人物伝・河井継之助「西国遊学3」
河井継之助はこの旅においてまず、初めて江戸に 出てきた時の師匠である斎藤拙堂と会いました。 当時拙堂は第一線から退いていた(継之助訪問の 3〜4日前に隠居)ので昔の門下生が訪ねてきた のをたいそう喜んだ事でしょう。ここで継之助は 経済の話など色々聞いたようですが、斎藤拙堂が しきりに言ったのが「謹慎」の二字だったそうで す。継之助はよっぽど危険な男に見えたのかもし れません(^^;;
津を出てからの継之助は関西の風景等を楽しみな がら松山(備中)にいる山田方谷の許を目指して旅 を続けます。
(6月)26日 晴 椋本泊
元来た道を戻る。椋本宿泊。
27日 晴 石部泊
関へ出る。ここからは東海道なり。鈴鹿峠を越える 時に小笠原候(の行列)に会う。バラバラと歩き、 候の御籠脇も至って構わず勝手の物なり。松山候は 大勢であった。桑名候は至って少なかった。諸藩の 槍持ちに二本差したる者は見えず脇差しのみ。伊勢 路にて稲の実り良好なり、この分だと豊作か。石部 にて宿泊。
28日 晴 三条泊
朝立ち、草津〜矢走〜大津へ行く。三条にて「ます屋」 に宿をとる。四条を見物、感心する。宿へ帰ると雲助 共30人程の様子にあきれ返る。バクチを始め夜七ツ (午前4時)立つ。あまり寝れず昼前少し寝る。
29日 晴 逗留
終日出ず。
晦日 逗留
朝晴、夕方大雨。
7月朔日 雨 逗留
2日 晴 逗留
3日 雨 逗留
4日 朝大雨 晴
晴れてから神社仏閣をまわり、舟にて伏見まで 下り、夜船にて大坂に達す。
5日 晴 大坂泊
長岡藩蔵屋敷を尋ね、少し見物し、御屋敷にて宿泊。
6日 晴 築地泊
終日見物、「竹式」にて宿泊。
7日 晴 逗留
8日 晴 逗留
9日 晴 生瀬泊
十三川を渡り神崎、伊丹を過ぎて中山の観音へ参る。 生瀬にて宿泊。
10日 晴 有馬泊
生瀬を立ち難路を行く。未だ見ざる所の奇山風景面白し。 湯治場にて宿を取り5度入浴。夕方鼓の滝を見る。
11日 晴 兵庫泊
有馬は名高き湯治場、実に名空しからず。家数4〜500 もある由、盛んなる物なり。朝2度入浴。四ツ(午前10時) 頃立ち、六甲山を越える。風景愛すべき。7割方歩いた所で 水車の家数十件あり。皆屋根の上より水落とす。水勢疾く車 すこぶる早し。灘酒のためなり。大相の物なり。
12日 曇 高砂泊
兵庫を立ち、築島を見、清盛の墓を尋ね、敦盛の墓へ謁し、 一の谷を通り、舞子の浜へ掛り、松林の景色面白き事なり。 明石に行き柿本神社に登る。好風景なり。明石より浜辺に出、 手枕松を見、松原を過ぎて浜の松を見、尾上の松と鐘を見て 高砂に至り宿泊。
13日 晴 正条泊
高砂は家数を余程あり舟付故賑やかなり。石の宝殿を見、 曽根の天神を拝し、松を見る。播州は実に松の名所なり。 姫路へ出る。石橋の奇麗なる数々あり。正条宿泊。
14日 晴 片山泊
正条を立って赤穂へ廻る。城後の海に帆も見え好風景なり。 元禄の事思い出す。義士の墓あり。それより少し行くと塩場 あり、盛んなり。赤穂を出て一里ほどで備前に入る。赤穂よ り片山までの道、誠に艱難の道なり。
15日 晴 妹尾泊
片山を立ち、伊部を通り津山川に暫く添って岡山に達する。 水利行き届き干ばつの憂いあるまじ。水利行き届きしは熊沢 蕃山の遺徳と思われる。稲も良く出来ておりその後は菜種か 麦を作るとの事、一反にて米7俵、麦5〜6俵出来るとの事。 値は下がりそうだが、はけが良いのか総じて高値なり。
16日 大雨間々晴 松山泊
讃岐へ渡る事を考えるも大雨と当初帰路行く予定だったのが あり松山へ向かう。途中休みし処で札の話でる。松山札は隋 一との事。ある時5匁の札、不通用の聞こえある処、不通用 の物は非道と、何日迄と日を限りて触れ出し、持参引き替え 目前にて火中せるより皆感心して信じるようになったとの事。 其の外、文武を励まざる者は山へ上げる(開墾させる)など の話あり。五ツ(八時)頃松山に着き宿泊。
#ここまでが山田方谷に会うまでです。次回は方谷との話を 書きます
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