶応2年(1866年)1月21日、近藤は龍馬捕縛の名を受け、寺田屋へ向かう。そしてついに薩長同盟が締結される。 39才.長岡.自宅謹慎中。 7月には外様吟味役にもどり,10月郡奉行,11月山中村の庄屋と村民の紛争を円満に治める。継之助にはこんなにいろいろあったが、TVはあっという間にこの期間を飛ばしてしまう。
第36回「対決見廻組!」(9月12日放送) 元治2年(1865年)3月末 見回り組との衝突や西郷と近藤の面談の話. 39才.長岡.自宅謹慎中。
第35回「さらば壬生村」 (9月5日放送) 元治2年(1865年)3月10日 西本願寺へ屯所を移す話。三谷さんのギャグ路線は捨助に託されたか??(斉藤一が”できる”というシーン) 39才.長岡.自宅謹慎中。
第34回「寺田屋大騒動」 (8月29日放送) 元治2年(1865年)2月末 深雪太夫(優香)の身請けを寺田屋でするが、そこへつね(田畑智子)とみつ(沢口靖子)が突然やってきてはちゃめちゃ騒ぎになるという三谷流ギャグ展開。つねさんの”京都にいる間、私の代わりを頼みます”という心境は男の勝手な解釈ではないかな。どう思います。女性陣。
女性陣の回答
あくまでも一個人としての意見ですが、女性の立場から見てやっぱり「勝手だな〜。」と思います。(笑) いつも物分りのいい妻ばかりではなくて、つねさんには一度くらいは心の底から叫ばせてあげたいですね。ちょっとかわいそう。 そして、あの回に関しては、男の言い訳がちょっと多かったように思うのはわたしだけでしょうか? しかし、女性は覚悟を決めたら強いです。へこたれませんよね。(KEIさん)
近藤勇は物分りが良すぎ。最初から・・・土方との対比で良く描かれているのかも? つねさんはかわいいですね。田畑智子さんがかわいいのかもしれません。私の考えではつねさんと幸さんが対決したときに、幸さんが引き下がると素敵だなと思いましたが、そうなってもまた別の女性が現れるはず。つねさんは京都に残りたかったと思います。”京都にいる間〜”の台詞はやはり現実には絶対に女性の口からはでない言葉だと思います。(明日香さん)
私もやっぱり出来過ぎな展開だなと思います。そんなにうまく行く訳ないんじゃないでしょうか?ただ、ドラマで行けば、つねさんの株は上がったので、そこだけは救われますね。山南さんの死にからめてのシーンだったので、あの展開につながったんだと思います。しかし、つねさんは可哀相です!香取くんの近藤もいい人過ぎます!あの言い訳は情ないですよね。三谷さんも、せりふなどでNHKからダメダシもあり苦労されているようです。この間、TVで脱稿したと言っていたので、今後も楽しみです。色々言われたりしてますが、これも大河の宿命ですね。意外性のある新選組物として楽しんでます。(YURIさん)
39才.長岡.自宅謹慎中。
第33回「友の死」 (8月22日放送) 元治2年(1865年)2月23日 山南(堺雅人)切腹。この放送見ていないので、やまさきさんのレポート”私どもの一家5人はテレビの前でスッカリおしめり状態で家内は最後までタオルを目元から離さなかったし、息子たちはポロポロ涙を落とし、娘の鼻をすする音で音声が聞き取りにくかった。私は不覚にも嗚咽まで洩らしてしまった。”好人物ですね。 39才.長岡.自宅謹慎中。
第32回「山南脱走」 (8月15日放送) 元治2年(1865年)2月23日 江戸から門人たちを引き連れて伊東甲子太郎(谷原章介)が新選組に加わり(元治元年10月)、屯所の移動に関して意見が割れ、山南は打ち負かされてしまう。そして姿を消す。 39才.長岡.自宅謹慎中。
第31回「江戸へ帰る」 (8月8日放送)  元治元年(1864年)9月9日 長州討征のために将軍上洛を幕閣に談判するため、近藤は永倉、尾形、武田を連れて江戸へ向かう。そのころ、京都では土方は9月6日に建白書の一件を“謀反”と決め付け、山南の反対を押し切り、下書きした葛山武八郎(平畠啓史)を切腹させる。
 先週は見逃しましたが、今週はみれました。葛山武八郎(平畠啓史)は無念だったでしょうね。よく現れていました。それから松本良順も出ていましたが、三谷流のひょうきんな人が出ると期待していただけに、ちょっと残念・・。印象がこれからの展開で変わっていくのかなあ。。
38才.長岡. 自宅でぼーと過ごす.この激動のときのブランクはやはり大きい..
