人物伝・河井継之助「再再出仕・辞職(忠恭公京都所司代辞任まで)1」



継之助が西国遊学から帰ってきてから再再出仕する・

辞職までの期間は、継之助にしては珍しく中央政界の

動きと関連しています。(万延元年(1860)春〜

文久3年(1863)6月)の流れを年表形式で書き

ます(河井継之助及び長岡藩関連は※印)

 

万延元年 4月     ※河井継之助、江戸で再度久敬舎に入る

文久元年 夏      ※河井継之助、長岡へ帰る

文久2年 1月15日  坂下門外の変

文久2年 4月16日  島津久光、兵を率い入京

文久2年 4月23日  寺田屋事件

文久2年 5月 7日  松平慶永、政務参与就任

文久2年 6月 7日  勅使大原重徳・島津久光江戸に到着

文久2年 7月 6日  一橋慶喜、将軍後見職就任

文久2年 7月 8日  松平慶永、政事総裁職就任

文久2年 8月 1日  生麦事件

文久2年 8月24日  ※牧野忠恭(長岡藩主)、京都所司代就任

文久2年閏8月 1日  松平容保、京都守護職就任

文久2年 9月29日  ※牧野忠恭、着京

文久2年 秋      ※河井継之助、上京、京都所司代辞任について建言

文久2年10月12日  勅使(三条実美、姉小路公知)下向、京出立

文久2年12月24日  松平容保、着京

文久3年 正月     ※河井継之助、京都詰を命じられる。

文久3年 2月23日  浪士隊、着京

文久3年 3月 4日  将軍徳川家茂、上洛

文久3年 3月11日  孝明天皇、攘夷祈願行幸

文久3年 3月13日  浪士隊の一部(13人)京都残留→新選組へ

文久3年 4月25日  幕府、朝廷へ攘夷期限を5月12日とする旨奉答

文久3年 5月11日  下関事件(長州藩外国船へ砲撃)

文久3年 6月 1日  米・仏艦下関を攻撃

文久3年 6月     ※河井継之助、帰国(辞職)

文久3年 6月11日  ※牧野忠恭、京都所司代を辞任

(文久3年7月2日 薩英戦争勃発)

 

まず、万延元年(1860)を簡単にまとめると

「和宮降嫁」

「一橋派謹慎赦免」

の年と言えるでしょう。「公武合体」を軸として新体制

である安藤信正・久世広周両老中及び京都所司代酒井忠義

が活躍しました。後の伏線としては一橋派の謹慎赦免があり、

一橋慶喜及び四賢候が動き出しました。ただ、後のように

正面に立ってはいませんが。岩倉具視が和宮降嫁関連で世に

出てきたのもこの年ですね。

 

翌文久元年(1861)を簡単にまとめると

「公武合体最盛期」

「攘夷派爆発寸前」

の年と言えるでしょう。「公武合体」政策が進み、長州から

長井雅楽が「航海遠略策」を以って京・江戸で活躍したのも

この年です。伏線としては

薩摩;小松帯刀、大久保一蔵が登用される。誠忠組台頭。

長州;松下村塾生を中心とした集団が藩論転換を目指し活動

土佐;土佐勤皇党結成。

あたりですね。薩摩は久光体制、長州は長井雅楽が主流、

土佐は吉田東洋が執政をしていた頃なので主導的なところ

では完全に公武合体時代です。

 

翌文久2年(1862)、この年は凄い年ですね。

数え上げればきりがないです。

「攘夷イヤー」

「幕府切り札きりまくり」

というところですかね。

朝廷;二度の勅使下向

幕府;坂下門外の変→安藤信正失脚

  ;一橋慶喜、将軍後見職就任

  ;松平慶永、政事総裁職就任

  ;松平容保、京都守護職就任

薩摩;島津久光、上京、勅使同行江戸へ

  ;寺田屋事件

  ;生麦事件

長州;長井雅楽等公武合体派失脚

  ;攘夷派政権を握る

土佐;吉田東洋暗殺される

  ;藩政黒幕として武市半平太(土佐勤皇党首領)暗躍

佐賀;江藤新平脱藩、京にて姉小路公知等と接触

※佐賀は歴史の表舞台には出ていませんが、個人的好みで付け足しました。

この攘夷旋風吹き荒れる文久2年、長岡藩主牧野忠恭が

京都所司代として京に入ります。

しかし凄い時に京都所司代になっちゃってますよね..

 

文久2年の新体制の看板である一橋慶喜、松平慶永、

松平容保はまさに「非常時内閣」の閣僚というか、

出るべくして出てきた人物でしょう。それに比べると

牧野忠恭は階段を普通に上った(というと長岡藩中華

思想的見地からすると異論が沢山出そうですが)ので

はないか?と思いますね。忠恭公は先代忠雅公が老中

次席(当時の主席は阿部正弘)であったという“筋目

の良さ”と忠恭公自身が幕閣へのエリートコースとい

ってよい奏者番〜寺社奉行の道を歩いており、前体制

主要閣僚の変更に伴い早まったかもしれない(普通だと

寺社奉行の後は大坂城代になって老中になることが多い

→大坂城代をとばしています)ですが、そのままいけば

そのうち京都所司代になる人物だったわけです。要は、

忠恭公は世間でいう「地雷を踏んだ」ように思います。

 

翌文久3年(1863)前半、この時期は笑うしかない、

といった状況です。

「攘夷爆発!」

というしかないですね。朝廷が攘夷一色と化している時に

将軍家茂が上洛、攘夷決行を奉答、長州が攘夷決行、薩摩

が攘夷決行..何も言えないですね。

 

なんとその時期(薩英戦争は辞任後)の京都所司代は長岡

藩主牧野忠恭公だったのです!

 

継之助は文久3年正月に京都詰となり政務に携わる事にな

ります。藩内における辞任運動が中心だったと思いますが、

多少は政務に絡んだでしょう。当時の京は西郷隆盛や大久保

一蔵、桂小五郎、高杉晋作等がおり、当時の主要攘夷派人物

で京にいないのは武市半平太(当時土佐)くらいですかね?

新選組も勿論いますし、継之助がこうした人物と顔を合わせ

る可能性は無くはないように思います。なんせ京都所司代の

懐刀的存在な訳ですから。マジで芹沢鴨あたりには会ってる

んじゃないですかね?「浪士隊を支援して欲しい」とか言わ

れてたりして。記録で見た事無いですが。

 

ただ言えるのは、この時期の「幕末史」に河井継之助の名前

は全然出てきません。全くといってよいでしょう。という事は、

積極的に京都政界で動いてはいないでしょう。継之助の友人で

ある秋月悌次郎は文久3年8月の「薩会同盟」の立役者として

歴史に名を残しています。そういう動きに連動していれば、

辞任運動をしたり6月に長岡へ帰ったりしていないでしょうか

ら。またそこから考えると、継之助の京都詰就任に秋月悌次郎

が関係しているという線も薄いかもしれません。

 

次回は継之助の方から書いていきます。

 

 

 


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