人物伝・河井継之助「再再再出仕・辞職(忠恭公老中辞任まで)」



文久3年(1863)6月11日に牧野忠恭公は京都所司代

を辞任します。このあたりから河井継之助が藩内において実

質的なところで発言権が大きくなっているように思います。

 

京都所司代辞任から老中就任・辞任までの年譜を作りますと

 

文久3年  6月11日  ※牧野忠恭公、京都所司代辞任

      7月 2日  薩英戦争

      8月17日  天誅組の変

      8月18日  諸藩による宮門閉鎖(8月18日の政変)、七卿落ち

      9月13日  ※牧野忠恭公、老中就任

      9月21日  土佐藩、武市半平太等尊攘派を投獄

     10月12日  生野銀山の変

     12月     朝廷、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城に朝議参与を命じる

     12月24日  ※牧野忠恭公、外国事務管掌となる

元治元年 正月      ※河井継之助、物頭格御用人勤向公用人兼帯就任、江戸出府

      1月     朝廷、島津久光に朝議参与を命じる

      2月28日  山内豊信、朝議参与辞職

      3月 9日  松平慶永、伊達宗城、一橋慶喜、松平容保、島津久光、朝議参与辞職

      3月27日  天狗党挙兵

      5月19日  ※河井継之助、笠間公と激論、不敬罪により辞任

      5月21日  神戸海軍操練所発足

      6月 5日  新選組、池田屋襲撃

      7月19日  蛤御門の変

      7月11日  佐久間象山暗殺される

      8月 2日  第一次長州征伐(宣言)

      8月 5日  四カ国艦隊馬関上陸

      9月 6日  ※牧野忠恭公、四カ国代表と会談

     11月 1日  天狗党、京を目指し太子出発

     11月16日  長州藩降伏(第一次長州征伐)

     12月16日  功山寺挙兵

     12月17日  天狗党、加賀藩に投降

慶応元年  2月     長州藩、正義派(尊攘派)が政権を握る

  4月19日  ※牧野忠恭公、老中辞任

 

この時期は何と表現したらよいのでしょう?まずは尊攘派にとって冬

の時代でしょう(慶応元年2月に長州にて政権奪取するまでは)。天

誅組、土佐勤皇党、生野義挙メンバー、水戸天狗党、長州志士および

長州系志士、“数多くの”では言い表しきれない多くの有為なる人材

がこの世から去っています。合掌。

 

次には、従来の枠組みで物事を考えられなくなってきた時期であるよ

うに思います。従来の見方だと京における参与会議が進歩的発想での

帰結点であった筈ですが、時代はもっと前に進み、各所で倒幕を目標

とする姿勢が見えてきます。対立軸が“攘夷か開国か”ではなく“幕

府擁護か倒幕か”にかわっていきます(後に“倒幕か討幕か”に進ん

でいきます)。

 

かといって、明確に倒幕の姿勢をとるかどうかというと、色々な立場

によって微妙な動きをする(特に薩摩)ために、この時期における

“従来型攘夷”は現代の私たちから見れば時代から遅れた色あせたもの

として映り、悲しい事に滑稽さをも含むものになってしまっています。

 

話を継之助に戻します。

 

京都所司代を辞任した牧野忠恭公は江戸藩邸へ戻りました。その忠恭公

を持っていたのは“老中”でした。辞任から3ヶ月も経たない9月11

日に老中就任となります。この件を継之助が耳にした時は愕然としたで

しょうね。せっかく京都所司代を辞任したと思ったら今度はもっと重た

い老中になったんですから。早速継之助は藩に対し辞任運動を起こしま

す。「河井継之助傳」には、自ら出府したと書いています。このあたり

はどうかな?と思いますが、いずれにせよ何かしらの動きはあったもの

と思います。そうして元治元年正月には

 

「物頭格御用人勤向公用人兼帯」に就任します。

 

