第1回 長岡オフ(2000年10月28日,29日)

 本ページを見ていただいていた長岡市長より稲川先生をご紹介いただき,今回は稲川先生を囲んで,初めてのOFF会(2000/10/28,29)が行えました.残念な がら参加できなかった方々のために,ここで紹介していこうと考えております.

参加者

 稲川明雄先生
 男性9名,女性4名

  概略は以下の通りです.
一日目

二日目  

栄涼寺にて継之助の墓参拝

 私が栄涼寺についたのは13時少し前だった。集合時間までは墓地内を一通り見てまわった。牧野家の墓、 二見の墓を見たあと、河井さんの墓の前に。自然と墓前の前で手を合う。

 その後も墓地内をうろうろしていた時、墓地内に人影が横切った。彼はすごい勢いで墓地内を横切ったように 見えた。今思うと「M氏」(後に彼の河井さんに関する知識に誰もが驚愕することになるのだが・・・・)ではな かっただろうか?

 13時30分頃だったろうか、河井の墓前の前に佇む男性を発見。早速、話し掛ける。O氏であった。ほっと一 安心した。色々と話をしてるうちに、一人また一人と集ってきた。

 簡単な自己紹介のあと、みんなで河井さんのお墓清掃。Tさんが墓石に水をかける水入れ(きっと正式名称 があるとおもうのだが)を抱えてきた。そこに刻まれた家紋と名前が「牧野」と大きく書かれていたことに何人 が気づいたろうか?

 管理人さんが午前中に会津塩沢 ますや旅館さんで頂いたお酒の半分を墓石にかけた。そ の後、花が替えられ、ろうそくに火が点き全員に線香が配布された。一人一人、河井さんの墓前に線香を。し かし、よく見ると火の点いてない線香が多数あった。

 そこで、W氏が全部の線香に火をつけようと線香立てからそれを取り出した瞬間、線香が我妻氏の手から スルリと落ちてしまった。急いで私も一緒に拾い、火の点いているものを線香立てへ。ちょっとした珍事であっ た。(以上Hさん)

 その後、線香の火は、継之助の気迫を示すがごとく松明のように燃え上がった。 (Mさん)

 その後、河井邸へ移動した。

栄涼寺と継之助邸跡

 新幹線の中で稲川先生の著書『河井継之助』を読む。これは、前日の夕方に管理人さんに 無理を言ってお借りしたもの。東京へご出張と伺い、わざわざ私の勤務先まで届けていた だいたのだ。

 読み終えたところへ長岡到着のアナウンス。河井さんに関することは、いつもタイミング がよい。『蒼龍窟が行く』が立ち上がったのは、3年前私が初めて『峠』を読み終えた直 後だったし、初めて長岡に訪れたときは、一人旅のつもりが当日現地についてから友人と 合流することができた。河井さんは「機をみるに敏」だったらしいから、きっと助けてく れているにちがいない。しかし、私の場合はすべて見通せてそうなのではなく、多分に「 恩寵」による。この2日間も、思いがけず、信じがたいほど恵まれた旅行になった。

 改札を出ると、大手門口から真っ先に本屋に向かう。稲川先生の著書を2冊購入する。『 長岡城燃ゆ』とその続編『長岡城奪還』。残念ながら『河井継之助』は見つけることがで きなかった。 「十字路」で焼き魚定食。緊張と興奮でとてものどに通らないと思ったのに、すっかりた いらげる。 はすかいの花屋で、迷ったあげく菊が3種類入った花束を買い、タクシーで栄涼寺へ。運 転手は若いひとで栄涼寺を知らなかった。無線で聞いてくれたが、それでもわからず、メ ーターを止めて探してくれた。駅から一本道なのに。長岡人々はとても親切だ。3年前に 来たときは、見ず知らずの女性がタクシー代を握らせてくれた。春秋さんも朝日山に登っ たときにやはり親切にしていただいたとのこと。

 栄涼寺境内に入ると、前方を一人の青年が歩いている。真っ直ぐ河井さんの墓がある方向 へ向かうので、きっと参加者に違いないと思う。途中まで後ろを歩いていったが、ふと「 牧野の殿さまに挨拶もしないで河井さんのところへ行ったら叱られるな」と考え、右にま がる。すると、青年はちらっとこちらを見た。それで、なぜかよい旅になる予感がわいた 。牧野家の墓の前で手を合わせ、すぐに河井さんの墓へ。墓の後ろの空き地に既に男性ば かり何人かいた。青年はTさんであった。ハンドルネームで自己紹介するも、少し違和感 を覚える。しばらくして管理人さんがますすさんと連れ立ってくる。花だの線香だのお酒 だのをぶら下げている。その間にも少しづつ人数が 増える。まだ10分前なのにほとんど集まった感じだ。

 Tさんと、桶に水を汲みにいったところで、可愛らしい女性がこちらに歩いてきたので 「pongさんですか」と聞くと果たしてそうであった。pongさん、びっくりさせてすみませ んでした。なぜわかったかというと、ますやさんからの情報を管理人さん経由で聞いてい たの。サイトでも「ほたる」のくだりがとても気に入っていたのでした。

 墓石を掃除して、花を挿し、ろうそくと線香に火をつける。しかし、ろうそくはすぐに消 えてしまい、逆に線香は勢いよく燃え過ぎてしまった。小分けにした線香を一人一人さし 、手を合わせる。私は墓石を雑巾でぬぐったせいか、なんとなく今更みずくさいような、 照れくさいような気がして手を合わせなかった。