第30回「永倉新八、反乱」(8月1日放送) 元治元年(1864年)8月4日 池田屋時変の恩賞金を巡って議論が分かれる.永倉の自分らは家来ではなく同士であるという意識である.永倉の山口智充ってお笑いの人だったんですね.渋い声を持っているから,今後,いろいろ出てくるのかなあ.. 38才.長岡. おすがの好日がはじまった.(「峠」)自宅でぼーと過ごす.この激動のときのブランクはやはり大きい..
第29回「長州を討て」(7月25日放送) 元治元年(1864年)7月11日 佐久間象山(石坂浩二)が河上彦斎(高杉亘)に斬殺され,7月19日蛤御門の変勃発.捨助(中村獅童)がちょこちょこと絡んでいく. 38才.長岡. おすがの好日がはじまった.自宅でぼーと過ごす.(「峠」)
第28回「そして池田屋へ」(7月18日放送) 元治元年(1864年)6月5日 京都三条小橋の旅館池田屋へ.当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名である.藤堂と沖田は途中で戦線離脱し,近藤と永倉の2名でしばらく戦闘.その後,。土方歳三が率いる二十四名が到着(到着しなかったという説あり).さて,大河はどう描くか.
土方は遅れて到着.沖田は吐血したが,階段を落っこちたと言うことにされる
38才.長岡. 「ばかなことをしたものだ」と継之助はおもった.幕府みずからが兵を用いるなどは,みずからの法治能力を否定したことになる.(「峠」)
第27回「直前、池田屋事件」(7月11日放送) 元治元年(1864年)6月1日 古高俊太郎を武田観柳斎(八嶋智人)率いる一隊が捕縛し,京の街に火を放つ計画を知る..古高を攻めるアイディアが斉藤一によるもので土方ひとりがそれを実行という設定でした. 38才.江戸.5月19日,笠間侯・牧野貞明と藩主の所司代辞任につき激論し,不敬の罪を得て,物頭格御用人勤向,公用人兼帯の職を辞する.
第26回「局長近藤勇」(7月4日放送) 文久3年(1863年)末〜翌正月 武田観柳斎(八嶋智人),目立たないという設定の山崎烝(桂吉弥)が入隊.大坂町奉行の内山彦次郎(ささきいさお)がえらい悪役で,近藤は対決姿勢をあらわにする. 38才.江戸.正月 物頭格御用人勤向,公用人兼帯を命ぜられる.「結局あの男が藩の中心になってきた」と継之助の義兄の梛野嘉兵衛なども,好意と不安の目で,継之助の活動を見ていた.
第25回「新選組誕生」(6月27日放送) 文久3年(1863年)9月16日 芹沢鴨・平山五郎・平間重助闇討. 37才.長岡.9月13日 牧野忠恭公、老中就任.継之助の観測は当たった.
第24回「避けては通れぬ道」(6月20日放送) 文久3年(1863年)9月7日 有名な土方の御法度を発表する.新見錦(相島一之)をこの法度を立てに切腹させ,次は俺の番だと芹沢(佐藤浩市)は怯える. 37才.長岡.継之助は”江戸は不可であるいっそ越後に帰られる方がよい”と力説.牧野忠恭が老中にされるのではないかという恐れがあったからである..
