人物伝・河井継之助「西国遊学13(肥前(佐賀))」



継之助は佐賀に入ります。この”佐賀”が幕末において

如何に重要かつ特殊な立場であったかを語らずに話を進

めるのにも問題があるので少々書きます。

 

佐賀藩は鍋島家35万7千石、国主(国持大名)でありま

す。家格は大広間詰、いわゆる外様の大大名です。石高

・家格等から見ると長門藩毛利家(36万9千石)と近い

ですね。司馬遼太郎先生の著書によく出てくるくだりに

「長州と薩摩が江戸幕府体制における仮想敵国であった」

なるものがあります。これは、濃淡の問題を省略すると

まさにそうでしょう。その”仮想敵国”長州・薩摩の周

辺に位置する外様大大名というと中国では芸州浅野家、

備前池田家、九州だと筑前黒田家、肥後細川家、肥前

鍋島家が街道の要所といえるでしょうか。そうした藩

は幕末期にはどちらかというと覇気を失った観がなき

にしもあらずといったところが多いのですが、佐賀藩

は地理的環境からくる理由から特殊な立場を有するよ

うになりました。その理由とは”長崎警備”です。肥

前には鎖国時代唯一の制限付き国際貿易港?であった

長崎があり、この長崎の警備を幕府より命ぜられたの

です。こうした環境が先進技術等の導入および世界情

勢の把握に役立ち、幕末期においては薩摩と並ぶ(ある

いはそれ以上の)工業国になりました。

 

河井継之助は江戸遊学において古賀茶渓、佐久間象山

等の進歩的学者との出会いによって「古より武人の家

を弓馬の家といひしかど、今後は改めて砲艦の家と言

うを至当とす。」(『河井継之助傳』より)とコメント

するようになっていました。

今後は海運及び技術の時代が来る事が見えていたので

しょう。その継之助にとって佐賀及び長崎は西国にお

いて最も注目すべき土地です。まず、その佐賀に足を

入れます。

 

10月4日 晴 船中泊

 

田代にて長崎の者、佐賀の者二人と同宿、道連れになり、

神崎というところにて蓑を買う。これは佐賀人の勧めに

て、値を付け、まけられたり。松山へ帰る迄、一度も用

いず、数百里を負い、馬鹿らしさ限りなし。軍(いくさ)

の時にでも着るのかなど、独笑して荷ない居る。

 

この辺り平面多く道も広く、石は少なく良き道なり。右

にあたり、筑前境、背振山あり。兼て聞く、籤(かずと

)をして奪い取ると。その仕方。炭を埋め置き老人を

拵え、それを証にする由。則ちこの山にて佐賀人、微細

に話を為す。士を二三代先から百姓になし置き、言い含

めるなど、得意になりて申しける。元来、筑前の山なる

を、肥前にて取ると。どちらと言いても良き様のところ

なり。この者、また誇りの余り、筑後川も肥前川にした

りなどと言いけれども、これは負けたりと脇から聞く。

 

全体、佐賀藩は、驕慢の風ありと人も言い、我もそう思

えども、この如き下郎迄、己の国程好きは無き様に自慢

し、予聞くに厭きたり。これは尤も変人なり。

しかし親切にも案内の心持ち故、我もよきに挨拶す。

 

昼後、佐賀(鍋島家、35万7千石の城下町)へ着く。八

里計りあり。長崎人は足早し、我も足早し。話は余り面

白くなし。鍋島の先祖をまつる「日法社(松原神社)」あ

り。これは誇りしも尤もなり。鳥居の大なるは日本一と

言いける。なるほど未だ見ざるところ、唐金の鳥居、ま

た大なり。随分綺麗な社なり。使者館の前を通り町へ出

る。城は町の西南にあたる。家中・町屋の家作、綺麗な

り。唐物店等も多くあり、少し寄りて、兼て聞く「反射

炉」を見る。尤も内へ入るを禁ず。番所あり、それへ行

き、頼みければ、番の足軽言う「その手続きにて、御修

行のためとあるならば、御覧出来るけれども、私には一

切成らず、御気の毒」と断りける。外より見るに、その

形、高さ八九間もあらんか、鉄のタガ、石灰塗り、水車

にてキリを入れ、その音、頼りなり。一本の軸に車二ツ

仕掛く。軸は鉄か、車の拵方など、丁寧のものなり。一

日逗留すれば、彼(同行の佐賀人)の者、手続きあり、見

せてくれると言いけれども、彼を頼るにも及ばず、番人

の話通りさえすれば見物できる事なれども、その事弁え

ず、見物しても益あるまじと、費を惜しみて帰りける。

 