 その後、自動車で来た方にお願いして分乗する。女性3人はOさんにお世話になる。 長岡は初めてか、とかどこから来たか等、あたりさわりのない話をする。緊張のせいか思 わず無口になるが、Oさんのおかげで安心する(笑)。邸宅跡では、蒼龍窟の由来とな った松の木の切り株を見る。今年の春にはまだ膝ほどの高さがあったのに、もはや地面か らやっと出っ張っているだけになってしまった。そのデッパリに皆がカメラを向けるから 、ものすごいフラッシュで「ねっこ」はちょっとしたアイドルになった。民家の敷地内な ので、早々に後にする。(以上鳩時計さん)

互尊社見学

 互尊文庫へ。ここはあまり印象はない。河井さんの直筆の掛軸などがあっさり展示され ていたり、階段の手すりが2本ある、と思ったら外側の手すりは槍であった。ここでは、 山本五六の肉声を聞くことができるが、河井さんの肉声が残っていたらよかったのにと思 う。つやのある甘い声で、歌うと女中さんたちが作業の手をとめて聞きほれたそうだ。

稲川先生と対面,自己紹介

 中央図書館へ。談話室に案内される。少したって稲川先生がみえる。皆なかなか座ろうと しない。ソファが足りないのだ。図書館の職員の方が椅子をもってきてくださって、やっ と座る。が、やはり座の中心になるソファが一つ空いてしまい、Wさんが「しょうがな いなー」と言いながら座ってくださる。その後、色々な場面で我妻さんの優しさに救われ ることになるのだ。(以上 鳩時計さん)

稲川先生と討論会”継之助の死について”

 稲川先生はほほえみを絶やさなかった.そして,司馬さんの話になった.

 司馬さんは「燃えよ剣」以降非業の死について題材を求めたところ,継之助にぶつかったといわれた.しか し,継之助は非業の死と言うより,陽明学との出会いだったのである.それ以降,司馬さんはその観点から 「空海の風景」,「坂の上の雲」といった思想的なものを書いて行く.

 継之助の死は計算ずくめでもあった.格好いいというと語弊があるかもしれないが・・・.

 それは,継之助は助かっていたはずだからである.飯沼貞吉を助けた医者が継之助のそばにい た.飯沼は継之助と似たような戦傷であったようである.なぜ,医者に見せなかったのか?医者が怖かった からと言うジョークに苦笑しつつ,彼の死の予見を稲川先生は語った.なお,継之助の死因は破傷風ではな く,がすえそ(と聞こえた)である.死体がピンクである点からも分かる.

 継之助はその死により,後世に謎かけを投げかけたと言っていい.そこで死を選ぶことにより,歴史の判断 に身をゆだね,議論をも見通したのであろう.自分の死をも道具に用いたのか.継之助らしいと思った.(以上管理人記)

弾に、あたったことは、河井さんにとっては、不運でないことになりますね・・・ (Oさん)

 このお話のおかげで、私の迷いはふっきれました。河井さんを否定するのは簡単だが、肯定する方が面白い、と も稲川先生はおっしゃっていました。 (鳩時計さん)

以下,貴世さんのメモより,

おまけNOTE: 王義之(オウギシ)
  東晋の書家。321〜379年。字は逸少。書道にすぐれて、書聖と いわれる。右軍将軍に任ぜられたので、王右軍と呼ばれる。

温泉入浴・お食事会

 中央図書館まで旅館のバスで迎えにきていただく。ここでOさん、りつ子さんとお別れ 。残念です。他は一路成願寺温泉へ。車内では、前の席と後ろの席でそれぞれ盛り上がっ ていた様子。私は管理人さん、Wさん、Hさん、ますすさん、pongさんと、「河井継之 介の歌」の話。どうやら「ああ、英傑 河井継之介」という演歌があるらしい。しかも今 どきテープだ。デッキまでもってきていただいているそうで、これはあとで宴会の余興だ ね、ということになった。
 宿に到着。女将の丁寧なお迎え。下駄箱用の段ボール紙の札をもらう。部屋は3階の301、 302、303。エレベータで上がり、降りたところにもう先程の女将がいる。あれ?どうやっ て上がったの?
女性3人は303号室になった。12帖ほどだろうか、3人でちょうどよい大きさである。荷物 をおくと、pongさんがテレビをつける。日本シリーズが気になるらしい。巨人が勝てば優 勝決定なのだが、巨人ファンのpongさんは、今日は負けて、明日しっかり勝ってほしいと 言う。うーん、微妙なファン心理ですな。お茶を煎れて、よもやま話。仕事の話、プライ ベートの話。河井ファンの女性は世間一般的な幸せを得られるのだろうか、と自分のこと は棚に上げて、と。お茶を2杯飲んだところで、「お食事の準備ができました」 いわゆる宴会場へ。こちらもちょうどよい大きさ。ちと寒い。また、どこに座るかで躊躇 する。上座の3席が問題である。もちろん最後に会場イリした我妻さんの指定席だ。どう も彼だとさまになる。ビールが来るのを待って、管理人さんの乾杯の音頭。色々お任せで 申し訳ありません。その間、女将が下座の真ん中できちんと三指をついてにこにこされて いるのが印象的だった。
 ますやさんからいただいたお酒も入って、多いに盛り上がる。春秋さんとお話をする。司 馬文学について。そのうちWさんが一升瓶をもって立ち上がった。貴世さんに一杯、po ngさんに一杯。ほろ酔いかげんがいい感じ。私も一杯いただいたところへ稲川先生のご登 場。やはり手には一升瓶『菊水』。冷でどうぞ、ということで早速いただく。
 稲川先生のお席を用意していなかったので、何より早くお話が聞きたかったので、食事も そこそこに男性の大きい方の部屋へ。マイ盃は各自持参のこと。実は、特に女性陣は、W さんが(じゃなくてWさんのお話が)あまりに面白かったので、まだ手をつけていな いお皿がたくさんあった。稲川先生は気にされて、お食事は部屋に運んでもらいましょう 、と優しいお気づかい。皆が出てしまったあとで、Wさんがどこからか戻ってくる。食 事をするという。管理人さんと私で笑って待つ。そういえばWさんも余り召し上がって いなかったのでした。このくだりはなぜかとても記憶に残っている。(以上 鳩時計さん)