第23回「政変、八月十八日」(6月13日放送) 文久3年(1863年)8月18日 会津藩と薩摩藩は長州兵の禁裏警護からの締め出しを決行. 37才.長岡.継之助は”江戸は不可であるいっそ越後に帰られる方がよい”と力説.牧野忠恭が老中にされるのではないかという恐れがあったからである..
第22回「屋根の上の鴨」 (6月6日放送) 文久3年(1863年)8月12日 相撲の小野川親方(瑳川哲朗)の協力により壬生相撲興行を行い,一儲けする. 芹沢にはそれが武士のすることかといわれたので,商人を脅すことが武士のすることかと巻きかえす.久々に捨助も登場.また,相撲は龍馬や松平容保(筒井道隆)もお忍びでやってくる.捨助と松平公のからみは笑えました. 37才.長岡.牧野公は6月11日に江戸に帰ることを許された.継之助は”江戸は不可であるいっそ越後に帰られる方がよい”と力説.老中にされるのではないかという恐れがあったからである..
第21回「どっこい事件」(5月30日放送)文久3年(1863年)6月10日 とうせんぼした力士を芹沢が切り捨てるという話.このあと乱闘に発展し,沖田がはじめて人を斬る.奉行所の与力・内山彦次郎(ささきいさお)が近藤を田舎もの呼ばわりするシーンもあるが,近藤はこのことを恨んで後に内山に復讐するのではなかったかな?ささきいさおの起用なので,今後も進展があるのでは.
松平容保(筒井道隆)が近藤に今京都守護職として京に残るのは不利になるばかりと周りに言われるが,家訓を守って,逃げることはしないと言われた.近藤も感動していたが私も感動しました.
37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.京に残るのは不利になるばかりと説得中.5月には継之助は一足先に帰国.放送の翌日の6月11日に京都所司代辞任.継之助の工作は成功. ついに継之助の大河出番は遠のいた..
第20回「鴨を酔わすな」(5月23日放送)文久3年(1863年)4月21日 芹沢(佐藤浩市)の提案で揃いの羽織を新調する.近藤が赤穂浪士と同じにしようというと色ぐらい変えたらといわれる.色はお梅(鈴木京香)の意見で浅葱色にきまる.武士の切腹のときに身につける色だということである.また,この衣装は龍馬には受けるが,桂には受けなかった.この時,龍馬から清川暗殺の話を聞く. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第19回「通夜の日に」(5月16日放送)文久3年(1863年)4月8日 八木家の姑の久(正司歌江)が亡くなり,葬儀一切を浪士組で引き受けると近藤は申し出る.長州藩士・久坂玄瑞(池内博之)らが弔問に来て”数え歌”の立て札のことを文句いったりするが,芹沢が弔問にくる身なりのことを取り上げ,日本人のマナーについて注意する.今週はついに秋月すら出ない... 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第18回「初出動! 壬生浪士」(5月9日放送)文久3年(1863年)3月 幕府を揶揄(やゆ)する“数え歌”の立て札を秋月悌二郎のアイディアで新撰組に抜かせに行かせる.龍馬が八木邸に訪れるなど面白い. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第17回「はじまりの死」(5月2日放送)文久3年(1863年)3月25日,京都.芹沢(佐藤浩市)一派と浪士組の名前を巡ってやりとり.壬生狂言を見ている内に殿内義雄(生瀬勝久)の佐々木から託された監視という役目を知り席を立つ.このとき,秋月は狂言に夢中.その後,壬生狂言での内容のやりとりで,秋月は芹沢の博学ぶりをほめる.土方は山南らに対抗してなにか言えと言うが,その場では何も言えず,会津藩が帰宅したあとで,トリビアを披露する.土方は遅いと悔しがる. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中..
