「不思議な縁で、不思議に心がつながるようで、不思議で す。」

 稲川先生(作家,長岡中央図書館館長,”河井継之助〜立身は孝の終りと申し候〜”(恒文社)や”長岡城奪還”(恒文社)を始め著書多数)を交えて全国の方々との継之助に関する情報交換をまとめたページです.
 稲川先生はこのページを偶然見つけられた森長岡市長からのご紹介です.
また,疑問などありましたら,蒼龍BBSの方に書き込んで下さい.稲川先生も一緒に考えて下さるそうです.

本ページの無断引用,転載は堅くお断りいたします.


第1回山田方谷シンポジウム(2004年4月11日高梁文化交流館)

 今回は日帰りで備中松山に山田方谷シンポジウム参加のために向かった.

1.テーマ : 「山田方谷先生が現代に問いかけるもの」
2.主催 :山田方谷先生シンポジウム実行委員会
3.日時 : 平成16年4月11日(日)午後3時〜午後6時
【プログラム】
午後2時開場
午後2時40分アトラクション(岡山県立高梁高等学校合唱部)
午後3時開会
実行委員会より(シンポジウムの趣意について)
来賓のことば
午後3時20分基調講演
吉備国際大学教授矢吹邦彦先生
演題「山田方谷先生が現代に問いかけるもの」
午後4時20分休憩
午後4時30分パネルディスカッション
コーディネーター:小野晋也氏(OAK・TREE主催者・新居浜市)
パネラー:野島透氏(『山田方谷に学ぶ財政改革』著者,方谷先生の子孫)
:網本善光氏(山田方谷に学ぶ会)
:はれはさん(方谷マニアックス・サイト管理者)
:上米良光一郎氏(NHK岡山放送局ディレクター)
順不同
午後6時 閉会

集合

   おなさんのセッティングにより,今回地元民代表パネラーとして参加される山田方谷マニアックス管理人のはれはさんを囲んで,談笑する.ここでは,はれはさん,おなさん,やまさきさん,やまさきさんのお嬢さん,野遊さん,かんりにんである.山田方谷マニアックスの膨大な資料がどのようにして集められたかなど伺うことができた.シンポジウム前のお忙しい中,我々の雑談に快く応じてくださったはれはさんに心より感謝である.

方谷駅と見返りの榎木

 はれはさんと別れを告げ,備中松山駅でみちこさん合流.昼食後,方谷駅へ向かう,方谷駅は心休まる風景が広がる.継之助が眺めたと思われる山河を眺めながらのんびりと過ごす.ここでは駅守のおばちゃんがおり,入場券を購入する.方谷邸跡はホームを挟んで山側である.たしか峠では方谷の登場シーンは遠くから継之助が眺めたら方谷は豆かなにかの世話をしているのではなかったか...そんなことが,なんとなく,ぴったり来る場所である.
 見返りの榎木へ移動する.袂はセメントで固められており,窮屈に生えている.記念碑も何もなく,何のいわれのある榎木か知らない人も多いという..枯れないことを祈るのみである.

矢吹邦彦先生「山田方谷先生が現代に問いかけるもの」


 現在,方谷ブームが起きているそうである.矢吹先生が東京で講演をすると,500名以上集まったそうである.幕末同様,今は危機意識が高まり,日本は変わろうとしているのではないかと言うことである.たとえば,900兆を超える自治体の負債も今までは他人事として関心無しであったが,現在は自分の問題として考えるようになってきたというわけである.そこで方谷の注目となるわけだ.
 ここで矢吹先生はウォールフレンの”権力構造の謎”に関する話をされた.なぜ日本人は日本を愛せないかというのである.日本人は愛国心,歴史がなく,危機を隠蔽している民族ということだ.”よらしむべき,知らしむべからず”という封建時代の幕府の路線を現在の官僚が取っているように見える.そういった中で根本的な改革が望まれていると言うことである.これはつらい話である.この”歴史無し”というのは自虐史観のことを指しているのだろうか...教育者の方谷の話を聞きに来て,こういった教育の欠如的な話は皮肉である.
 また,矢吹先生は”ケインズに先駆けた日本人 −山田方谷外伝−”という本も書いておられる.矢吹先生によるとドラッガーにも先駆けているという.これについてはこれから本にされるということであるから,詳細を述べるのは今はやめておく.まあ,それだけ方向の理財論は凄いと言うことである
 

 君子は義を明らかにして,利を計らず.
 