稲川先生と夜中まで討論”継之助と戊辰戦争”

 長岡に西軍が攻めてきたとき、城下の民には「城下を動くな」という 御触れが出ていた。 民間の被害が拡大した原因か? 河井継之助は渡河作戦が成功すると確信していた?
 河井継之助のイメージは となりのおっさんと言う感じ. 後世に、こんなに立派に書かれて、本人もびっくりしている のではないか。
 「一忍可以...百勇...」は ”一つのことを大事にしろ、それでなくては大きなことは成しえない。”と言う意味. 大橋左平の言葉にも「家のことをやれない人間は政治のことを やれない」というのが残っている。 大橋左平のような 旧幕派、佐幕派の人々は、自由民権運動に身を投じる人が多かった。
新発田藩の同盟うらぎりについて。 新発田藩は三個小隊を同盟軍(東軍)の方につめさせている。 見捨てたわけではないだろうが、新発田藩ははじめから二枚舌。 東軍は各藩の半隊ずつでひとつの小隊として行動。 混合になっていて、これで、新発田藩の小隊の動きがおかしいと 察知できた。
越後の戊辰戦争について。 鳥羽伏見の戦いなどとは全然違う。 会津藩でも、農民兵やヤクザ兵を組織。(11,12,15連隊) 長岡藩でも人足寄場の人々(とが人)を兵士として利用。 そのため,略奪とうらぎり。隊内の粛正も多かった。 戦闘時間はだいたい4:00a.m.〜10:00a.m.(夜から朝にかけて) 泥田とか極地戦。農民に畳を背負わせてその後ろに長岡兵が隠れて,撃つという話は印象的であった. イメージとしては、ベトナム戦争に近い。
夜から始まって朝10:00頃には戦闘は終了する.
兵器・銃器について。 4斤砲....1発弾を撃ったら、10分休み。 そして4発に1発は不発弾。 大砲は夜撃つ---> 夜戦防止のため。 ゲベール銃の射挺距離....50mm、口径11mm、前装式 銃の先に剣を差して突入---> 銃はそんなに撃たなかった? ほとんど空砲で撃った <--- 鉄砲の弾は互換性がない ミニエー銃、スペンサー銃、スナイドル銃、エンフィールド銃.... 元込め式は長岡藩はほとんど持っていなかった。 鬼頭熊次郎は42両(自己資金)で銃を購入した。
 河井継之助を松代藩兵が撃った、とされているが、松代藩兵は 早々に逃げているので、どうもその場所にはいなかったようだ。 薩摩藩兵ではないか?
 死者3000人。記録には、女性は戦争に参加していないはずだが、 現在でも時々死体(骨)が発掘され、女性と断定されることがある。 六文銭を胸にかけて、手を胸の前で組んだ死体。武器も一緒に 出てくる。....これは流れ弾に当たって死んだのではなく、 あきらかに埋葬されたことをあらわしている。 女性が男装して従軍したか? 戦場に女性が入り込んでいる。 家族が戦争と隣り合せでいる。 戦っている夫や父を捜しに来た女性がいたかもしれない。 子供は弾拾い...弾をつぶして再利用する。 ゲベール銃なら再利用できる。 口径11mmの鉛弾。空中で飛んでいるのが目でみれる。 撃たれると、内側から破裂する...ダムダム弾のよう。
 女性従軍についての資料は全くない.
 河井継之助の目つきの鋭い方の写真はどのように発見されたか? また、今までの穏和な(農家の百姓のような)写真との違いは?
 目つきの鋭い方が第一原版である。 金子家(村松忠左衛門)にあった。あと牧野家(殿様宅)にも。 安政六年、河井継之助が33歳のとき、長崎で写した。
どうして金子家にあったのか?
 河井継之助の家族(父・母・スガ)と山本家の人々は、 長岡城落城のとき北に逃げず東南に逃げた。 それで途中の金子家に原版を置いていった。
 目つきの穏和な方...明治時代になってから、柔和な風に写真が修正 されている。 また、山本五十六の顔に似ている.
 もうひとつの写真...幕末の第二次長州征伐の頃、大坂で撮った。 着流しを着ている。今泉鐸次郎の本に載っている。
河井継之助は探諜戦がとくい。 花輪求馬は軍事掛...作戦を考える 諜報マンに徹底させる。
(関連して)酒井貞蔵のこと。 酒井貞蔵は伝令役。もとは朱子学者。藩校崇徳館造士寮長。40歳。 伝令を大事にしている<--- 23個小隊しか長岡藩にはいない。 長沢流....鉄砲を撃ちながら馬に乗って走れる技量。 伝令役はライフル銃を持っていた。服装は黒づくめ、ダンブクロ。 北越戦争が激化してくると、あとからは馬がなくて、戦場を走った。
小千谷会談の謎.  西軍側の岩村精一郎が力がなく、小千谷に最高指令官が不在である ことを、諜報戦が得意な河井継之助がなぜ見抜けなかったのか?
また、小千谷会談は密室談判である。
  白井小助(長州)...生涯小千谷会談のことをしゃべらず
  二見虎三郎(長岡)...米沢で自害
  河井継之助(長岡)...陣没
