人物伝・河井継之助「山中騒動(外様吟味役時代)」



藩主の老中辞任運動において笠間藩主を痛罵してしまい、

またもや辞職をしてしまった河井継之助ですが、翌年慶応

元年(1865)7月に外様吟味役となり、そこから怒涛

の出生街道を駆け上がっていく事となります。おそらくは

慶応元年4月に老中を辞職した牧野忠恭公が藩政改革に着

手するにあたって再度彼を抜擢したんでしょうね。

 

話をいきなり変えますが、

まずは復職前に継之助が義兄梛野嘉兵衛に宛てた手紙を書きます。

 

幕府の長州侯御征伐は、諸大名を制御する威権無き事を示天下儀に

有之、吹毛求疵之恐有之事と懸慮に不耐候。長州侯領地御召上之御

覚悟無之候而者、第ニ第三の長州侯可出は顕然之次第と存候。

攘夷尊王杯と浪人共言振し居候趣、迂愚之至に候。普天之下、率土

之濱、非王臣者無し、尊王之儀をわきまえざる者一人も可無候。攘

夷とは何たる儀に候哉、洋舶渡来候とて、吾に綱紀立ち、兵強く、

国富み候はば、不足恐事に候。用意も不致候而、攘夷攘夷と騒候は、

臆病者之たわこと、心痛此事に候。吾に用意有之候得者、通商之道

を開き、勢に乗じ、国富之実を挙げ候事も出来可申、無禄之浪人共

の取沙汰ならば、糧の為と一笑に付し可申も、薩長之外船砲撃とは、

何たる無謀の振舞か、嘆息之外無之、行々は天下之乱階と慨敷不堪

深憂候。今日者不容易大事之時、上下一致、綱紀を張り、財用を充

し、兵を強し、一朝之変、御家名を不汚心掛第一義と奉存候。御家

之事者、猶篤と拝鳳可申上、何卒御熟考御取拾可被成下候。謹言。

 

九月十四日

 

「河井継之助傳」 第四章 再度の出仕 p.61 より

 

この時期は第一次長州征伐の宣言(元治元(1864)年8月2日)

がなされ、攻撃に向けて準備がなされていた頃です(結果的には開戦

前に長州藩が降伏しました)。下関事件(文久3(1863)年5月

10日)、四ヶ国艦隊との交戦(元治元年8月10日)、薩英戦争

(文久3年7月2日)と継之助から見れば呆れ返る他無い行動が西国

諸藩で行われ、そうこうしているうちに内乱と言える長州征伐がおこ

ります。この時期における進歩的人物が当然感じているような内容で

はありますが、西国遊学からの帰途段階(万延元年(1860)、4

年前になります)で既に公武合体による“一新された”政道による富

国強兵を唱えている継之助としてみれば「世間の馬鹿野郎!」みたい

な気持ちがこめられている文章だと思います。

 

元治元年から慶応元年にかけて一年以上の間、継之助は役職に就く事

なく日々が過ぎていきます。この激動の期間に彼が動けなかったのは

痛かったですね。継之助の改革は外様吟味役から数えて4年弱、中老

(閣僚と呼べる立場でしょう)就任からは1年弱です。あと1年強の

時間が彼にあれば、もう一つ上の段階まで長岡藩を持っていけたよう

に思います。

 

 

明治維新の主役となる人物が「時代の中心」に腰を据え、まさに千秋

楽へ向かい始めた頃、河井継之助39歳は8年前にも就任している

「外様吟味役」から再スタートとなります。

 

まず彼が扱う事となったのは「山中騒動」です。山中村は長岡藩領で

あった蒲原郡の一部と天領であった諸村とで替地が行われた時に長岡

藩領となった村の一つです。“天領”は一般に租税が軽く、“藩領”

と比べて経済的に余裕があったそうです。そうした事も相まって天領

在住の民は「公方様の領地に住んでいる」事にプライドを持っていた

ようですね。まぁ、そういう状況から“藩領”になってしまった村は

藩庁としてはやっかいな所だったように思います。

 

そうした村の一つである山中村で、庄屋(里正)の徳兵衛と村人の間

で問題がおき、訴訟沙汰がおきました。原因は徳兵衛が庄屋の権威を

笠にきて欲しいままにし、時に不法の行動があったと「河井継之助傳」

には書いてあります。まぁ、どこにでもある問題ではあると思います。

その処理に継之助が任命された、ってところでしょうね。

 

そこで継之助は非なる事を明らかにし、両者の感情の融和に尽力し、

刑の執行猶予にもっていったようです。これは別段凄いことではなく

普通に行われている調停と同じでしょう。処理方法自体は普通の事だ

と思うので、これを「凄い凄い!」と言うのは贔屓の引き倒しになる

ような話でしょう。ただ、その後抜擢されているところから、一応は

難問題だったのではないかと思われます。継之助のような強い気の持

ち主ゆえにうまく解決した、ってところでしょうかね。

 

継之助は外様吟味役就任から3ヶ月あまりで郡奉行に昇進します。こ

の昇進は普通じゃない早さだと思います。おそらくは忠恭公の意向で

継之助が早く藩政に参画できるよう出世させたんでしょうね。

 

次回は郡奉行のあたりを書きます。

 

 


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