人物伝・河井継之助「西国遊学11(安芸・周防・長門)」



河井継之助が松山を立って一週間あまりたち、

諸藩の領地に目をむけ楽しみながら観察し行

政官としての資質を高めてますが、とうとう

長州に足を入れる事になります。今回は宮島

から長州にかけてのくだりです。

 

9月25日 晴 船中泊

 

草津から巌島に船にて向かう。天気好し。島々

諸山の好風景を眺める。五ッ(午前8時)頃到

着。宮島には富(富籤、現在の宝くじ)あり。

札1枚が2朱で当たれば2、3、5両、100

両余りにもなる由。直ちに彌山を登る。此の山、

十八丁にて寺あり、更に頂へ登ると広島他辺り

を眼下に見下ろす。此の島唯一の高山故、四方

見晴しが良く、中国・四国・九州の遠き山も見

え、頂上は大石数々ありてすこぶる険阻なり。

山上、本堂のある処は頂ならざる故、此の如き

風景はなし。先に「宮島の山は面白からず」と

の話を聞くも、それは本堂迄さえも来ていない

のであろう。尤も案内なくては甚だ無理なり。

随分面白き山なり。山を下り、本堂に古画数々

あるも如何にもすすけ、惜しき事なり。堂の広

大・造り方、目を驚かせる程なり。鹿多く、家

数相応にあるも地狭く、陶晴賢の込み合い敗軍

せしも宣なる哉。名高き程には風景なきように

思う。夜になり船を出し、周防の新湊に着く。

 

26日 晴 呼坂泊

 

二里行き、岩国(吉川家、6万石)の城下に至る。

家立ち、城市、家内の様子如何にも富めるとい

う事なり。土着の士も多くある由。法厳しく人

驕らず、人柄も穏やかに思われる。わずかの隔

たりにて、宮島とは雲泥の違いなり。地勢も宜

しく、海田等も開け、好き所なり。博打は勿論、

米相場等の事、尤も厳なり。羨む地勢なり。錦

帯橋は城の大手にて、聞きしに勝る趣あり。橋

の手前に見物茶屋あり、此の川にて取れし鮎に

て茶を飲み、暴食す。また二里ばかり行き、海

道に出る。此の道にて、新米を納める馬に数々

会う。錦帯橋見物の中、面・小手・竹刀を持ち

数々往来するを見る。岩国縞とて木綿縮、松金

油の店、大いなる処、数々あり、名産なり。六

万石は陪臣には過ぎたれ共、元春(吉川元春)の

功を思えば、周防一国を領しても足るとは思わ

ず、祖先の功、感ずるに足れり。並木の古松、

青々と天を衝くの勢、昔を思わる。呼坂に宿す。

 

#ここでは鮎を暴食していますね(^^;;

 

27日 晴 宮市泊

 

朝、三里ばかり歩き、花岡と徳山の間、遠石なる

処にて船に乗り、富海に着く。徳山(毛利支藩、

4万5千石の城下町)も、家数千程ある様子に見ゆ。

天気良く伊予も見え、風景面白し。されより二里

ばかり行き宮市に着けば、既に日が暮れたり。夜

食終えて天神(注1)へ参詣、宮は山にありて結構

なり。唐銅の牛馬などあり。境内の様子、余程大

社なり。夜のこと故、明白ならず。夜店、燈篭数

々あり。賑やかなる処、地面の開け、土地の繁華、

往来せし長州領の中、随一に思わる。此処には士

もいる様子。夜店にて、袴を着け、大小にて遊ぶ

若者数人と話をする。此の夜、初めて密柑を食す。

 

注1

天神:防府天満宮、松崎神社とも言う。菅原道真

が九州配流の途中立寄った所だという。延喜四年

(904年)創建。北野、太宰府と並び日本三大神

と呼ばれる。宮市の地名もここに由来する。

 

28日 風雨強 山中泊

 

朝、雨強し。少し小降りになり出掛けるも又風雨

となる。久々にて斯る目に逢い、困り入る。山中

より海辺を見るに、東海道「塩見坂」の様にて、

風景好し。山中に宿す。岩国より、総じて松茸多

く、一斤四五十文にて得られる。

 

29日 晴 長府泊

 

朝立ち、舟木を通る。此の宿は櫛の名物、石炭の

出る所なり。三韓征伐の時、此の山の木にて舟を

造ったため舟木と名付けられた由。又、赤間石硯

も此の辺より出る。石工も数軒あり、総じて此の

辺の宿、何れも宜し。山多けれども、開けも亦多

く、人情も穏やかにて、長州路は宜しく思わる。

村々に高札あり、田四ッ物なり、畑方石貢不作な

れば相当の引きあり。満作たりとも、余計には取

らず。賭博は厳禁、もし犯す者は島流し、見物の

人も四五十日は牢舎と、茶屋の者話す。近頃は

(賭博を)する者はなしと。大国の風、奥床しく

中国往来中、第一の様に思わる。長府(毛利支藩、

5万石の城下町)に宿す。此の辺りの島々は皆萩

(毛利本家、36万9千石)の持領なり。広大なる

事なり。

 

#継之助は長州で賭博禁止の効果を目の当りにし

ます。これが、後の長岡藩における賭博禁止令に

つながったのでしょう。

 

 


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