人物伝・河井継之助「西国遊学9(備中・讃岐)」
前回まで松山での話をしてきました。今回から 備中松山を出て讃岐〜備後〜安芸〜周防〜長門 〜豊前〜筑前〜肥前〜肥後〜筑後〜備後〜松山 と、松山に戻るまで、9月18日から11月3 日までの1ヵ月半あまりの旅に出ます。これか らも旅日記『塵壷』をベースに日記の形で書き 記していきます。
「人物伝・河井継之助」を読んでいただいてい る方の多くは、西国遊学の日記に少々飽きがき ているかと思いますが、あえて書きます。と言 うのは、世間で多くの河井継之助について書か れている小説等書籍がありますが、内容に中だ るみが出てしまうため、かなり省略して書かれ ているものが殆どです。かと言って、この時期 の継之助を追う事は非常に重要であります。そ こで、『塵壷』を購入されて読まれる方もかな りいるかとは思いますが、実はこの本、読みか けの状態で書籍棚の飾りになる事が多く、河井 継之助ファンでも”頑張って”読んだものの、 内容は殆ど憶えていない方が多いです。そうし た事もあって、ここで敢えて長々と書き、少し でも読んでいただけたらと思っています。佐賀 〜長崎あたりのくだりはけっこう面白い所もあ りますので読みやすいかと思います。
ここで、旅に入る前に、備中松山での出来事を 一つ書きます。前回までで書き忘れていたもの で(^^;;;
皆さんは河井継之助について書かれた『峠』を 読まれていますでしょうか?著者は司馬遼太郎 先生、言わずと知れた大作家ですね。この作品 の中で、江戸遊学中にあった出来事として風呂 場での喧嘩仲裁が書かれています。この話のタ ネはどうも備中松山時代のエピソードのようで す。松山で職人を仲裁した話を江戸でチンピラ を仲裁した話にしたあたりは、「さすが司馬先 生」と思いますね。
ここから旅に戻ります。
9月18日 曇時々小雨 玉島泊
五ッ(午前八時)頃、「花屋」を立つ。川に添って 山陽道本道に出る。そこから2里ほど進み、玉島に 至る。この夜、天候不良のため船が出ず、林(山田 方谷高弟)宅にて夕飯を食し、妹の琴を聞き、「小 島屋」に宿す。
19日 晴 逗留 船中泊
玉島を見学する事とする。話を聞くと貯米など以前 (山田方谷が改革を行う前)とは雲泥の差があると の事。山田先生の物事に達するを感心する。新町を 通り「円通寺」へ行く。禅寺にて山頂にあり、庭の 大石、古松、讃州諸山、近くの諸島を見る、良い景 色なり。玉島は広大にはあらざれども、繁華にて、 思いしより好き所なり。夜五ッ(八時)頃、船の乗 る。晴のため月星照り輝き、良い風景なり。
※円通寺:星浦観音とも言う。北越の奇僧・良寛が 約20年も修行した寺である。良寛と継之助の父・ 代右衛門は親交があり、時々良寛は河井の屋敷に足 を運んでいる。きっと継之助は良寛が修行した事を 知っていて、この寺に足を運んだのであろう。
20日 晴 船中泊
暁七ッ(午前四時)前に丸亀に着く。船宿に入るも 朝飯の仕度もないため直ちに出かける。金毘羅を目 指して歩く。丸亀(京極家、5万5千石城下町)は 石高の割に城市共に宜しい様に思われる。金毘羅の 手前五六町のところで日が出る。さすがに街道だけ あって道幅も広い。「とら屋」にて朝飯を食う。宿 に荷物を預け山へ参詣す。本堂の立派さは目を驚か すものである。紺青の画、柱の朱塗り、綺麗である。 下って宿へ寄り、荷物をとり、直ちに多度津(讃岐、 港町)へ向かう。 途中、善通寺に寄るも名ばかりで失望す。多度津に て船宿に入り昼飯を食い、船に乗り込み、夜出発。
#20日に乗った船で備後へ向かいます。
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