人物伝・河井継之助「西国遊学29(相模、武蔵)」
継之助は久しぶりに箱根を越え“東国”に戻ってきました。 継之助の西国遊学以前と比べ最も変わったのは「横浜」で しょう。横浜は継之助が西国遊学のため江戸を出発した安 政6(1859)年6月に開港しました。継之助が西国で 鮎や松茸を大食いしている間に横浜は生糸商人を中心に2 00軒程の商店が立ち並び、外国人居留区も整備され始め ていました。その居留地の中にある四十四番館(オランダ 四番館)にある青年がいました。彼の名は
“エドワード・スネル”
といいます。彼は彼の書簡によれば安政5(1858)年 に自称オランダ人として来日しています。横浜に現れた外 国人の草分け的存在だったようです。来日当時の彼はまだ 15歳でした(びっくりしませんか?)。彼は当初外国人 向けに牛乳屋(窄乳業)を営み、雑貨屋を経て文久の頃は 武器商人になっていたようです。継之助が西国から帰って きた頃、スネル青年は当時40人程度の居留区在住外国人 に売るため牛乳を絞っている17歳の青年だったようです。 おそらくまだ継之助とスネルは出会っていないしょうね。 小説であれば、この時期に出会わせて継之助に牛乳を飲ま せるのも悪くないかもしれません(^^)
話を継之助に戻します。
4月9日〜18日 晴雨半 江戸
横浜へまわり川崎か品川に泊まろうかと思ったがそのまま 夜六ツ時(6時)武宅(姉の嫁ぎ先;藩医)に到着。逗留。
#これで西国遊学が終わりです。4月19日かその翌日 あたりには久敬舎に戻ったと思われます。
西国遊学に関するしめくくりとして、継之助が義兄である 梛野嘉兵衛にあてた手紙を書きます。ちなみに日付は4月 7日、西国から帰ってくる途中箱根湯本に泊まった日です。
取り急ぎ一書差し上げ申し候。(季節の挨拶等)。昨年長崎 に行きましたが短時間のため別段の儀はありません。近日の 形勢(註;桜田門外の変以降の政局についてでしょう)殊の ほか心痛に堪えず、申し上げる内容、却下となっても何度も お願い奉ります。
一 天下の形勢は早暁に大変動する事は逃れられないでしょう。 昨今外国の形勢、戦国時代のようで、彼(註;外国人でし ょう)は欲を出し、俄羅斯(註;ロシア)などはもっての ほかの勢威と承っております。攘夷など愚蒙なることは申 すまでも無く、海防の事大切には相違ありませんが、朝廷 隣国のご交際は一層大事、ここで誤った方向にいくと皇国 の安否に関わります。
一 京都と関東の関係も心痛です。薩長の徒が間にあって私事 を挟み離間させようとしているように見えます。関東にお いてもみだりに軽率な取り扱いは無いように、と思います。
一 外国との交際は必然かつ免じ得ない事であります。かかる 上は公卿も幕府もなくし政道を一新し、上下をまとめ、富 国強兵に精を出す事が一番、ことなかれで治世が変わらな いと見る者は思慮浅はかとしか言いようが無く慷慨の感に 堪えません。
一 何を申し上げた所で小藩(註;長岡藩のこと)のため力及 ばないでしょう。このうえは藩政に精力を注ぎ、実力を養 い、大勢を予測し大事を誤らぬようにするほかなく、外の 策は無いと存じます。この件は(村松)忠治右衛門にもく れぐれも申し付けおいてください。
勢いを申すものほど恐いものはありません。追々外人を真似て 制度を一変する事、ある者は近いとみています。文学を支那に 学び、唐制に倣し事を怪しまず、今日の洋風様式も十年の後に は怪しむ者はいなくなるでしょう。王道坦々、夷人にも自らの 仁義も道があると存じております。壮士の輩、くれぐれも御訓 諭のほどお願い申し上げます。昨今忙しく非礼の段、幾重にも お詫び申し上げます。
#継之助は、まだ「攘夷」が先進的思想であった筈の当時でこ こまで進んだ考えをもっており、現実対応策に関しても時代を 見抜き、将来の日本に関してもかなり見えていますね。この時 点で継之助は長岡藩の進むべき方向をとらえていると思います ね。
余談;一つ気になるのは「河井継之助傳」で幕府の事を“覇府” と書かれています(上記文では幕府にしました)。あと国の事 を皇国と書いています。皇国はまぁ当時の知識人と考えればお かしくもないですが、果たして継之助が“覇府”と書くでしょ うか?明治に出版された書物なので多少いじられているかもし れないですね。
次回は長岡藩主牧野忠恭公が京都所司代になるまでの社会を 中心に書きます。
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