第16回「一筆啓上、つね様」(4月25日放送)文久3年(1863年)3月28日 江戸・京都. 会津藩主京都守護職の松平容保(筒井道隆)に面会し,会津藩預かりで市中警護をおこなうことになる.継之助ゆかりの人物としては秋月悌二郎(堀部)が登場する. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第15回「行くか、残るか」(4月18日放送)文久3年(1863年)2月29日 京都.清河八郎が浪士組を尊皇攘夷の先駆けにするのだと宣言し,これに反発する近藤と芹沢は席を立つ. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第14回「京へ到着」 (4月11日放送)ついに継之助登場か!?(^^)
見ていないので粗筋が書けません...
37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第13回「芹沢鴨、爆発」 (4月4日放送) 文久3年(1863年)2月10日 中山道・本庄宿.勇の先番宿割の仕事を試衛館のみんなで助ける話.ここで土方の才能が発揮される. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第12回「西へ!」 (3月28日放送) 文久3年(1863年)2月8日、江戸。中山道経由で京都に向かうことが決まる.勇は歳三(山本耕史)の清河八郎(白井晃)への賄賂により,宿割りという一応役付となる. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
第11回「母上行ってきます」(3月21日放送) 文久3年(1863年)2月5日、江戸。養母のふで(野際陽子)の生い立ちをふでからきき,ふでが勇に今までの無礼をわびる.ふでの生きてきた努力と勇の今の”武士になれない”あがきを重ねたのである.一方,清河八郎(白井晃)山岡鉄太郎(羽場裕一)に浪士組の目的は将軍警護ではなく,尊皇攘夷にあり!と告げる. 37才.京都詰.牧野忠恭の京都所司代辞任運動中.
ふでと勇のやりとりをみて,峠の中で継之助の言った”人は立場で生きている”と言うことを意識しました.特に身分制度の厳しかった当時はそうでしょうね.
第10回「いよいよ浪士組」 (3月14日放送)文久三年(1863年)正月17日、江戸。酒を飲んだ勢いで浪士組最高責任者の松平上総介(藤木孝)を訪ね,支度金100両の約束を取り付けるが,300名を越える浪士に圧倒され,支度金が足りない松平は仮病でたおれる. 37才.京都詰
峠では重役に物の考え方を説いています.「失敗者というものは夾雑物を過大に見,夾雑物に手を取られ足を取られ,心まで奪われてついになすべきことをせず,脇道にそれ,ますます失落の淵に落ちてしまう.」
第9回「すべてはこの手紙」 (3月7日放送)文久3年(1863年)正月17日、江戸。 講武所門前払いされ,ふらふらしていると坂本龍馬(江口洋介)と再会し,勝海舟(野田秀樹)宅でシャンパンを飲みながら,”芸術は外国,道徳は日本”という話を聞くが理解できない. 37才.同じ頃に京都詰を命ぜられ上京しています. ”峠”では長岡藩が京都にいるべきではないとして,牧野忠恭の京都所司代辞任運動をしています.
第8回「どうなる日本」 (2月29日放送) 文久2年(1862年)5月29日。幕府の講武所勤めが決まった勇は、責任者の松平主税助(藤木孝)を訪ねる。勇は主税助から教授方への就任を約束され、佐々木只三郎(伊原剛志)にも対面する.「そこで見たのは旗本たちの低落ぶりであった。 36才.この話より少し後になりますが,藩侯の所司代辞任を建白します.
「峠」ではおすがを連れて”ますや”で芸者を上げています.また,継之助が幕府など亡ばば滅べ,とこいたそうだという噂が流れ,原則論を述べています.藩侯とのやりとりもこのあたりです.
第7回「祝四代目襲名」 (2月22日放送) 文久元年(1861年)8月27日。勇(香取慎吾)の四代目襲名披露のために、府中六所明神に集った天然理心流の全門弟達が紅白に分かれて野試合する. 35才.1年中,長岡の家で過ごしています.藩政について牧野市右衛門に意見を述べています.前の年は山田方谷の元を辞し,江戸で過ごしています.
「峠」ではこの年,継之助が松を眺めていて「蒼竜窟」という雅号を付けたことになっています.

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