人物伝・河井継之助「巻騒動(郡奉行時代1)」



これから数回にかけて河井継之助の郡奉行としての足跡

を追っていこうと思います。まずはこの時期の幕末史を

年表で書きます。そうしていかないと継之助の行動がい

つの頃なのかピンとこなくなるもので。

 

慶応元年(1865)

 

 9月21日 第二次長州征伐宣言

10月13日 ※河井継之助、郡奉行に昇進

 

慶応2年(1866)

 

 1月21日 薩長同盟成立

 6月 7日 第二次長州征伐開戦

 7月20日 将軍徳川家茂急死

 8月21日 征長休戦の勅命出る

11月19日 ※河井継之助、御番頭格町奉行兼郡奉行就任

 

大村益次郎が石州口(山陰方面)で幕府軍に対し大勝利をあげて

いた頃に継之助は「時代」に対し背を向けひたすらに藩政改革を

進めていきます。時代の先を走る各藩では継之助よりもはるかに

若い人材が藩政を動かす立場に立って来るべき大変革の時代に向

けて進んでいます。ちょっと前まで剣術書生だった坂本龍馬は薩

摩と長州の手を握らせる快挙を演じています。若いドライバーが

最新式のスポーツカーで快走している最中に継之助はスターティ

ンググリッドにさえ立っておらず、車体の整備をやっと始めた訳

です。

 

慶応元年(1865)10月13日、河井継之助は郡奉行となり

ました。翌慶応2年(1866)11月に町奉行を兼任するまで

が郡奉行専任時代に継之助が行った事のうち代表的な事柄として

 

・巻騒動解決

・水腐地処分

・中の口川改修

・山中騒動(再)

・賄賂禁止

・協同的救助法制定

・毛見制修正

 

このあたりが挙げられるかと思います。こうした事柄を各回毎に

とりあげていきます。

まずは「巻騒動」からいきます。

 

西蒲原郡にある巻村、曽根村では地元農民と富豪今井孫兵衛の間で

問題があり、訴訟騒ぎとなっていました。今井孫兵衛は越後でも有

数の富豪で武士階級出身ではありませんが、長岡藩の献金要請に応

じた結果、「御勝手元」として士分を与えられていました。御勝手

元とは内政経済に関する事務を管理する役職で奉行を兼ねる立場で、

地方(郷中)の行政を司る郡奉行とは同格と言えるのではないでし

ょうか。ただ、今井は献金によって得た名誉職であるために実際は

藩内でどうこう言う立場ではないと思いますが。

 

騒ぎの内容は、今井孫兵衛は御勝手元の立場にあるためか、自らの

蔵に公的な米を管理しており、そうした環境で不正が行われている、

というものです。現代でいう「公金流用」になるんでしょうかね?

ままある事なんでしょうが。

 

そこで藩は文書を交付する事で今井が今後不正を行えないようにし

ました。内容としては「今後今井にして再び今日の如き不都合の所

業あらんには、庫米は残らず郷中に分与すべし」というものでした。

これでおさまるかと思いきや、今井の行動は改められなかったよう

で、領民が「庫米を郷中へ」という訴えをおこしました。

 

その訴訟さわぎのなか、継之助は郡奉行に就任しました。そこで継之

助は就任後ニ三日目にして早々と巻村へ出張し、訴えた側である巻村

の庄屋を代官所へ召集し、書面にて約束した事を実行することを伝え

ると共に訴えを取り消させました。そうした上で今井に対し不心得を

叱責し、問題となった量の米を藩庁に献納させ、その米を藩庁名義で

領民に下賜しました。

 

こうして継之助は藩庁の面目をつぶさない形で領民をおさえ、解決さ

せました。

 

この解決法は結局体面を重視したもので、後世から見て痛快なもので

はありません。が、うまく事をおさめるのは古今東西変わらず大変で

す。それができた継之助は凄い、という話です。

 

次回は水腐地処分について書きます。

 

 


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