人物伝・河井継之助「陽明学について」



河井継之助の人生を節目節目で分けるとするとこうなるかと思います。

 

1 誕生〜陽明学を学び始めた頃(〜17・8歳)

2 江戸留学をするまで (〜26歳)

3 遊学の頃 (〜34歳)

4 藩官僚の頃 (〜41歳)

5 政治家・軍事家として.. (〜42歳)

 

1から2に至る節目としては”陽明学を知る”でしょう。

陽明学とは中国哲学の一つで朱子学に対する反措定(アンチテーゼ)として生まれた考えで明の時代に民政官・軍務官僚として活躍した王陽明なる人物がおこした学問で簡略な表現で説明をすると、「心即理」・「知行合一」で表現される事が多くあります。この2つの言葉はなんでしょう?これはこの言葉を説明するよりこの言葉が生まれた過程をお話した方がわかりやすいと思いますのでちょっと遠回りして説明します。

 

「心即理」

 

まず、朱子学で「性即理」なる言葉があります。これは「心の背理可能性を危惧して外界の誘惑から隔絶された本性が不安定な心を制御する」といった考えです。

 

これを見て「違う!」と言える人はそういないと思うのですが、言った方がいまして..その方は「それでは心がついに本来性の全現態とはなりえない。現に今ここに存在する我々に完全なる本性が賦与されているのであれば、その心こそが天理を発揮実現するのである!」って言った訳です。この違いは説明すればするほど分かり難くなるので避けますが、この考えの違いがどう表現されるかについてだけ書くと、

 

「性即理」→既成の定理を規矩準縄とみて保守化しがち

「心即理」→外在する権威や伝統的規範から自由になり独自の

      世界を開拓しがち

 

になるでしょう。なんとなくわかっていただけるような気はしますがどうでしょうか?

 

「知行合一」

 

朱子学では「知」と「行」を分割して考えます。「そりゃそうだろ」と思う方が殆どでしょうが、違う考えをする方もいて「知行とは我々の実践形態を仮に知・行と表現したまでの事で実態は分けられるものではない」と言ったそうです。

 

ここの説明は難しいんです。単なる実践強調論ではなく、「そもそもそうなのだ」と言っている訳です。

 

陽明学についてのお話はこの位にしたいと思います。最後に陽明学の影響を強く受けたと言われる歴史上の人物を挙げますと、大塩平八郎、西郷隆盛、吉田松陰などがその代表です。

 

前回までに私が紹介した河井継之助は「1 誕生〜陽明学を学び始めた頃」の段階です。これから彼は仲間達が進んでいった方向(学問で優秀な成績を残し、藩の構成員として活躍する)とは違う方へ歩き出します。藩校での学問に疑問を感じ、陽明学に傾斜し、出仕もせずに(はた目からみれば)ぶらぶらして

過ごします。24歳になって嫁をもらっても変わる事はありませんでした。

 

この時期、河井継之助の幼な友達であった男達はどうだったかと言うと、継之助がふらふら?している間に藩校崇徳館で優秀な成績をあげて助教(今で言うと大学の助手相当?)になり江戸へ向かって行きました。

 

次回はその辺りから江戸留学中の話を書こうと思います。

 

 


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