人物伝・河井継之助「賄賂禁止(郡奉行時代5)」



河井継之助の郡奉行専任時代(慶応元年(1865)10月

13日〜慶応2年(1866)11月)に行った事のうち代

表的な事柄である

 

・巻騒動解決

・水腐地処分

・中の口川改修

・山中騒動(再)

・賄賂禁止

・協同的救助法制定

・毛見制修正

 

のうち、今回は「賄賂禁止」について書きます

 

「賄賂禁止」なんて反対する人いないでしょう。皆が正義と認識

する事のはずです。しかし、実際は世の中にまかり通っていたり

します。根元から実際に根絶するのはどんな政治家でも無理かと

思いますが、賄賂禁止のためにどう動いたかでその人物がどうい

う考えをもっていたかが見えてくると思います。河井継之助が賄

賂に関してどう取り組んだか見てみましょう。

 

郡奉行は地方行政の責任者として大きな権限を持っているため

「役得」が多い職と認識されていたようです。「三年程郡奉行

を勤めれば植木に小判の花が咲く」とまで言われていたようで

すし、郡奉行の支配下である代官でさえ「御代官には及びもな

いがせめてなりたや殿様に」と言われる程の立場だったようで

すから。

 

継之助は郡奉行就任にあたり、奉行所に代官一同を召集し、

「各々方は様々の名義で下々より贈物を受納しているようで、

その事を取り沙汰している者がいる。私は各々方の私欲から出

た所業だとは思っていない。要するに上からのご手当が不足し

ており勤め向きに難渋するため心ならずも断る事ができないで

いるのであろう。誠に気の毒である。私が郡奉行を奉ずる以上、

各々方と同心一体ともいうべき身の上であるので打ち明けてほ

しい。如何程のご手当があれば御役向きに差し支えがないのか?」

と話をしたところ、代官一同は暫くして「今まで通りの恩賜にて

毛頭差し支えありません」と答えたそうです。そこで継之助は

「しからば各々方もこれからは付け届けなどと称する曖昧な贈

物は一切受納しないように」と指示したそうです。相手にグウ

の音も出させない論法で縛りを入れていく継之助らしいやり方

ですね。

 

継之助の就任時にも多くの贈物が届いたそうですが、彼はそれ

を一切受け取らずに持ち帰らせたそうです。その厳しさを伝え

る話に、知人が親爺の米寿の祝いで米寿の餅を持ってきたので

すが河井家の廊下番が平素厳しく言われていたために有無をい

わさず突き返してしまったそうです。それを後から聞いた継之

助は「それは悪い事をした。先方も不吉がるだろう」と言い、

樽酒を持たせ詫び伝え餅を貰いに行かせたそうです。

 

あと、当時通例となっていた事として、役職に就いた者は関係

各位(郡奉行だと家老職から郡奉行・代官まで)に金品を贈る

習慣があったのを禁止したのをはじめ、田畑の売買時に百姓は

代官へ、庄屋は郡奉行へいくらかを裏書料として納める習慣が

あったのも禁止しました。

 

継之助は倫理的な面からも上記の動きをしていたと思いますが、

一番の狙いは金品の動きを透明化させる事だったように思いま

す。藩財政が苦しい状態の長岡藩では、何かしらの方法で藩庫

に多くの米ないしは金品を積み上げるように持っていかなけれ

ばいけません。藩内のどこにどの程度のお金がありどう動いて

いるかがわかれば、それを藩庫に流れていくよう「仕組む」事

ができますから。

 

次回は「協同的救助法制定」について書きます。

 

 


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