 きっとこれから流行るんだろうなあ.小泉首相が引用したりして..
 それから,河井継之助の話もされた.河井継之助の山田方谷に弟子入りするに際してお金を無心する手紙に関することである.ここで継之助は備中松山藩と相馬藩が凄いとほめている.備中松山は謝金は10万両であったが,相馬藩は30万両もあった.しかも,6万石でである.ここで,備中松山藩の山田方谷と相馬藩の学んだ二宮尊徳が浮上してくるわけである.この二人の関係については先生はすでに本にされている. 「月刊致知」(2004年5月号 株式会社 致知出版社) に掲載されているとのことである.
 
 方谷が凄いのは,儒教,仏教,老荘思想という相反する教えを矛盾なく自分の物にできているところにある.これは頂上に”誠”を置いているからできることで,実は尊徳も同じことを言っている.生き方は両者違うが,悟りは同じと言うことである,さすがに達人は相通じるところがあるものである.
 
 矢吹先生は最晩年の方谷がもっとも好きだそうである.大蔵省からの誘いがすごかったらしいが,これを断り,また,朝敵として最後まで藩主代行をした自分がいては藩に迷惑がかかるとして,刑部(小阪部)へ弟子を連れて出て行った.名誉より自分に何ができるかを考えたとき,教育があったのである.その教育を施した方谷庵と山田方谷記念館がある.ここに大政奉還の原文があるそうだ.つまり,大政奉還の原文は方谷が書いたのではないかと言うことである.時系列的に見ても妥当性があるのではないだろうか.以下にその流れを示す.
 10/3 山内容堂 板倉勝静に建白書を出す
    勝静,慶喜説得
 10/9 広島藩主も建白書を出してくる.
    慶喜決意する.
 10/13 二条城に10万石以上の大名を集めて上奏文を読み上げる(板倉勝静).
 10/16 御所からの上奏文への返事が同様に配布される
 10/19 矢吹久次郎への密書(方谷記念館への展示)
 
 10/19の密書が同じ内容であるからにして,板倉公の下で大政奉還をやり遂げたのは方谷であろうということである.なお,この当時,京都の情報は6時間あれば備中松山に伝わったそうである.馬は8000m走ることができる.宿場宿場にいるその馬をつかい,往復12時間で京都とのやりとりが可能であると言うことである.この幕府の幕引きも方谷が一枚かんでいたとは驚きであった.

パネルディスカッション

コーディネーター:小野晋也氏(OAK・TREE主催者・新居浜市)
パネラー:野島透氏(『山田方谷に学ぶ財政改革』著者,方谷先生の子孫)
:網本善光氏(山田方谷に学ぶ会)
:はれはさん(方谷マニアックス・サイト管理者)
:上米良光一郎氏(NHK岡山放送局ディレクター)

