人物伝・河井継之助「西国遊学21(筑後1)」



継之助は肥後の木下真太郎と会い、山田方谷からの

遣いとして役割を果たし、松山への帰途につきまし

た。藩主が2年前まで老中(それも外交担当)だっ

た事や久敬舎にいた事もあって継之助は薩摩につい

てある程度以上の認識があったものと考えられます。

その薩摩へ当然行きたかったのではと思いますが、

薩摩が二重鎖国をしていたた事や木下真太郎の返事

を早く伝えなければならなかったであろう事、資金

等の理由で結局足を運びませんでした。後々を考え

ると、継之助が何等かの形でより薩摩人と接触して

いたら、北越戦争の様相が全然違ったものになって

いたでしょうし、もしかしたら回避する道をうまく

探れたのではないか、と思う時があります。歴史に

”もしも”はありませんが..

ともあれ、ここから継之助は松山目指して進みます。

 

10月23日  晴  原町泊

 

朝早く植木を立つ。山鹿を通る。ここには湯治場

あり。甚だきたなし。

 

我が国(越後)の「きらの湯」、かねて母上様よ

りお話に聞く所とよく似たり。それより南関とて、

これは肥後の境なり。番所あり。その裏を通れば

道も近く、難しくもなく、皆これを通ると言い聞

かせける故、予も然りたり。

 

熊本よりの道、小高き山にて平なるところ多し。

南関より少し山坂あり。このあたりの事、しかと

覚えず。何となく古風の存せるは、我が見るとこ

ろにては第一か。これより山を下りて休みければ、

石炭多く積み置けり。「何れより」と聞くに、

「三池より出づ」と。一度焼いて固めしもあり

(コークスの事でしょう)、これは煙なき由。脇

に小なるあり、これを焼固めし者の由。

 

この日、柳川(立花家、十万九千六百石の城下町)

領、はる野町に宿す。日本図に「原町」「野町」

とあるはこれか。

 

24日  晴  松崎泊

 

はる野町は平地なり。これよりは山なし。府中の

手前より別れ、道、久留米(有馬家、二十一万石)

の城下へ行く。その入り口は柳川道なり。柳川へ

も志あれど、三里ばかり回るゆえやめた。久留米

も少しは回りなり。城市共に随分広大にして賑や

かなり。町も綺麗なり。

 

城の脇に使者館あり。その脇に馬場あり。両側に

桜あり。大勢乗りいる。少し徘徊見物して、少し

遅くなるも松崎へ行く。

 

城下を少し離れて川あり。則ち筑後川なり。川も

数々あれど、この川、第一なり。去り乍ら、我が

国の信濃・上田の川に比すべきものにあらず。我、

先に、平地多くして川も多くある故、水損の事尋

ねけれども、その者の話にては「無し」と言う。

後にて聞けば「水損度々あり。今年も」という様

に覚ゆ。

 

本郷というところへ出る。此処の様に覚ゆ。相撲

あり。畑中に小屋あり、至って賑やかの様子、所

の者の話に、十年程も右様の儀は一切禁止、万事

倹約、近年漸くお許しありて、年に十ヶ所ぐらい

御免あり。その場にて売り物は一切ならず。畳代

もなし。銘々家より食物、敷物など持参、木戸五

十文とか百文とかにて往く事なり。「それにてよ

ければ相撲をたてよ(興業せよ)」との事にて、

皆々喜ぶとの話なり。

 

筑前・肥前・肥後・何れもよく開けたれ共、中に

も筑後は肥後境の小山を下りて平地のみ。四方、

山遠し。我が国(越後)は長く開けたれ共、此の

如く四角にはあらず。一目、平面の多きは随一な

らんか。その次は筑前、肥前、肥後という順なら

んか。肥前の境は山無く、みな平面。

 

筑前の境とても、所により宝満、背振、等の山あ

れ共、福岡へ越すには小山少しばかりのみ。まず

二筑(筑前・筑後)は平地の続きの様なものなり。

此の四ヶ国、ハゼ何れも多けれ共、二筑尤も盛ん

なり。柳川は余り田面のみにて、山遠く、薪・野菜

等は不自由くらいの由。久留米はかねて好き所と聞

く。実に上々国ならん。ハゼは段々種類幾十品あり、

皆、継ぎしものにて大木もあり。実に何れも盛んな

り。その植うる所、山にもあり、畑にもあり、土手

にもあり、大利の由。然る可し。

 

先にいう相撲の事、「相撲芝居」という。猶又、芝

居の事を聞けば、やはりそれもあり。後境を過ぎて

よりは、柳川領少しあり、久留米領となる。暫く土

手道を通るに、僅かの中に度々領分が入り交じって

「久留米領」「柳川領」あり。如何なる故か、肥後

境より柳川領、並木の杉多くあり。夜五ツ(八時)

杉、漸く松崎に着く。

 

月はなし、暗夜にて先も見えず、川端もあり、土手

の長きもあり、雨でも降るならば、案内知らず、と

ても行く可ならざる道なれ共、如何にも平面の大道、

石はなく、好き路、夜道を厭わず致したり。長土手

などは、人には逢わず、萱等ありて、風音ものすご

く、無き事ながらも用心をして通りし位なり。まつ

ざき宿、此の宿は此の辺りになき事、女郎あり。皆、

久留米より遊びに来る由、三里あり。頻りに勧む。

我、例の根気を以て防ぎたり。去り乍ら、東海道な

どとは大いに違えり。実に筑後は沃野千里、川は数

々ありて、運送は好し、此の上なき上国ならんか。

 

#継之助は筑後の地勢を見、長岡を念頭に置きつつ

筑後の長所を多く記しているようです。長岡は信濃

川が流れる盆地にあり、物なりもよい所ですが、筑

後と比べると平地の広さが違うために筑後の広々と

した景色を”銭勘定のできる行政官”として羨まし

く思ったのかもしれませんね。

 

次回も筑後の続きとなります。

 

 


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