  淵辺直右衛門(薩摩)...西南戦争で戦死
  岩村精一郎(土佐)<---この人の不明瞭な談話のみ。
  石川某(佐賀)  
  杉山壮一(長州)第二奇兵隊 
 ---> 長岡藩側が捏造している可能性が高い。
 河井継之助は、わかっていて戦争をした。勝つ戦争をする人だから、 戦争をしかけた可能性がある。
 今泉鐸次郎氏の本...今泉氏は、元の資料を処分してしまっている。
 安藤英男氏の本は、資料的には、今泉氏のまる写し。
 慶応四年四月二十六日時点で、長岡藩は臨戦体制なのに、 小千谷会談で「少し待ってくれ」はおかしい。
 五月朔日 花輪彦左衛門がそれまで薩摩側とうまく交渉して長岡に 帰ってきた。
 五月二日 (花輪が帰ってきた翌日の)小千谷会談が決裂した
 五月三日 河井は小千谷に一泊し、この日午後、長岡に帰着。
 五月四日 4:00am〜 会津・衝報隊の軍事行動
 五月六日 尾張藩側からの再会談の話を河井はけっている。
 小千谷会談の前(五月二日の)に会津の横槍が入ったとする、司馬 遼太郎氏の小説『峠』の記述は誤り。
 会津藩の動向。
  秋月梯次郎...米沢に派遣 ※『塵壷』で一緒。
  土屋鉄之助...越後に派遣 ※
  梶原平馬.....新潟に派遣
 会津側からみれば、河井(長岡藩)の中立はありえない。
 2400字の嘆願書を河井継之助が書いたというが、西軍側の史料に 小千谷会談時の嘆願書は載っていない(どの史料にも見られない)。 大政官建白書は、西軍史料に載っている。 嘆願書は初めから存在しないのではないか?
 会談が決裂したのに、慈眼寺と西軍本陣の中間地点の場所に 一泊して酒を飲んでいるなどというのはおかしい。 決裂したなら、すぐ長岡に引き上げるはず。
 「自分(河井)の首をはねて、三万両持って西軍本陣へ行け」という 逸話も、三島憶次郎の捏造の可能性がある。 三島は、戊辰戦争後の日記の記述で「東北同盟は正しい」と 書き残している。だいたい河井ともあろうものがそんなレベルの低いことを言うであろうか!
 攘夷思想があるから  明治維新のエネルギーは 日清・日露戦争、太平洋戦争へ
河井継之助の藩政改革。  宮地村とか山中村とかの騒動を解決していく上で、河井継之助 は封建体制は無理ということを悟ったと思われる。 改革のやり方....物事の本質を知る--->打開策を探る 矛盾を知りながら肯定していく人物。
 河井継之助は、経済のしくみをよく知っていた。 近代をみつけたが、政治を変えず、経済を変えようとした。 (中華人民共和国のよう) 具体的に 今川、たるべ、という商人を使って、大坂蔵屋敷に米を運び(北前船)、 5月のはざかい期に米を売り出す。5倍くらいの値段がついた。
 河井は大坂では泉屋(のちの住友)にやっかいになっている。 薩摩藩と同じようなことを長岡藩はやっている。 河井継之助の経済知識は耳学問。 長岡藩の税高を知らなくて、山田方谷に叱られたことがある。  藩政改革...ルールをつくった。 藩士の禄の借り上げをやめましょうと藩士のやる気を上昇させる。 河井継之助は「底が深くてわからない人」
永久に語り伝えられる。肯定すればするほど、評価が難しい人間になる。 引きだしがいっぱいある。
 「経世家」
 ほとんど河井が書いたものは残っていないが、河井日記(?)には 「自分は正しいことをやっていればいい。後世に残すべきではない」 という記述があり、後世の人々からどのように思われてもよい、と いう度胸、潔さのある人物だった。
藩主(藩主の弟?)をフランスに亡命させる算段をしたという逸話は 本当か?
 御用商人の日記に記述が出てくるから、本当のことだろう。 スネルは、プロシア・スイス領事の資格を借りて来ている。
賊軍に指名されなかった長岡藩は、なぜ立ち上がったのか? 河井継之助を肯定的にみたとき、どうなるか。
河井継之助を好きな人々。
 昔...銀行員、学生
 今...中小企業の専務とか
長岡藩出身の海援隊隊士....白峰駿馬、橋本キュウタロウ
河井継之助が目指したもの....究極的には、革命でしょう。 「武士はなくなる」
戊辰戦争後の長岡。
 明治四年に柏崎県(当時)は徴兵令が施行された。 他の西軍側県より1年も施行が早い。 明治新政府は、このように旧東軍側に懲罰的な施政をした。 これは民主主義ではない.  明治五年に御触れを出した人々は征韓論で破れて下野。 明治六年、帝国主義に方向転換  稲川先生のお知り合いで慶応大学の教授でジョウ・センタロウ氏は、 「明治以来の悪税制(複数税制)を廃止せよ」と単税主義を主張。
長岡には万国公法が入ってきていた。
司馬遼太郎氏の長岡の碑。越の大橋の西つめ。 蒼龍窟サイトに文章が載っている。
(以上貴世さん.管理人一部加筆)

