人物伝・河井継之助「毛見制修正(郡奉行時代7)」



河井継之助の郡奉行専任時代(慶応元年(1865)10月

13日〜慶応2年(1866)11月)に行った事のうち代

表的な事柄である

 

・巻騒動解決

・水腐地処分

・中の口川改修

・山中騒動(再)

・賄賂禁止

・協同的救助法制定

・毛見制修正

 

のうち、今回は「毛見制修正」について書きます

 

まず、毛見制について説明します。この制度は米が不作だった時

の救済措置です。当初は毎年検分し年貢を決めていました。しか

し、制度の運用が困難(毎年毎年調査したり決めたりするのが大

変だったのでしょう)だったために、享保年間に変革し、ここ

10年間の平均から免除量を決める形とし、格別に悪い年に限り

毛見制を適用する事としていました。

 

しかし、水腐地処分と同様、こうしたところには腐敗がうまれ、

賄賂の温床となっていました。免除量を増やしてもらいために

毛見の役人に対し過度の接待を行う上に賄賂を渡すようになり

ました。悪弊を生む上に接待や賄賂の費用がかさみ、結局農民

にとって何にもならない制度になってしまいました。

 

そこで継之助は悪弊を生む毛見役人の検分・徴税を従来の庄屋

宅から代官宅にし、厳しく管理を行うようにしました。その次

には、農民全体の年貢を引き下げ、断固毛見制自体を廃止しま

した。この判断は大きな反発を食らいましたが継之助は一歩も

退く事なく断行したのです。

 

結果、弱者救済措置が行われなくなった訳ですが、だからと言

ってただ弱者が苦しむ結果になった訳ではありません。

 

継之助の改革は多岐に渡っており、中の口川改修により不作の

大きな要因である水害が起こりにくくなるよう整備を行い、水

腐地処分により徴収高を増やし、その余裕をもって年貢を公平

に下げ、民間に社倉を作らせる事により地域で弱者救済措置が

とれるよう段取りを進めていた訳です。

 

この結果、全体としては賄賂等の横行が減り、整備により安定

した収穫が得られ、特例を廃止した事により藩の収入も安定す

る、といった形で「一応」うまくいったのです。

 

なんか、誰か参考にしている人がいそうですね(^^)(^^;;

 

継之助は慶応2年11月19日に町奉行を兼務する事となります。

次回から町奉行時代の業績等について書きます。

 

 


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