人物伝・河井継之助「協同的救助法制定(郡奉行時代6)」



河井継之助の郡奉行専任時代(慶応元年(1865)10月

13日〜慶応2年(1866)11月)に行った事のうち代

表的な事柄である

 

・巻騒動解決

・水腐地処分

・中の口川改修

・山中騒動(再)

・賄賂禁止

・協同的救助法制定

・毛見制修正

 

のうち、今回は「協同的救助法制定」について書きます

 

今の私たちにとっての「米」、昔の人々にとっての「米」、

同じものではあっても意味合いがかなり違うように思います。

今は主食として食べ物の代表格ではあるものの、数ある食べ物

の一つであり、食べ物以上のものではありません。ところが江

戸時代は全然違うんですよね。

 

継之助のいた時代、藩の税収は米でした。租税対象は農民です。

農民は収穫した米から「税」として「年貢」を藩に納めていた

のです。基本的には収穫高に応じてある比率で年貢を納める形

だったようです(年貢の割合は4割から6割が多かったようです)。

 

さて質問です。凶作で米があまりとれなかったらどうなるのでしょう?

 

答え:藩の収入も大幅に減り、農民は食べる米さえ不足してしまう。

   米不足のために値段が高騰し皆が米を食べられなくなる。

 

ってところでしょうか?要は“大変な事になってしまう”訳です。

 

この問題を解決するために各藩で様々な方策がとられました。

長岡藩では通常の年貢以外に定額の米殻を徴収し、貧民を救済

したり不時の災厄にあった者を救済する事に使っていました。

この制度自体は素晴らしいものなのですが、役人が関与すると

自然とわいてくる「腐敗」の温床となってしまい、弊害の方が

大きくなっていました。

 

そこで継之助は、この制度を導入する前に各地域行われていた

備蓄の制度を復活させ、藩主導ではなく民主導で運営させる事

にしました。これを「協同的救助法」といいます。

 

この制度の目的は腐敗防止と共に、農民に対して「藩は災厄に

あっても人道的配慮を行う存在ではない」事を伝えるのが目的

だったのではないかと思います。

 

この一件は、清廉な河井継之助が行った腐敗防止策として見れ

ばきれいな話ですが、正直そっちよりも藩財政再建に取り組む

「鬼」の顔がチラチラ見えるような気がします。そうした見方

をした上で、私はこう思います“河井継之助はすごい“。

 

最後に、継之助からの通達書を書きます。

 

「不慮に凶年之難あらば、如何いたす所存に候哉。御上にて、

何ほど御世話有之候とも、平日其心掛無ければ、一家離散し、

餓死に至る者も出で可申、不憫至極に候。去れば平日に凶年之

難義なる事共を思遣り、今迄通の納米を宛にいたさず、随分万

事に倹約を守り、兼て掟之趣に基き、社倉の設をなし、村方相

応に其備をいたし置候様、庄屋村役人共得と協議可致、此義下

々之者迄確と相心得、御仁政行届候様至急世話可致候。

附、規約相定候上は、逐一申立、御指図を受べき事。

右相達候也。

六月」

 

 

次回は毛見制修正について書きます。

 

 


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