人物伝・河井継之助「西国遊学12(豊前・筑前・肥前)」



とうとう継之助は九州に足を踏み入れる事になります。

雪に埋もれた越後長岡で生まれ育った継之助にとって

は、言葉・風習・景色・行政他多くの新しい経験をす

る大きなチャンスです。実家から送ってもらったお金

を握り締め(^^;安政の大獄なる嵐吹くさなか、自らの

将来・長岡藩の将来の糧とすべく旅は続きます。

 

9月30日 晴 黒崎泊

 

長府より二里ばかり行き、壇ノ浦を通る。この辺は九

州まで十町あるかないかと思うほど狭い。朝五ツ(八

時)過ぎ、西北の順風にて渡ろうと舟が出るも急流の

ため戻る。このような急流は初めて見る。阿弥陀寺よ

り豊前の内裏に渡る。渡賃百文,内裏にて二十文。内

裏より二里弱、小倉へ行く。この間、西北海よりの入

船数、数え難し。さすが下関なり。これより北海行き

に乗れば、直ちに故郷へ行けるなどと一入(ひとしお)

思う。

 

小倉は城の裏手に家中(藩士邸)多くあり。随分広く、

船着く故賑やかなり。小倉織を扱う店数軒あり。家

中の屋敷にジャガタラユズ(=ザボン)、蜜柑の木、所

々にあり。長崎へ蘭学修行に来て、萩より帰る途中の

出羽酒田の本間という人と道連になる。身なり・持物

など雅にして、長崎話を聞いたり道案内になると思う

も、数回通った筈の小倉の道を間違えうろたえる様を

見、あきれ果て、我は道を聞きつつ進む。

 

それより三里行き、黒崎に宿す。この間に豊前・筑前

の国境あり。その先に若松なる所あり、風景好き処な

り。

 

10月1日 晴 畦町泊

 

黒崎より山へかかり、近道を行く。赤間の宿を通り、

畦町へ宿す。このあたり小山多けれど能く開け、田

地沢山なり。風景好き処数々あり。

 

10月2日 晴 博多泊

 

畦町を立ち、香椎宮の前を過ぎる。道は黒田侯の往来

故広く並木の松は生い茂り大大名の風が自然に備わる。

筥崎八幡へ参詣、社殿の造り結構なり。三里の松原

(海の入道)の風景、名高きも宣なり。それより本道を

行かず、松原を通り、博多に出、宿を取る。福岡(城

下町)とは城際の橋一つで分かれているのみ、即ち博

多も城下の町なり。その話は中島橋だったように覚ゆ。

 

それより見物に出、城の外郭を入る。天神町・大名町

には大家ばかりあるところで仙台の大名小路のような

ところなり。はるか行くと、海辺なる山上に東照神君

の社あり、上りて拝礼す。この山より城市、一目に見

ゆ。広大のものなり。風景もとりわけ妙なり。暫く町

を通り宿に帰る。場所も好く賑やかな事はこの見物中

で九州にては第一か。人吉の士と同宿、共に夜出て、

柳町なる女郎町を見る。家はわずか十軒ばかりなれど

木石あり厳なる仕方なり。狭き所故、込み合う程賑や

かなり。「ヨカものは奥にいる」としきりに勧められ、

その言葉おかしく大笑いしける。

 

#ここで継之助が大笑いしたのって、土地柄とかある

んでしょうかね?奥まで入ってしまうと誰かを選ばな

くてはいけない状況になる→結局はあがってしまう、

ってのをその時点で見えない「奥の女」で誘う商売の

仕方って、福岡の特徴だったりするんでしょうか?そ

れとも単にポン引きが珍しかったのかな?

 

10月3日 晴 田代泊

 

人吉の士言う「用向きありて来れ共、未だ弁ぜず、退

屈故、太宰府まで御供仕る」と。太宰府に向かう途中

「何御用に御出か」と尋ねると「槍剣の道具に致す牛

の皮を求めに来れり、其の用は未だ済まず」と。国か

らは一皮一両二分位と。中国では二両位と。其の外、

熊本へ注文の刀の話などを聞く。武は好む様子好人物

なり。この人、全体、武人らしくも、何となく当時は

産物等に心を配り、経済に仕うる役人と思われる。

 

福岡より太宰府にいたる五里あまりの道中平面にて遥

かに筑後の山見え、四方皆開け広大なり。筑前米が名

高きも尤もなり。山海に不足なく、実に上国なり。村

々に「年貢済まざる中、米を売る無用(=禁止)」の高

札あり。余り良過ぎて驕る故か、御勝手は悪しき由。

此のみにあらず、土地の善悪に拘わらず、政治の良否

に依る事、実に明らかなり。福岡は文武も振るわざる

由、衆口ありて、富もなく、教も立たざるは残念なる

事なり。

 

直に太宰府へ行き、天満宮を拝す。額は唐人の筆多く、

燈篭、狛犬、その他どれも善美を尽くせり。楠の大木

数本あり。茶屋数軒あり、九州随一の宮というのも宣

なり。

 

東南に山あり、宝満山という。筑前第一の高山なり。

これに登らんと思うも彼言う「時刻遅く、能わず」と。

彼も博多までは帰られず、外に聞く事ありて、これよ

り半道ばかりで礼を言い別れる。また、西に天拝山と

いう菅相公(菅原道具)の天へ登り給いしと唱うる山あ

り。高くもなけれども、この辺りの者、敬畏甚し。筑

前路、惣じて雁・鴨・鶴、沢山なれど、福岡よりこの

辺りは特に鶴多し。殺生禁制の為なり。鶴と取ると殺

される由、鳥殺生好き由、毎度一発と思い出しけり(注)。

太宰府より低き山を越え、原田の宿へ出る。これは長崎

街道なり。対州領、田代に宿す。

 

注:継之助は佐久間象山のもとで鉄砲を学び、地元で銃

の練習をしながら猟を楽しんでいたため、試しに撃ちた

くなったのでしょう。あと、禁制故である事も一発撃ち

たくなった理由に挙げているところなどが、彼らしさ(^^;;

が出ているような気がしますね。

 

次回は佐賀に足を入れます。

 

 


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