 稲川先生のお話が続く。山椒の入った焼きお握りが2つとたくあん、こいこくが配られる。
 ほお張りながらさらにお話を聞く。そのうち、まずHさんが沈没。入れ代わりにますすさ んが沈没。お茶をついで回った際に、ますすさんは他の方のお茶より召し上がっていた様 子であった。実は新たにお酒とおつまみを買いに行ってくださったらしい。翌日、おつま みは私がいただいて、お酒の残りは、私が玄関でひっくり返して割ってしまいました。ご めんなさい。
 稲川先生がお帰りになったあと、「ああ、英傑」を聞く。カラオケまで聞いてしまい、ず っこける。Wさんの写真のコレクションを見せていただく。CD-ROMのデザインがなかな か凝っていた 翌朝は7時半の朝食を確認して散会。
 女性たちはその後、温泉へ。風呂屋や温泉の蛇口はお湯を出しっぱなしにできないことが 多いが、こちらは普通にひねればよいところが合理的だ。ご先祖はお武家さまだというこ とだ。長岡人の合理的な気質が随所に感ぜられた。私にはお湯がぬるかったが。 部屋に戻って、また話す。先生からいただいた『長岡郷土史 第26号』の中の先生の論文 で、参考文献に戸川残花を発見。私には少し気になる人物で、貴世さんに色々説明してい ただく。私は人の名前を覚えられないので、ひたすら感心してしまう。歴史の研究という のは、いったいどうなっているのだろうか。ニフティのフォーラムを始め、多くの一般人 の膨大なエネルギーが注がれているのにも関わらず、専門家、プロパーといわれる方面と の協調がほとんどないというのは、かなりもったいない気がするのだが。また、社会に出 れば非常に有能であろう方々が、働きたくない、という理由だけで、大学にこもって先達 の研究をなぞっているだけというのはいかがなものか。我が身を省みても情けないのでは あるが。
 午前1時過ぎ就寝。寝入る寸前に『諸橋大漢和』の話をする。原田先生には生前お会いし たかった。稲川先生にお会いでき、しかもお若いうちにお話ができて、なんと幸運だろう 。(以上鳩時計さん)

二日目

森立峠,見返り地蔵

朝食の時点ですでにTさんはご出発されたとのこと。ご挨拶できずに残念です。食後、貴 世さんは荷物を宅急便で送る準備。昨日一日で求められた書物の量にまたまた圧倒される 。実は、このあと、貴世さんはさらに本を買い込み、それでも『シーボルト研究』は諦め ていた。お風邪を召していらしたのに、とても嬉しそうで、こちらまで楽しくなった。 部屋で帰り仕度をしていると、春秋さん。旅館が所有している河井さん直筆の掛け軸を大 広間で見せていただく。直筆のものと、南州(西郷隆盛)自筆のもの、河井さんの師(不 明)の三幅。本物かどうかは稲川先生でも判断できないとのこと。その前で記念撮影。 女性は荷物を下ろしていたので、そのままロビーへ。Mさんがタクシーを待っておられ る。なかなかこないらしく、管理人さんが女将に確認していらした。この旅館では、稲川 先生の著書を購入することができる。会計のあと、財布の許可が出たので前日見つからな かった『河井継之助』を購入しようとしたら、一歩遅かった。最後の一冊はHさんがゲッ ト。残念。でも、その後市内の本屋さんで買えましたよ。ふきに似た山菜の煮つけをお土 産にいただいて、いざバスへ。森立峠,見返り地蔵を経由して中央図書館へ。

 小雨が降る中、森立峠へ着く。山際と山の端が水墨画のようなグラデーションをつくって いて、たいへん美しい。霞がかかってはいたが、長岡市内が一望できた。河井さんは、長 岡をどうしたかったのだろう。
草叢は急な斜面になっていて、すこし下ると見返り地蔵がある。優しい御顔をしている。 Wさんは、これをつくると言う。メジャーをおもちで、ますすさんと計測していた。さ すがに慣れた手つきで、たいへんかっこよかった。が、ますすさんが、サングラスにドラ イバー用の手袋をしていたおかげで、なんだか妖しくもあった。ヤクザ映画のワンシーン になりそうで、すてきでした。
時間もせまって、中央図書館へ。開館するまでの間、外で一服。その間に皆さんは会議室 に移動したことを、管理人さんが知らせてくださる。色々とお世話になりました。戻ろう とすると、管理人さんが携帯電話で話している。相手はますすさんであろうか。お国の言 葉で話しており、少し聞き惚れる。稲川先生の「いっぺえこと」もやわらかくて好きだ。 あまり知られていないことだが、東京の人間というのは、モノリンガルであることに劣等 感をもつことがある。どんな状況でも標準語、もしくはそれに近いことばしか話せない、 というのはたまに息苦しくなることがあるものだ。私も京ことばや美濃、土佐などに憧れ て、そういった地域の方と話すときは、まねしてみるのだが、ネイティブのひとが聞くと なってないらしい。しかし、そう指摘するのは、決まって京都か大阪の人で、それ以外の 地域の方は黙ってつきあってくれる。(以上鳩時計さん)

稲川先生とショート討論”作家について”