この職はかなり重要なポストですね。「御用人」は長岡藩における藩主

側近の最も高い役職で家老・奉行等から藩主へ上申する際に事項を聴取

するための役で世襲家老五家に次ぐ中老(500石以上。奉行等で功が

あるも家老にできないために就くポスト)が就いていました。通常藩内

において五家老家以外で「出頭人」とされる人物が就くことのできる最

も高いポジションです。おそらく忠恭公は辞任のために継之助を抜擢し

たのでしょう。

 

この時期の継之助は老中次席の板倉勝重公に対し老中辞職の内願書を訪

問し提出したりしています。押しも押されぬ藩の中心人物ですね。

 

なんとか藩論を辞任の方向に持っていき、忠恭公を病と称して登城させ

ない作戦に出て辞任の機会を伺っていたところ、幕閣は長岡藩牧野家の

支藩である笠間藩主牧野貞明公をして登城させるべく動き、笠間公が直

接長岡藩江戸藩邸に訪問、忠恭公を説得するという事態となりました。

 

笠間公の用向きは「まっとうな」話であり、忠恭公としては「病が..」

しか言いようが無い訳です。そこで窮した忠恭公は継之助を呼び出し応

接させたところ、議論が激化し継之助が笠間公を痛罵するに至ってしま

ったそうです(^^;;;忠恭公もそのままにしておく訳にもいかないので継

之助を叱り付け退席させ、辞職させました。このあたりの「河井継之助

傳」を一部参照(一部読み下します)しますと

 

笠間侯(長岡藩の支藩当時閣老たり)一日忠恭を龍の口の老中屋敷を訪

うて親しく、其の病と称して出仕せざるの非を説く。忠恭、継之助を席

に召す、笠間侯即ち継之助に向かい閣老辞任の理由なき旨を説き、且つ

藩士の行動について詰る所ありしに、継之助之に服せず、議論漸く激し

て継之助の意気揚揚昂り、終いに侯を痛罵するに至れり。状を見て、忠

恭も侯の手前其のままに捨て置き難く、陽に大に怒り、植田十兵衛を呼

び、強いて継之助を退席せしめたりしが、継之助は、笠間侯に対する義

理としても、そのまま現職に留まり難きのみならず、到底其の意見の容

れざるべくも非ざれば五月十九日を以ってその職を辞しぬ。

 

「河井継之助傳」 題四章 再度の出仕 p.59 (一部読み下し)

 

こうです。絵的に凄い光景ですよね(^^;;

 

辞職願は永井慶弥が起草しました

 

私儀、痔疾にて引篭罷在候処着時全快の体も無御座候に付乍不本意物頭格

御用人勤向公用人兼帯当詰御免被成下候様相願度奏存候此段御組頭に御内

意御伺被下度奏願上候以上

                                         五月十九日 河井継之助

 

継之助は上記文案を一読し、「これでは病気が足らぬようだ」と筆を持ち、

“罷在”の脇に「其上胸痛差迫り」と加え、永井慶弥と顔を見合わせ笑っ

たそうです(^^)

 

しかしまぁ、永井もユニークがあるというか..なぜ「痔」なんでしょうね?

 

継之助の辞職に伴って「桶党」の同士である植田十兵衛、三間市之進、花輪

馨之進も辞職し、一党は長岡へ帰りました(ちなみにこのくだりはなにげに

重要なところです。この頃既に継之助を中心として勢力ができあがり、その

メンバーが首領格の辞職と共に辞職しているのです)。

 

継之助の辞職の一年あまり後に忠恭公は老中を辞任しました。結果的には

継之助が唱えた方向に藩が進んだ事になります。

 

長岡に戻った継之助はしばらく長岡でのんびり過ごしていましたが、忠恭

公が老中を辞職し長岡に戻ってきた事で再度登用される事となります。慶

応元年7月、外様吟味役に就任、ここから怒涛の出世街道驀進となります

(「河井継之助傳」は元治元年就任、その他資料は手持ち分全て慶応元年

就任、その他資料を採用し話を進めます)。内政を扱う官僚としての継之助

については次回から書き始めます。

 

 


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