 会場に意見を問う場面が多かったが,会場の発言者は”方谷”と言うより自分の話をする方々も見受けられ, この傾向には少々失望した.しかしながら,若いパネラーの方々は素晴らしい人々であった.
 コーディネータの先生は自分の信条”夢出せ.智恵出せ.元気出せ”というのは方谷に通じるというのはしきりといっていたが,私はスローガン言葉よりも本質を知りたかった.そういう意味では網本さんはそこをついてこられるパネラーであった.どこが凄いかは後述する.網本さんは山田方谷に学ぶ会に属しておられ,アンケート調査を行ったところ,以下の結果を得たそうである.
 方谷駅の由来を知っている     89%
 方谷を知っている         66%
 藩政改革を行ったことを知っている 65%
 これは凄い数字である.これを聞いてはれはさんは地元民として正直な意見を述べる.そんなに知らんよと.
 NHKの番組を作った上米良さんは局内では誰も知らなくて,NHKのデータベースで調べても,上杉鷹山は千を越えたが,方谷はローカルニュースの1件のみであったという.ここからどうすれば知名度が上がるかという議論になり,わたしは別に知名度は上がらなくても良いではないかと思いつつ聞く.
 知名度よりもむしろ野島さんが言われた”今のヨーロッパの制度を日本にそのまま持ってこようとするやり方には無理があり,日本の伝統的なものや日本人の誇りを大切にしては”という議論に期待する.学校教育で偉人伝がなく,そういう見地で誇りが持てる教育は必要だろう.そこで網本さんは儒教などと言葉の響きが古くささを感じさせるのであって,見せ方の問題ではないかという本質を突く言葉が飛び出す.
 網本さんが言うには陽明学の実践は(1)人に会いに行く(2)人からの話をまず黙って聞くということである.現場を大事にするこころが必要で,たとえば,あいさつは人と人との関わりといった意味で”仁”の実践に当たるし,本を読むというのも黙って作者の話を聞くのと同様で重要であるといわれた.この網本さんの発言は収穫であった.
 稲川先生がよく”継之助は耳学だから..”といわれるが,これは陽明学の実践をしていたことになるのである.なるほどなあーと思っている内に.方向は方谷を有名にするにはというより,なにかを実践すべしと言う展開に至っていた.つまり,方谷あいさつ運動である.これは展開していくのか...次回の備中松山訪問の楽しみとしたい.  

解散


 シンポジウム終了後,各自解散する.解散後,なぜかケンタッキーでやまさきさん+お嬢さんと再会する.コーヒーを飲みつつ,この日の余韻を少しの間楽しんだ.

やまさきさんのレポート

方谷がブームになっているというのは喜ばしいことだ。それにしても東京での矢吹先生の講演(参加料1万5千円)に500名も集まるというのは驚きだった。
なぜ、今、方谷か?と問われれば現状の日本社会に如実に現れている病巣に現代人が気付き始め、反省と拠り所を求めているのでは無いかと思う。また、矢吹先生が言ってた法諺「法は民をして依らしむべし。知らしむべからず」は現政治に布かれているようにも思う。方谷は自分の家計を他人に明らかにし、ガラス張りにしている。

司馬遼太郎は方谷を小説に書くには難しい過ぎると言って、方谷を主人公にした本は出さなかった。しかし、「峠」に登場させる事によって当時の著名人に多くの影響を与えた人物として、そのひととなりを描いた。
方谷という人は人間として非常に「まとまりが良い人」のようであったと思う。いわゆる幕末の英傑と云われる人達は劇的であったり、過激な行動が実を結んで改革を成し遂げたり、志半ばで非業の死を遂げたりして、日本人受けする要素を持っている。しかし方谷はそんなものからも超然としていて、過去に学んだ多くの事を咀嚼し飲み込んで、周囲に溶け込んで実践していった。そして何よりも速く改革を成し遂げた。
上杉鷹山の藩政改革(借財返済)は100年かかったが、方谷は8年。長州の奇兵隊は備中松山藩の農兵隊を見習った。幕府の崩壊を早くから予言していた。等など先見性と先進性、そしてスピードが速い。

方谷を語るにあたり至誠を全うしたと人であるというのは見逃せない。矢吹先生の講演の中でも仰っておられた「春日潜菴に復する書」の中で方谷は書いています。
「王陽明の学問は誠意を主としています。致良知は誠意のなかでなされることです。そして格物が必ずつれそわなければなりません。わたしが思いますには、致良知によらなければ誠意の本体はわからず、格物によらなければ誠意の実践はできません。この致良知と格物との二つが並び進んで、はじめて誠意が実際のものとなるのです。ところがあなたのお考えでは、致良知に専一であって、格物には及んでおられません。これでは王陽明の学問と異なるのではないでしょうか。しかしながらそのあやまちは、あなたに限ったことではありません。世の陽明学を主唱する人は、口で陽明学の学説をとなえたから実践を忘れています。王陽明がしばしば致良知と言っているので、一様に口まねをして「致良知」「致良知」と言い、良知の説がまさって格物の実践がすたれました。良知は簡明で高尚な学説であり、格物はわが身に切実な実践です。簡明で高尚な学説は茫々としてとりとめがないので、そこに逃げこみやすいものです。わが身に切実な実践は細密で厳格であるので、それを守るのに困難です。守るのに困難なことを避けて、逃げこみやすいものに向うのは人情の常です。世人が安易なことに従うようになるのは、もっともなことです。さて王陽明がしばしば致良知と言うのは、理由があってのことです。王陽明の時代は、世の学問は末節に流れてとめどもなく、学問の肝要な点を知る者がいなかったのです。そこで学問のもっとも大切な点を明らかにして、その肝要な点(致良知ということ)を示したのです。」中略「あなたは陽明学を信奉することがまことに篤実で、王陽明の書物を読むことがまことに精密です。それであるのに、なお俗学のあやまちをまぬがれていません。どうぞふたたび王陽明の書物を手にとって精読をかさね、誠意の学問に従事し、実践の努力にそって行なわれるならば、必ず会得されることがありましょう。」
これと似た事を方谷が継之助に与えた陽明全集と共に忠言の中にも書き込まれている。まさしく誰よりも深く陽明学を理解していたのでしょう。
陽明学に止まらず多くの学問を習得した人であるから言える言葉なのかも知れない。