会議室で雑談していると、職員の方が気にされて、セルフサービスですけどお茶でもコー ヒーでもどうぞ、とおっしゃるのでありがたくいただく。全員のコーヒーをいれたところ で、稲川先生がみえる。お茶ですかコーヒーですか、と尋ねると、いやいやお客様にさせ るなぞ申し訳ない、とニコニコしていらっしゃる。私は適当で、と窓際の小さな椅子にお かけになったので、しかたなく窓の桟にお茶を置く。
「今どきのもの書きなぞは、とても儲かるものじゃありません。私でだいたい原稿用紙1 枚で4000円くらいなのですが、その中に調査費なども含まれる。2か月で1冊くらい出さな いといけなくなります。すると、毎日10枚くらい書かねばならなくなって、とても厳しい 。その他講演などを月1回くらいやったとしても。それだけで食べていくのは難しいです ね。」
それから、古本の話。
「今は古書の相場が大変下がっています。昔は10000円くらいのものは4000円くらいでひ きとってくれたのですが、今は二束三文にしかなりません。しかたないので、家に積んで あります。史料の整理なども手付かずになっているのですが、人を頼む余裕はないですね 。」
現在の出版業界は非常に苦しい。大手の出版社がつぶれたり、経営方針の転換を余儀なく されているのは周知の事実である。毎年出版されている書籍の数は年々増えているので、 回転は非常にはやい。しかし、本屋の店頭でしばらく眺めてみると分かるが、客は多いの に、実際の購入しているひとは驚くほど少ない。しかも、それでさえ軽い内容の本のこと で、専門書になるともっと厳しいのではないだろうか。出版に携わる仕事も同様で、知り 合いの校正者からは、年々仕事が減っていく上に単価も下げられていると聞く。また、装 丁を手掛けていたデザイナーも、次第にWebの仕事に重心を移している。知識を得るため のメディアそのものはまさしくマルチになっているが、Webやiモード、衛星通信といった 新しいメディアにのせるコンテンツ自体そう充実したものではない。本という媒体の問題 というよりは、消費者の知的体力、根気、または時間的余裕等が無くなっているのが大き な原因ではないだろうか.(以上鳩時計さん)

稲川先生と慈眼寺へ,討論”継之助と談判の間,松本藩士の話”

談判の間は、今回二度目の訪問でした。
 あの部屋に入ると、なぜか、心がすーと落ち着いて、何かに引き込まれるような気がします。静かに座って いると、戦の真っ最中であったであろう、あの頃の出来事が信じられないような思いです。
 司馬遼太郎の峠による記述が全てであった私にとって、小千谷談判についての稲川先生のお話はすばら しいものでした。
”どのような談判が行われたのかは、実は誰も知らないし、内容についての記述も残っていない。”
この一言。
 私は、ある意味、自らの行動により急斜面の山をよじ登ってきた継之助が行ったことの、大きな大きな”峠” が、小千谷談判ではないか、あの小千谷談判を機に、それまで民の幸せのために藩政改革に尽力をしてき た継之助は、長岡藩ともども歴史の急坂を降りていったのではないかと思っておりました。
”最初から、彼は戦争をするつもりであったのではないか?”
また、”会津藩の片貝村への攻撃が、小千谷談判の後に行われた”という稲川先生のお言葉。
Oさんへの稲川先生のご回答、
「河井さんは、勝ったらどうしようと考えたのでしょうか?」
質問したところ、
「どうしようと思ったんだろうね?」
「河井さんは、「英雄になりたい」と言っていたらしい・・・」
これらの話は、河井継之助という人物像を大きく変えるものではないでしょうか?
私にとっては、より身近に彼を感じることができるようになりました。これまで思っていたよりも、もっともっと、 人間臭い、自分の理想を具現化するために、自分の生を全うするために全力をつくした彼の生き様を、ありあ りと感じてしまいました。
このような、司馬遼太郎の理想の人物像からは読むことができない事実。

皆さんはどうお感じになりますか?(以上ますすさん)

河井さんは、思想、政治、行政、経済、軍事のどれを取っても一流なので、完璧な行動をする人のようなイメ ージですが、もっと人間臭いひとだったのかもしれませんね。(O)

歴史に名が残る人というのは、竜馬が言うように大悪人と紙一重なのかもしれませんね。(ますすさん)

以前小千谷へ行った時、「こんな絵に書いたようなヒーローが存在するのか?」と思っていました。今回再び 訪れて、私は初めて継之助を「小説の主人公・英雄」ではなく、「一人の人間」として見ることができたように 思います。ちょっと離れて客観的に見た彼もまた好きです。(pongさん)

禅の問答で、”仏とは?”乾いた糞カキヘラだ!”というものがあります。まさにそうだと思うし、そうでないと、 自分の中にしっかりと取り込めないのでしょうね。理想のままでは、きっと。(ますすさん)

