人物伝・河井継之助「再再出仕・辞職(忠恭公京都所司代辞任まで)2」



備前松山から江戸に戻ってきた継之助は翌文久元年

(1861)夏頃まで江戸にいました。そろそろ継

之助も動き出さなければいけない時期になぜ江戸に

いたか?をまず考えます。

 

おそらくですが、その答えはここにあると思います。

 

“牧野忠恭公”

 

長岡藩主牧野忠恭公は安政5年(1858)10月

25日に家督を相続し11月3日に備前守となり、

翌々万延元年(1860)6月25日に奏者番にな

りました。翌々文久2年(1862)3月24日に

は寺社奉行になりました。この後8月24日には京

都所司代になります。

 

つまり、継之助が西国から戻ってきた万延元年(1

860)春は藩主になりたての“幕閣のホープ”牧

野忠恭公が江戸にいるのです(上記経歴からすると、

忠恭公は安政5年が江戸、翌6年は長岡、万延元年

は江戸のようです)。それも“ただいる”だけでは

なく6月には奏者番になり、幕政に参画していくの

です。

 

先代忠雅公の時に建言書を書き出仕した経験のある

継之助ですから、藩主に直接つながりを得て世に出

ようと考えるでしょうし、長岡だと国家老に阻まれ

(最初の出仕の時は江戸で職に就き長岡へ行き、国

家老等と衝突し辞職しています)万事うまくいかな

いであろう事は想像がつくでしょう。江戸で機会を

狙っていたのではないでしょうか?

 

特に記録には残っていないものの、この時期に藩主

宛ての建言書を提出したりしてそうな気がしますね。

記録に残っていないって事は取り上げられたりする

事が無かったんでしょうが..

 

文久元年(1861)夏の長岡帰郷は江戸での仕官

工作が失敗し仕切り直すためか・それとも金銭的都

合か?いずれにせよ推測の域は出ませんが、そのあ

たりの理由で戻ったんじゃないでしょうかね?

 

継之助が長岡に戻ってからの派手な動きはどうも無

いようです。諸書籍にのっている継之助の手紙で、

この頃のものはちょっと見当たりません(西国遊学

中・江戸滞在時期のものや忠恭公京都所司代就任後

のものはよくありますが)。ちなみにこの時期、鵜

殿団次郎は蕃書調所教授になっています(文久2年

(1862)3月)。

 

文久2年(1862)8月24日、忠恭公が京都所

司代に就任し、9月29日には京都に到着します。

それから一月もたたない10月12日、三条実美・

姉小路公知が勅使として江戸に向かいます。京都所

司代は京における御所監理が最も大きな任務であり、

勅使下向が朝廷のみの判断で所司代に何の相談もな

く実行に移される事は由々しき事態であり、京都所

司代の面目丸つぶれな訳です。この“事件”は忠恭

公他京へ随行した藩幹部(山本帯刀(戊辰戦争で活

躍する“山本帯刀”の義父。執政)も頭を抱えた事

でしょう。

 

上記のような混乱期に、河井継之助は“京都詰”を

仰せ付けられます。

 

この時期の継之助の動きが書物によって若干違いが

あるんです。

 

まずは王道「河井継之助傳」だと、勅使下向の後に

安田多膳を藩庁に推薦し、自らは永井慶弥と共に上

洛し、安田をして提出させた所司代辞任の建言書が

採用されず帰藩、という記述になっています。藩主

より後のタイミングで上洛しています。ちなみに

“京都詰”という役職についたかどうかもはっきり

しません。

 

次にいわゆる“赤本”歴史群像シリーズ39(【会

津戦争】痛憤 白虎隊と河井継之助)の中だと、文

久3年牧野忠恭公が京都所司代になったので継之助

は随行上洛した事になっています。まず忠恭公が所

司代に就任したのが文久3年というのは間違いでし

ょう(「長岡藩史話 牧野家家史」等1次資料にあ

たるものが文久2年8月24日就任となっています

から)。あと、この記述だと“随行上洛”になって

いますね。

 

次に、安藤英男氏著「河井継之助」では、勅使下向

の後、有為の家臣を上洛させる事にし、文久3年1

月、継之助は他の藩士数人と共に召され“京都詰”

に就き、そこで藩主に所司代辞任を勧告し、幕閣に

対しても働きかけを行った、その際に藩主代理とし

て老中に書面まで送っている、という内容です。あ

と、「一足さきに公用人を辞して国に帰った」とい

う記述があります。辞任運動に挫折したのではなく、

藩の方針が辞任になった後、国へ帰ったという事に

なります。

 

まず

継之助上洛;藩主随行 or 後からか?

ですが、資料の記述の仕方から考えると、後から上洛

しているように思います。当時藩主は江戸(寺社奉行

の職にあった)、継之助は長岡です。無役の男に対し、

長岡にいるものを無理に江戸からの上洛に随行させる

とは考えにくいです。

 

次、

継之助の上洛;主命 or 自分で判断?

は、ほぼ間違いなく主命だと思います。主命じゃなく

勝手に上洛などしたら、考えようでは“脱藩”ですも

んね。

 

建言書;上洛前 or 上洛後?

ここは予測の域ですが、前にも出していると思います。

おそらく勅使下向の後有為なる数名の藩士を上洛させ

た、っていうのは本当(逆に、そうした特例でなけれ

ば無役の継之助が表舞台に出る筈がありません)だと

思うんです。その“有為なる藩士”として扱われるた

めには建言書提出が必要でしょう。

 

京都詰;役職 or 単に藩士として京都にいたのか?

ここは微妙ですが、役職である可能性は低いと思います。

会社でいう「転勤の辞令」みたいなものをもらった、っ

て事じゃないでしょうか?それが無役からだったので出

仕になる訳ですが。安藤英男氏の記述にある「公用人」

になった可能性は低いと思います。

 

帰藩しているか?

「河井継之助傳」の資料性は高いと認識されていますが、

忠恭公が所司代辞任後すぐに老中になった時に継之助は

「者頭格御用人勤向公用人兼帯」になり、今度は老中辞

任の運動をします。それを考えると志半ばで所司代辞任

運動をやめて帰藩するとは思いにくいんです。かといっ

て帰藩をしていないのに「傳」が書くのもどうかと思い

ますし、帰藩自体は多くの書物に書かれていますから、

別の理由で帰ったんじゃないでしょうかね?なにか単純

な理由で。国家老への報告とか。

 

この時期に「藩主代理」として老中に書面を送る事はありえるか?

正直、ありえないと思います。周旋方や藩幹部であれば

何かしらありえるかもしれませんが、立場自体はさほど

に重くなかった筈ですから。老中へ書面を出したって、

老中辞任の時の話と混じってるんじゃないですかね?

 

 

自分なりの考察をした上でのこの時期の継之助の行動は

 

(忠恭公、京都所司代就任)→辞任建言書提出〜(勅使下向)→

藩より上洛を命じられる→上洛、所司代辞任のため奔走〜(忠恭、

辞任の方針を決定)→継之助、帰国し国家老等へ藩主意向伝達〜

(藩主辞任)

 

こんなところじゃないかと思います。

 

 

幕末史的にはいろんな事があるのですが、継之助を軸にして話

を進めているので所司代辞任までに関してはこのくらいにしよ

うと思います。

 

次は忠恭公老中就任〜辞任までの継之助を書きます。

 

 

 


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