人物伝・河井継之助「西国遊学16(肥前(長崎3))」



長崎逗留の続きです。

 

秋月と共に矢田堀の処へ行く。居間へ通し、段々

話をし、予、心志を述べて頼む。彼(矢田堀)、

その心を知りて、「得と相談の上、御答仕る可し」

との事。矢田堀本人が船中(観光丸)の案内をして

連れ歩く。この船は諸道具を含め全て蘭よりの献上

品なり。その様子気も及ばざる程のものなり。船将

の居間にて茶を飲む。矢田堀は三十位か、好男子な

り。航海路ある蘭図を見る。これは矢田堀が蘭人よ

り買いしものなり。

 

船の上、艫(とも)の方には24ポンドカノン砲あり。

左右にはカルロンナアデ二挺、その脇にはタライッパ

ツ二挺、あとは無き様に見える。帆柱、車、艫舵、碇

綱、梯子、下の間は天井がギアマン張り、お役人詰間、

火薬蔵、ゲーベル銃数十挺、ピストルもあり。諸道具

も色々見るも覚え難し。時計等は結構なり。この船、

六万両もかかりし物の由、十万、二十万と言われても

分からぬものなり。上の大砲は昔佐賀にて見し筒とか

わりなき鉄筒なり。その日は礼を述べて帰りける。

 

全体にその事卒爾らしき事なれ共、それには次第あり、

得と考え、いたせし事なり。矢田堀も、その志を察し、

随分親切に致し呉れるの口上、色にあらわれる。余り

親切に見物案内をいたせしは、もし叶わざる時に気の

毒かと思い、斯くするかとも察す。秋月もその向きに

より、土屋(会津藩士)熊本に居る故、飛脚を立てて

乗せる心持ちあり。

 

その後、二三日して又行くも、少し見合わせて呉れ候

様に申さる。一両日過ぎて、矢田堀、手紙にて断る。

その手紙あり。その後、会いしところ、俗論もあり、

御気の毒云々との事なり。予も能きに挨拶せり。矢田

堀は17日に長崎出帆。

 

#継之助は矢田堀に何かお願いをして、それは叶わな

かったようですね。船内の見学は達成されているので、

きっと、長崎から江戸への航海の同行をお願いしたの

では?と思います。はっきりは書いてないですが、日

記文中に江戸にいる山田方谷に面会しようと思ったが..

ってところがありますから。

 

秋月の話にて「薩摩、旅人など厳重、国界も厳し。表

は此の如くして、内分にては、長崎通詞などに甘を食

わせ、勝手能き様にする」などと。十三夜の様に覚ゆ、

秋月と丸山へ見物、所々徘徊、山上にて明月、好風景

なり。秋月との話に「直交易と成りしより、商人方は

つまらぬ由。今の中、早く回る者は得あらん」と。

 

#坂本龍馬が亀山社中を作ったのが1865年(慶応

1年)。継之助が上記コメントを残したのは1860

年(万延1年)。5年前なんです。考えるだけなら皆

が考えたんでしょうね。龍馬の凄いところは、本当に

実行したところなんでしょうね。

 

石川桜所、手紙を呉れし大園立甫を尋ねけれど留守なり。

長崎奉行の屋敷は中々大なり。その他、東北山の方には

諸屋敷あり。西一方は入海にて、三方は皆山なれども、

平地小高き所は皆家の様なり。予は家数一万と聞く。秋

月は三万と聞く。一万の方信ならんか。往来繁華なり。

女郎町を見ると処の様子わかる様なり。丸山も賑やかなり。

一日、東北の山へ行く。唐寺二軒見る。一軒は「聖福禅寺」

とある。中に唐人の額あり、隠元(僧)をはじめその他の書

も多く、奇麗なり。唐人の墓のある寺は「福済禅寺」の額あ

り。これ亦、奇麗なり。裏の山に墓所あり(楼閣)、後の墓

は此の如くあり(普通の墓)。寺へ「官位の高下にて違うか」

と聞くが「然らず」と答う。両寺は共に山上にありて、長崎

一目、海辺は山より見る一好風景なり。その他、神社仏閣見

たけれどもこれ忘る。

 

一日、秋月と石崎(通詞)へ行く。居家庭前、中々大にして

奇麗なり。高き所故、座敷より「峨眉山」などを見る、好風

景。親は大通詞なりし由。数代の通詞なる由。朝四ツ(十時)

頃より書画を見、夕方まで見るも尽きず、弱りし位なり。乾

隆帝の御書、林則徐の書、子昂の書、文衛山の書画、その外、

巻物、折本、掛物、名画、一として愚はなし。画など今まで

見ざりし好物数々あれど、中に欲しきは乾隆帝の書なり。林

則徐も好し。他日、唐書画を見ても、容易には眼は移るまじ。

昼後八ツ(午後2時)頃、広東人・馮ショウ如という唐人来

れり。これは我等への馳走なり。才名のある男の由。「此の

如き品は、今広東になし。乱の節、皆持ち行くもあり、色々

すたりける」と。「南京あたりはまだあり」と。彼、書画を

書く。予も書かせるが。予の分は不出来なり。その後、詩作

始まる。予は文学なく人付き合いに困る。自らは不自由、聞

く事も聞けず、会う人にも会われず、これも不勉強と天凛な

り。致し方なし。石崎へは六七度行く。

 

#これで、長崎逗留は終り、次回からは天草方面への旅とな

ります。彼は長崎で長岡では勿論江戸でも味わえない”風”

にあたった事でしょう。列強各国の船舶を見、幕府軍艦に

乗る事で若干は世界観が広がったものと思われます。これ

がかなり早い時期である事がポイントで、この旅は、安政

の大獄真っ最中の事で、後に倒幕の中心人物となる人達は

近代化どころか攘夷思想に触れるか触れないかの頃です。

これが、彼にとっては長岡藩再建の種になり、後に長崎を

見た志士達は倒幕・新国家建設へと経験を活かしていくの

です。

 

 


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