稲川先生の車にも乗せていただけるということで、Wさんとますすさんにもお願いして なんとか全員分乗できることになった。では稲川先生の車に誰が乗せていただくか。きっ と全員が希望したに違いないのだが、そしてお互い同じことを考えているだろうという配 慮があって、一瞬の間ができた。そこへ、まず管理人さんが「初めて管理人特権を行使」 して決定。次に心を鬼にして手を上げたのは私であった。そして春秋さんもご希望されて 締切りとなった。他のみなさま、特にご自身の車を運転しなければならなかったお二方、 申し訳ありませんでした。
そして慈眼寺へ。
慈眼寺は初めてである。それも稲川先生とご一緒させていただくのだから、何ともぜいた くである。会見の間は思ったより小さかった。会見当時は戦時なので、ふすまや畳は外し てあったそうである。あいにく寺の付属幼稚園のイベントと重なってしまい、興をそいだ が、稲川先生のお話を聞くうちに全く気にならなくなった。会見の間の床の間の棚には、 昭和初期に撮影された一葉の集合写真が、額に入ってさりげなく飾られている。先生は無 造作にそれを中央の座卓にもってこられた。
「これは、昭和になってから、仲直りしようということで、岩村さんの血縁の方を招いた ときの写真です。向かって中央右は河井さんの親類の方、左が岩村さんのご子孫の方です 。岩村さんの方は、よく見ると彼だけが高下駄を履いています。背の低い方で、それを気 にされていたようです。また、撮影のときも、隣の河井さんを気にして少し腰を浮かせて いたそうです。そして結局岩村さんは謝罪しなかったということです。」
謝罪は、むりであったのではないだろうか。岩村高俊さんは「キョロマ」で、のちに佐賀 の江藤新平を追い込むことになるが、司馬文学から岩村さんを眺めているかぎり、あまり 好意のもてない人間ではある。しかし、自分の先祖だったとしたら、やはり時代が随分下 ったとはいえ、おいそれと頭は下げられないというのが人情ではなかろうか。同時に、当 事者でもなく、長岡の人間でもない我々が岩村さんを憎む権利はどこにもないと思う。後 世の視点で評価すること自体、実はたいへん卑怯なことかもしれないのだから。
ところで、史料に一切記載がない会見の様子とは、いかなるものであったのだろうか。再 び稲川先生のお話。
「河井さんはね、ほんとうは戦争すれば勝つと思っていて、どうやら岩村さんをあおった 節があるのです。だいたい、あの時点で藩としての態度を保留させてくれ、時間をくれ、 というのは土台無理なことは河井さんなら当然分かっていたはずです。むしろ、完全に正 当な論戦をはったことで、若かった岩村は答えられず、答えられないことによって岩村が 怒ったのではないか。たぶん薩長が勝った場合、そのあとの国家のヴィジョンが無いこと を鋭くついて、官軍としての正当性をこっぱみじんにしてしまったのではないか。この会 見に参加した人はほとんどその後すぐに死んでおり、唯一生き残った岩村がそのあと「河 井がそれほどの人物だとは知らなかったのだ」とのみ言うだけで、実際どのような話し合 いをしたかは全く話していないのです。この会見は非常に重要な意味をもつものですから 、岩村から山県に報告をしているはずですし、本来なら記録に残っていなくてはいけない はずです。それが全く残っていない。つまり官軍にとってはよほど都合が悪かったのでし ょう。さらに控えの間にいた官軍の人々も全く口を閉ざしている。聞こえなかったことに なっていますが、不調に終わったのは確かで、それなら大声になっていたはずで、聞こえ なかったはずがない。河井は、話し合いが決裂したあと、絶望的な気持で会見の間を出た とき、そこに知った人がいた、と残しています。いくつかの史料から考えると、それはど うも松本の小松アキラだったと言えるのです。不思議なことに、小松は維新後、長岡藩出 身者を非常に助けています。自藩出身者をさておいても長岡人を優遇したそうで、その理 由が分からない。(略)」(以上鳩時計さん)

稲川先生と東軍兵の墓石群,継之助が一杯やった料亭見学

慈眼寺を出て、徒歩で東軍兵の墓石群へ。山の斜面の小道に沿って、十数ほどの墓石が並 ぶ。西群では唯一、時山平八の墓石が中央に立っている。明治政府は、賊軍兵士の埋葬を 許さなかった。明治数年に至るまで、遺骸は野ざらしにされたという。幕末から西南戦争 まで遺恨の晴らし合いはこのような非常になまなましい形で行われた。まさにその場所に 自分の足で立ってみて、想像するしかなかった当時の様子が少しは身近に感ずることがで きたように思う。
長岡市内には城下町の風情など全くなく、ありふれた地方都市にすぎない。無論、市街戦 で灰燼と化した結果である。しかし、歩いて登れるほどの山腹にあるこれらの小さな墓石 群と対照することによって、逆に「何もなくなってしまった」ことに初めて戦慄を覚えた 。
ここでHさんとお別れである。山を降りて、次に西軍の墓所に向かう。市内が一望できる 位置で、手前は小さな公園になっている。少し奥まったところに、薩長、そして会津の兵 士達の墓がそれぞれ固まって立ち並んでいる。入り口に近い方半分が長州で細長いもの、 奥半分は西郷隆盛の弟他薩摩のもので、ずんぐりした形をしている。いずれもてっぺんが ピラミッドのような錐形をしているのが印象的で、先の東軍のものに比べ、礎石の数が多 く、立派なものであった。ひときわ大きくそびえたつ「戊辰役碑」の「役」の字は、単に 戦 争という意味ではなく、「悪を懲らしめる」との意、とは稲川先生の説明。とはいえ、遠 く故郷を離れて、いまも冬になれば慣れぬ雪に埋まってしまう彼等の心中は察するにあま りある。
などとつらつら考えるうちに、いつの間にか山を降りて、舗道の急な下りになる。そして 、河井さんが談判のあと立ち寄ったという料亭「東亭」へ。河井さんには、父譲りのいな せなところがあったそうだが、最後になったこの料亭ではどんな表情で酒を飲まれたのだ ろう。2階の大通りに面した広い部屋を使われたそうだが、現在では2部屋に分かれており 、3階も昭和になって普請したとのこと。一元さんお断りの格式の高い料亭で、また次に 長岡に来るときの夢ができた。(以上鳩時計さん)

へぎそば”わたや”

