人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代2」



河井継之助の出世物語として一番面白いところが、町奉行から奉行格になっていくあたりでしょうか?時代劇にも出てきそうな話とかありますよね。

今回はさほどに派手な話ではありませんが、

「割元庄屋管理」

について書きます。

この項は、継之助が町の有力者とどのように向かい合ったのかを扱います。

慶応二年11月19日、世間では第二次長州征伐が失敗に終わり誰の目にも時代の動きが見えてきた頃に河井継之助は「御番頭格、町奉行兼郡奉行」となりました。要は町奉行を兼任したと言ってよいかと思います。

継之助はまず、リングが鳴った直後のカウンター攻撃の如く検断(都市部における庄屋にあたる立場)の草間、宮内、太刀川の3名に対し蟄居を命じました。理由は「平素の不心得不謹慎」です。恐ろしい人ですね、継之助は。その時の申渡書を書きます。

検断役取揚場叱蟄居

此者儀、兼て驕奢、身分不取締、如何布所業も有之哉に相聞候、御国恩を不顧、役儀不似合の致し方、重々不埒の事に付、死罪にも可申付処、舊家の義、以出格書面之通申付候。

後の12月5日には「分不相応に驕奢である」として町民米蔵を追放の刑にしたそうです。私は当時の行政書類を確認まではしていませんが、推測だとこの時期にもっと多くの処罰者がいたのではないかと思われます。悪い言い方をすると、恐怖政治を行ったのではないかと思います。今後行おうと考えている施策を断行しやすくするために。

このくだりは、要は「贅沢は敵だ」キャンペーンだと思うのですが、この時期の話で有名なのを書いておきます。

継之助は割元庄屋を自邸に招いたそうです。久々の奉行からの招きということもあり、招かれた有力者達は如何なる饗応なのかと喜んで訪問しました。実際来てみると確かに丁重なもてなしではあるものの膳の上には豆腐のから汁と大根の煮付けしかのってなく、各人考えている最中に継之助から「各々方は平素滋味に飽きていると思ったので特に今日は常食の手料理を饗す次第です。心ばかりの馳走も一興、遠慮なく召し上がられよ」とのコメントがありました。一同思わず冷や汗を流し、それ以降公私の会合において華奢の風を慎むようになったそうです。

正直、痛快な話ではなく嫌味な感じがします(^^;;一同冷や汗、それ以降は贅沢しなくなったなどという勧善懲悪水戸黄門話はあまり気分は良くないですが、そうした露骨というか、直接的な方法を用いてまで町民を管理しようとしたというのは、その内容が現代からみてどうかはさておき、この時代からするとかなり進歩的な「国民国家」を継之助が描いていたのではないかと思われます。この時期になるとヨーロッパでは国民主権の国家さえも登場しており、国民及び各種生産力を含めたものが「国力」であることが一般的(というか、ナポレオンの活動・戦績によって国民国家の優位性が認知されたと言った方が良いかもしれません)となっていたように思われます。日本においても有識者は認識していたでしょうが、実際の行政は租税対象として以外武士階級以外の人間を考えることができない段階からの脱却ができていなかったように思います。そうした諸藩の行政機構と比較した場合、一連の継之助の政策は近代的かつ進歩的であり、突飛なものだったでしょう。ある意味、長岡藩が小藩であったがために成しえたとも言えるでしょう。勿論継之助の見識や行動力が前提となりますが。

その一連の施策について紹介していこうと思います。


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