人物伝・河井継之助「西国遊学4(松山1)」



安政6(1859)年6月、安政の大獄吹き荒れる江戸

から備中松山へ向かった一人の男・河井継之助は

松山候板倉勝重を輔佐しその名声を轟かせている

山田方谷のもとで「何か」を学ぶために歩き続け、

7月16日に松山の地を踏みました。

 

(7月)17日 晴 山田宅

 

松山の宿を立ち、川に沿って3里ほど奥に入り、

昼頃山田宅に着く。昨年移り住んだ家らしく普請

も十分ではないがあたりに新開地もあり面白い所

なり。訪ねたところ、程なく山田方谷と会う事が

でき話す機会ができたので胸中(入門希望)を伝

えたところ、「篤と御答え仕る可し」と言われる。

既に受けるとの口上であった。随分親切にしてい

ただき泊めていただいた。山田方谷との話にあっ

たものの内幾つかを挙げると

 

佐久間象山には温良恭謙の一字がない

封建の世において人に使われる事出来ざるはツマラヌ物

一村に一丁ずつの新開地を申し付ける

公の水戸一条に付き、山田への諮問に答えらるる書の

後に書きし文を内々見るなどがあった。

 

#山田方谷は佐藤一斎塾で佐久間象山と同門であり、

象山の客分であった継之助との話のなかで象山の話題

が出たようです。方谷は象山とかなり意見を異とする

ところがあり、上記の評価が出たと思われます

#方谷の時代認識が出ています。

#方谷の政策の一つです。

#戊午の勅諚に関する件です。公とは松山藩主板倉勝重

の事で、安政の大獄がおきた際に井伊大老に対し当時寺

社奉行であった板倉候が建言を行い、罷免されるという

一件がありました。その建言を行うにあたって大獄前か

ら板倉候が方谷へ紛議を鎮める方策を諮問された時の答

えを記録に残したもので、井伊大老による藩主の罷免事

件が誤伝される事を恐れ残したものです。

 

18日 晴 花屋

 

昼前中、山田方谷を話す。「先ず一旦城下へ引取り二十日

には出仕するので願い(継之助の入門)の件はその時談ず

る」と言われる。昼後、松山へ帰る。山田よりの紹介状を

持って進昌一郎を訪ね、その後文武宿「花屋」に宿をとる。

宿には土屋鉄之助(会津藩士)がおり、後から稲葉隼人(松代

藩士)が法螺貝・太鼓・采配を持って来る。宿に昌一郎が訪

ねてきて土屋と3人で談じる。

 

#進昌一郎:松山藩士。山田方谷の高弟。号は鴻渓。昌平黌

に学び、後に松山藩校「有終館」の学頭、隣好掛、農兵頭、

町奉行、撫育総裁、洋学総裁等となった。

 

文武宿:文武の修行者・書生を泊めるための宿泊施設

土屋鉄之助:会津藩士。戊辰役には新練隊長として白河口で奮戦

 

19日 晴 花屋

 

朝、土屋・稲葉と3人で談ず。稲葉は取るに足らざる者

なれども法螺貝は巧みで今まで聞いた事のないものであ

った。昼後、案内をしてもらい藩校「有終館」へ土屋と

行く。多くの人物と談じる。

 

20日 昼晴 夜雨 花屋

 

昼後、山田先生の出掛宅へ招かれ土屋と行く。進と神戸

謙次郎も来て談じる。土屋は諸藩を訪ねており珍しい話

をする。露船へ乗しき事、水戸の話、仁寿山学問所(姫路)

の話など。夜四ツ(十時)頃帰宿。

 

#神戸謙次郎:松山藩士。山田方谷の門弟。号は秋山。

昌平黌に学び藩校会頭(学頭の副)となった。

 

21日 晴 花屋

 

朝、土屋・稲葉は宿を立つ。昼に山田のところへ行き、

願いの件について聞くと「今日願いを出す」との事。

昼後また行き、談じる。夕刻に進に招かれる。

山田と行き色々談を聞く。

 

22日 晴 昼頃小雨 夜雨 花屋

 

逗留

 

23日 晴 夜雨 花屋

 

逗留

 

24日 晴 夕方雨 花屋

 

道中の疲れのためかあまりに眠く、飽く迄休む。

 

25日 朝曇 昼後より風強雨降

 

#この日付で義兄武回庵(長岡藩医、長女いく子の夫)

へ松山に到着した事を伝える手紙を出しています。その

文章をアップします

 

一筆、啓上仕り候。未だ残炎退き兼ね候え共、尊家御揃、

愈々(いよいよ)御安康入らせられ、恭賀し奉り候。随っ

て私、滞り無く、相(相模)、豆(伊豆)、駿(駿河)、遠(遠江)、

(三河)、尾(尾張)、勢(伊勢)、江(近江)、城(山城)、

(摂津)、播(播磨)、備(備前)の十二州を経て、当十六日は

備中松山表へ着仕り、有難く存じ候。江戸表へ罷り出で候て

より、段々御世話に相成り、なお此度の儀、夫々御心配成し

下され、御礼、筆紙に尽し難し。憚り乍ら(はばかりながら)

御姉様(いく子)へも御礼宜敷く願い上げ奉り候。宿(長岡の

父母の家)へは大坂にて、それ迄の「日記」(塵壷の事)相い

認め申し遣し、夫よりは此方は此度認め遣しえ共、大略のみに

て、一々記す能わず。兼て御姉上様へ「日記」御約束には候え

共、其の暇なく、道中の様子も申上げず候。恐入り候え共、悪

しからず仰せ上がられ候様、願い上げ奉り候。全体、黒鬼の如

く相成り足の裏は石の如く、大丈夫罷り在り候間、少しも御案

事下さる間敷く候。先生(山田方谷)は至って温和の人にて、話

も面白く、親切に致し呉れられ候。未だ上(松山藩庁)への願い

も済まず。遠からず相い済み候わんと存じ奉り候。なお緩々落着

の上、申上ぐ可く候。書状の届き候時分は、冷気にも相い成り候

わん。折角、時候御保護遊ばされ候様、祈願仕り候。頓首。

七月二十五日 松山にて認

河井継之助

武回庵様

平安

末筆乍ら、御子様方へ宜敷く御鳳声相い成る可く候。実略之敬

を失い、意も達せず、御姉様の思召し、恐入り候え共、御仁免

相い願い候。

 

#こうじた手紙を見ていると、鋼鉄のような硬さを持ったイメ

ージの男である河井継之助の別な一面が見えますね。言い訳し

ていたり"御姉様”が何度も出てきたり..

 

26日 晴 四ツ時分霧雨

 

27日 晴

 

#次回には会津の秋月悌次郎が出てきます。

 

 


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