わたやの前でこの二日間の旅は終了。何人かはいったん駐車場に戻る。管理人さん、pong さんは稲川先生に長岡の駅まで送っていただく。管理人さんはさすがにお疲れのご様子。 私は稲川先生の車に入れておいた荷物をWさんの車へ移動。首の骨のつき方が先天的に 弱いので、重い荷物を長時間もつと肩のコリが尋常でなく、せっかくの楽しい旅が半減し てしまう。かつ、ひとの車にのっけてもらうのが非常にすきなのだ。理由は楽だから、と いうだけではないつもりなのだが、とにかく今回の旅では、非常に助かった。皆さん、ど うもありがとう。
ますすさん、春秋さんとともに他の方々の待つわたやへ戻る。へぎそば、というのは複数 人分を一つのざるに魚のうろこ状に並べて供する食べ方らしい。つなぎに海草を使ってい るので、ほんのり緑色をしていて、のどごしがつるつるしている。八人分を六人で食べて しまう。ひとり1000円ナリ。女性は700円にしていただいた。実は私が一番食べたようだ ったが。
この時点で、Wさん、貴代さん、春秋さん、ますすさん、Oさん、私の6名。ますす さんの車に小名さんが乗り、他はWさんの車に乗せていただいて、朝日山、司馬遼太郎 の碑へ。途中、先導したWさんの車に、ますすさんの車がついていったおかげで、後続 の車がすべてついてくるというハプニングが起こる。信濃川沿いに出て、河原の細い道に 車をとめる。Wさんがトランクをあけて、オペラグラスと地図を取りだし、朝日山の位 置とそこで起きた戦闘の状況を説明してくださる。Wさんは、昨晩宴席で「外国人を始 めて見たひとは確かに怖かったに違いない。自分だってすぐに攘夷派になって騒いでいた かもしれない」と飲みながら語った。そしてこの日は、ひとつひとつ朝日山のくだりを説 明しながら「自分の足で歩いて、ちゃんと納得したいんだよね」とつぶやいた。偉丈夫な り。
朝日山を右に見て、しばらく川沿いに歩くと、橋のたもとに司馬遼太郎の碑がある。 碑に刻まれた言葉は、この2日間の旅の終わりにふさわしいものであった。
「(略)武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現した藩はない。 運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。「峠」 という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き 終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。」 河井の史跡を辿るとき、皆「ちゃんと納得」したいのである。ところが、司馬さんでさえ あれだけのものを書きながら、なお昇華しない悲しみがあった。朝日山の峰峰とその向こ うに広がる天空を眺めながら、私にも小さな金属音がわずかながら聞こえたような気がし た。 (以上鳩時計さん)

  稲川先生からの手紙

”河井継之助〜立身は孝の終りと申し候〜”(恒文社)や”長岡城奪還”(恒文社)などの著作をなさっておられる稲川先生とやりとりがありました.ここで,本文をご紹介したいと思います.また,様々な疑問などありましたら,蒼龍BBSの方に書き込んで下さい.稲川先生も一緒に考えて下さるそうです.

2000.8.8

(面影の写真は消去しました.)
(大幅に略.後日追加します.)

 また蒼龍窟の号の由来となった松の倒木に,河井さんの顔が現れたという話ですが,その際の写真を探しましたが,鮮明のネガはどうも縁起が悪いということで捨てられたようです.
 不鮮明ですが,切り口に現れた面影の写真を送りますので拡大されてみて下さい.撮影年月日も調査中です.
 昭和五十年代の終わりの春頃です.
 取り急ぎ乱文乱筆で失礼申し上げます.
 不一
 稲川明雄
 八月八日

継之助の写真の消去について

継之助の命日.稲川氏の”河井継之助”を少し読み,継之助のことを少し考える.継之助の切り株の写 真を公開しているが,公開していて良いんだろうかと少し考えている.継之助に似ているが,継之助ではないかもし れないし,だいたい継之助ともあろうものが,切り口に顔を出すだろうか?
 吉田松陰が”生きながらも心の滅しているものもあれば,その身は滅んでも魂の存するものもいる”と晋 作に伝えている.継之助の魂は大きな規模で存するであろう.しかし,それは無形の形で,我々の心の中に存在し ている.

2000.7.25

(略)の部分は私個人への内容ですので,ご了承下さい.また,碧巌録引用部分も省略しております.この部分は,後ほど補完いたします.

 (略)
 まず,蒼龍窟の号の由来ですが,今泉欽次郎著の「河井継之助傳」に依拠していることは当然ですが,ご指摘のように禅から来ているのではないかということは早くからいわれておりました.
河井家の宗派はもともと曹洞禅宗を菩提所としています.現在は浄土宗寺院に墓地が入っていますが,これらは明治維新期の混乱に生じたものであります.
証拠はありませんが,参禅していたという言い伝えはあります.
その蒼龍窟の号も参禅の過程で考えてものと想定されています.
(略)
さて
河井邸の松樹でありますが,戊辰戦争後,何らかの事情によって枯れ果て最近まで二代目の松樹がありましたが,雪害のために途中から折れました,その際の切り口に河井継之助の顔が現れたと話題になったことがあります.昭和50年代の終わりの頃です.
(略)
長岡はやらないでも良い戊辰戦争を河井継之助の主張でやり,焦土になってしまったという歴史的史実のみを追う傾向があり,市民の間に必ずしも人気の高い人物ではありません.しかし,よく考えてみると,河井継之助が置かれた立場や,時代性,結果を評価するのではなく,その理想を検証することなど,
人物評価を再検証する必要もあるのではないかと考えています.
(略)



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