通りの中、三四軒、剣筒に台を付けるところあり。数十

挺のゲベールを並べ置き、職人数人、拵え居る。又、剣

筒張り立てのところもあり。盛んなる事なり。

 

うどん屋にて休み、話を色々聞く。これ又、親切に告げ

たり。亭主言う「只今の反射炉は公儀の御注文、場所、

今一ヶ所、この辺りにあるもおたたみになる」と言う。

我、町の綺麗なるをほめ「金も沢山有る可し」と問うと

「金は誠に少なし」と答う。地面は筑後と打続き、広平

にて、誠に良きところなり。佐賀には逗留仕り度く思い

しなり。

 

それより町続きにて本庄へ行く。これより船に乗る所な

り。かれこれ八ツ(午後2時)過なり。「反射炉」を拵

う人の名を聞きけれども忘る。横尾小次郎は死にたり。

これは長崎にて秋月の話にて聞く。船は潮時、夜四ツ

(十時)頃ならでは出ず。佐賀の町、得と見物の望あれ

ども、疲れたるゆえ、面倒にて舟宿に息い居るところ、

七ツ半(午後5時)前に台場の音あり、則ち出て見る。

かの「反射炉」にて拵えし大筒を曳くなり。それに随

って二三町計りあるところまで行きたり。

 

役人、我に問う「何れの御方に候か」と。我れ無刀にて

甚だ恥じ入り、「何れ猶又、拝見に出る」と言いて問い

には答えず宿へ帰り大小を差し、又行きしところ、川端

の小屋に36ポンド、24ポンド、合わせて七挺、その

台、諸道具、何れも美事に出来、鉄筒の様には見えず、

感心しける。役人七八人居り、我の見るを咎めらるらし

く申しける故、予、姓名を名乗り、「余り感心仕り候故、

拝見願い候」と答え、緩々見物しける。則ち公儀注文の

品にて、江戸へ廻す筒なり。船に積む仕掛け、万事大相

の事なり。四五百石の船と思いけれども、これにては江

戸迄は叶わず、更に沖にて大船に積替える由なり。

 

陸を行き、大村(大村家、2万7千9百石の城下町)も見

たく思えども、日数一日にても聞かざる所、道も今迄よ

りは険なる由、皆の乗る船故、船に乗る。これより諫早

へ二十里と言いけれど図には十五里なり。この船、屋根

なく、寒き事なり。船、四ツ(午後十時)過ぎに出る。

右に高良山とて高き山あり、左に島原の温泉あり。海は

泥海なれども風景面白し。島原とこの間の入海、図の如

く奇なる地勢なり。諫早へ五ツ(午前八時)過ぎに着く。

 

#継之助が大筒を見るシーンあたりは面白い絵ですね(^^)。

小説で扱われてもおかしくなさそうですが。反射炉と大筒

への対応の違いが継之助の特徴というか、為政者として実

利のみを追求し、そこに至る技術には個人としては興味を

深めないですね。まさにプラグマティストですかね。

 

5日 晴 長崎泊

 

諫早は鍋島藩家老の城下、随分宜しきところなり。先の

佐賀人、諫早の眼鏡橋はこれ亦、日本一と誇りしが、成

程日本一ならん。二年前に出来し由。石橋も数々あれど

斯る橋は見ざるところなり。大にして綺麗なり。それよ

り段々、山へ懸り永昌より先は追々道も石多くして険し

く山上より遠眼鏡にて眺めるに、大村其の外諸方見え渡

る。遥かに見ゆるは平戸なるか、不案内なれば、しかと

定め難し。好風景なり。

 

矢上の宿を通り抜けし所にて、会藩・土屋鉄之助に会う。

秋月(悌次郎)の長崎に居るを聞く。彼は親の死す為の様

子、用事ありて急に帰ると申しける。途中にて暫く談し

て別れける。

 

矢上の先は道、やや険し。日見峠は石ばかりにて佐賀迄

の平地とはうってかわりし事なり。峠よりは、温泉は元

より天草を前に見て好景なり。山を下り、一里ばかり行

けば長崎にて、七ツ半(午後五時)頃に着き、銀屋町

「万屋」に宿をとる。中国を渡りてよりこの長崎街道は

往来も賑やかなり。

 

次に継之助は長崎へ足を入れます。秋月悌次郎も再登場

します(^^)

 


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