人物伝・河井継之助「最初の遊学・出仕」
河井継之助26才、遂に江戸遊学です。その年は嘉永5年(1852)、ペリー来航1年前です。最初は斎藤拙堂の塾に入りました。なぜ継之助がこの塾を選んだについて河井は言葉を残していないのですが、考えられる理由としては小林虎三郎の影響が考えられます。小林虎三郎は継之助より2年前(嘉永3)に江戸留学を果たしています。その小林は最初萩原緑野のもとで勉強を始めたのですが、 翌年に佐久間象山の塾へ通いました。そこで彼はメキメキと頭角をあらわし長州の吉田松陰と共に「二虎」と呼ばれたのですが、彼の名を一躍他塾にまで広げたのが斎藤拙堂・勝海舟との議論でした。
この縁で長岡藩と斎藤拙堂の関係が生まれたか深まったのでしょう。あと考えられるのは斎藤拙堂が津藩において藩政に深く関わった経歴があるので学者以外の面を拙堂に期待したのかもしれません。そして継之助は斎藤塾で江戸遊学を始めたのです。
やっと江戸に出てきた継之助ですが、どうも斎藤塾はあわなかったようです。よく継之助関係の本では詩文の解釈のみを追求する学風を継之助が嫌ったとされております。
確かに詩文の解釈は継之助の目的としている学問ではないのは確かでしょうから上記理由は確かに大きな要因ではあったと思います。が、どうも私の私見 だと、それよりも生まれてからずっと長岡で暮らしてきた鼻っ頭の強い男が江戸に出てきてカルチャーショックを受けて”何か”から逃げたのではないか と思います。1回逃げてしまえば腰が落ち着く事ってよくありますから。
次に継之助は幕臣古賀茶渓の久敬舎に入ります。ここは川島億次郎が嘉永2年(継之助遊学の3年前)最初に入塾した所です。ここは当時の私学の雄と言って良い存在で3代続いて学者であるために蔵書が豊富である事で諸藩の秀才が集う場所となっていました。
継之助は久敬舎に3度入塾しております。
1回目:嘉永5.春〜年末、帰国のため退塾 2回目:安政6.1.15〜6.7、西国遊学のため退塾 3回目:安政7.春〜秋、帰国のため退塾
どうも継之助は学問をする所と言うより江戸のねぐらとしてこの塾を使っていたように思えます。この塾にいれば様々な本が読めて色々な人物と会えますから。
継之助は嘉永5年に久敬舎に所属していながら佐久間象山の塾へも顔を出しています。
久敬舎→象山塾と言う流れは当時よくあったパターンのようです。諸藩の秀才は江戸の入り口として久敬舎を選び象山塾でカルチャーショックを受けるようです。 象山の塾は儒学を中心に置きつつも窮理を学び兵学・砲学と国防問題が表面化しつつある社会における秀才達が志向するものがこの塾にあったようです。
継之助は嘉永5年末に帰国し長岡にいる間、日本国にとって歴史上の節目となる大事件がおきました。
ペリーが浦賀に現れました。
6月3日に現れた黒船は日本を火にかけたやかんの如き沸騰状態にしました。当時一部屋住みだった継之助の耳にもその”大事件”は伝わりました。その時継之助は「普通やらね〜よ」と言われる突飛な行動を採りました。 まず、河井家が所有している土地の一部を売却、200両の金を得ました。その資金をもって二人の若者(誰かは不明)を浦賀へ派遣、調査を行わせました。更に継之助は自ら出府、藩主牧野忠雅(当時国防問題担当次席老中)に建白書を提出したのです。
一介の部屋住みが実家の財産を処分して資金を作り役目でもないのに人を派遣、自らも公用ではないのに出府、建白書を藩主に提出....普通しないですよね。その建白書には重臣弾劾の内容も含まれていたため藩主から「詭激に渉れり」 と言われるも「時局困難な今日、用いるべき器である」と認められ部屋住みの身から抜擢され評定方隋役目付同格になり、数々の献策を藩主に行い、職務に就くべく帰国しました。継之助は後年に至るまで『流石は常信院様(藩主忠雅) なり』と言っていたそうです。 (評定役隋役:先例を斟酌して賞罰又は新法を立案する職)
この時期に建白書を提出した少壮藩士は沢山いました。が、抜擢を受けたのは継之助くらいのもので他は無視されるか帰国蟄居を命じられたりしています。川島は嘉永6年に帰藩・小林は安政元年に帰藩・謹慎を命じられています。継之助は運が良かったのでしょう、同じ象山の影響を受けた仲間は退けられたのですから。
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