人物伝・河井継之助「西国遊学6(松山3)」



何事かを学ぶために備中松山まで来た河井継之助は、

山田方谷へ入門の願いを伝え文武宿「花屋」に逗留

し結果を待ちました。それから半月あまりして許可

が得られ旧藩主別荘である「水車」に住み山田方谷

と接する事ができるようになりました。

 

8月8日 曇 夕雨

 

長瀬(山田方谷が開墾を行い居住していた所;方谷は

月の半分を長瀬にて開墾を行い、後の半分は松山にて

執務を行っていた)に行き、山田方谷と話す。「誠心

より出ずれば、敢えて多言を用いず。」等のあり。

 

9日 曇 夕雨

 

長瀬にて過ごす。

 

10日 晴

 

長瀬にて過ごす。

 

11日 晴 夕大雨

 

朝、長瀬を立ち方谷と共に「水車」へ帰る。夜に三島

中洲来る。三人で談話(酒、茄子、玉子を食す)。

 

#三島中洲:

天保1(1831).12.9〜大正8(1919).5.12 山田方谷の

高弟、明治以降漢学者・法律家。

備中中島村に生まれる。山田方谷・斎藤拙堂に師事し

朱・陽明・古学を学ぶ。後に昌平黌に入り佐藤一斎・

安積艮斎等に学ぶ。松山に戻り有終館にて教鞭をとり、

学頭まで進む。明治5年司法省出仕、大審院特選判事等

を歴任、明治10年に二松学舎を創設。後東京師範学校

出講、東京大学文科大学古典科教授となり明治19年

退官。再度法曹界に入り民法修正に当たる。後、東宮

御用掛、宮中顧問官も務めた。山田方谷が現在高い評価

を受けているのは”三島先生の先生”であった事が大き

く影響している。

 

12日 朝大雨

 

昼後、山田先生帰る。

 

13日 晴

 

進等と三島宅へ行く。蔵書を見る。夕飯に酒あり。

 

14日 晴

 

袴地を買う。

 

15日 晴 時々曇

 

夜五ツ(8時)より四ツ(10時)過迄明月なり。

 

#日記の様子から河井の生活がうかがえますね。相変わらず

型通りの学問はあまりしていないようです。しかしながら、

この頃の河井は松山藩の柱石たる人物達(山田の他進、三島

等)から行政に関わるシステムや機密事項についての情報を

得ており、この遊学の経験によって後年長岡藩の改革を行う

際に活用しています。越後の蒼龍は天に登るためのエネルギ

ーを少しずつ貯えているのです。

 

 


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