人物伝・河井継之助「挫折(辞職〜再出仕まで)」



長岡藩士河井継之助、27歳にしてとうとう出仕です。

藩主忠雅公による直々の抜擢という異例の出仕をした

継之助は帰国して大きな壁にぶつかる事となります。

それは国家老を中心とした”官僚組織”でした。国元

へ何の連絡もなしに藩主が一部屋住みを抜擢し国元へ

送ったのです。それは地元官僚組織から見れば納得が

いかないでしょう。それも過激な建言書を提出して職

を得た危険人物なのですから。

 

長岡に戻って継之助は国家老である山本勘右衛門義和

(山本帯刀義路の義父、山本五十六の義祖父)と激しく

対立したようです。継之助が就いた評定方隋役は役職

としてそれほど高い職ではないにしても藩の中枢機構

に関わる職であるために家老クラスとも関わりがあった

のです。

 

山本勘右衛門は次席家老1300石の家格であり門閥体制の

中でそれを維持すべく生きる事を宿命付けられた男でした。

また、彼は八代義質の次男として生まれ、小金井家(家老で

はない家格)へ養子に出て、兄(九代義方;嘉永3年病没、

享年47)・甥(十代美礼;嘉永5年病没、享年32)の死によ

って宗家へ復籍、家老となったために”家老であれ”との

意思があまりにも強かったのでしょう。

 

継之助のような藩秩序を無視した形で抜擢を受けた者を

受け入れる立場ではないと思います。継之助は議事の場

において何を唱えた所で『書生上りに何が解るものか』

と言われ意見は通らず、継之助は僅か数ヶ月にして辞職

をしました(安政元年正月)。

 

それから継之助は長岡でぶらぶらする生活が続きました。

すぐに江戸遊学をしようにも許可はおりない、小役人には

決してならないために職には就けない、そんな時期が続き

ました。妻すがにとっては穏やかな良い時期だったでしょ

(^^)。

 

その継之助にちょっとした出来事がありました。安政2年

7月、世子忠恭が帰国(養子初のお国入り)するにあたって

文武に秀でた者の技芸を世子が『御聴覧』なされる事になり、

継之助が経史の講義をすべく命じられたのです。これは当時

の書生にとっては光栄である事なのですが、継之助は『己は

講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる

入用があるなら講釈師に頼むが良い』と話をつっぱねてしま

いました。これには藩庁が驚き、『それならば病気にて勤め

兼ねる旨を願い出よ』と諭すも継之助は『病人でも無い者が

病気を申立つべき道理なし』と断り、藩庁から処分をうけた

のです。しかしまぁ、へそ曲がりと言うか自からの主張に正直

すぎると言うか並の男じゃないですね。

 

その沙汰書を書きますと

 

其方儀、若殿様御入部に付、文武芸事御聴覧も有之処、一流

にも不罷出候段、未壮年にて、心懸不宣、不埒の事に付、御

叱被仰付候。(五月二日)

 

そのまんまですね(^^;;

 

この一件によって継之助の再度遊学はますます難しくなりま

した。こんな危険人物を藩外に出すと何をしでかすかわから

ない、との判断を藩庁がしたからです。

 

この時期、継之助はその憂さを晴らすが如く銃の練習をしたり

川島と東北へ旅に出たり(安政3年)しています。一度役職に就

いて政治に関わってしまった継之助には辛い時期だったでしょう。

 

継之助のまわりにいる人たちもそれそれ心配しはじめ、継之助の

復職・独り立ちのために父が隠居・家督を相続する事となりました。

安政4年、継之助31歳の時でした。

 

その翌年、安政5年にやっと継之助は藩役人としてその采配を

振るう事ななります。

 

30を過ぎた危険人物、遅れてきたスーパールーキーが長岡藩に

登場するのです。

 

 


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