「義を明らかにして,利を計らず.」
「総じて善く天下をの事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しないものだ。」
方谷の教えが躍如として輝いています。

NHKの方谷の番組の中で堺屋太一が「健全な楽観主義」といったように、物の道理・正当な論理・真っ当な義が備わっていれば、事に当たって躊躇する事無く、思った通りの行動をすれば良いだけの事である。そこにはきっと成功が待っている。正しい考えの前には悲観するものは何も無い。という意味だと私は理解しました。

パネルディスカッションの中で網本善光さんが仰っている事を聞いていると、彼はただ単に方谷を顕彰するのでは無く、方谷の教えを実践せよ!と言っておられたように思った。方谷の事績は素晴らしい、それを高梁市民として誇りに思うのも善い事だ。しかし、もっと突っ込んで方谷がしたこと、思ったことを我々が実践してこそ意味があるのではなかろうか。と、仰っておられたのだと思う。実践主義の方谷を見習うには我々も至誠と思い遣りの気持ちを持って、何事にもトライして行くのだ!ということを。

今回、2度目の高梁入りを果たして、多くの得るものを持ち帰る事が出来たと思う。普段、独り書物を読んで吸収する知識とは違う、人と触れ合い、人の話・考えを伺って様々な方向から見直す事が出来たと思いました。これからはそれらを糧に今一度、方谷・継之助を見詰めて行きたいと思うのでした。

おなさんのレポート

おなさんはご自分のサイトに書かれています.

過去のオフ会

第1回只見・長岡オフ会(2003年11月7,8日)
飯塚先生との会談, ますやさん,八十里越古道,慈眼寺・会見の間,東忠,稲川先生とのお話,河井継之助邸跡,玉蔵院跡,観照神社

備中松山オフ報告(2003年10月11,12日)
備中松山城,頼久寺,武家屋敷,牛麓舎跡,商家資料館・文武宿花屋跡・藩校有終館跡,郷土資料館,水車跡,長瀬 方谷邸跡,旧西方村 方谷生家・方谷園,八重籬神社,高梁市歴史美術館・山中鹿之助の墓,閑谷学校

京都オフ会のレポート(2003年2月1日)
黒谷 金戒光明寺 京都守護職 会津本陣他,南禅寺,司馬遼太郎の墓,奥丹,霊山講演会「河井継之助と北越戦争」/木村幸比古学芸課,霊山歴史館 護国神社,高瀬川界隈,幾松,御所,二条城,司馬遼太郎記念館,適塾

第2回長岡オフ会のレポート(2001年8月13日)
第1回歴史シンポジウム長岡歴史会談「もっと知りたい河井継之助」報告

第1回長岡オフ会のレポート(2000年10月28日,29日)
栄涼寺,継之助邸跡,互尊社,稲川先生と対面, 稲川先生と討論会”継之助の死について”,”継之助と戊辰戦争”,森立峠,見返り地蔵, 稲川先生とショート討論”作家について”, 稲川先生と慈眼寺にて討論”継之助と談判の間,松本藩士の話”,稲川先生と東軍兵の墓石群,継之助が一杯やった料亭見学, へぎそば”わたや”,その他,”第二騎兵隊と継之助”など

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