人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代3」



今回は、「寄場の設立」について書こうと思います。

寄場といきなり書いてピンと来ない方沢山おられると思います。刑務所のことだと思ってください。刑務所の運営に関する施策について継之助が中心として行ったところについて紹介していきます。

もしあなたが権力者だったとしましょう。罪人をどうしますか?まさか全員死刑にはしないでしょう。死刑にならない人間は全て追放しますか?それとも鞭で叩いたりして痛めつけて刑の執行を完了させますか?

そうしたやり方というのは、罪人を社会の構成員として戦力と考えていない時に出る発想でしょう。死刑にしてしまえば死んじゃうので当然戦力にならない。追放したらその土地における戦力にならない。痛めつける刑のみだと、その時だけ我慢して終わってしまうのでタチの悪い人間のままで社会に貢献することはあまり期待できない。

国家を国民の力の総和と考えた場合、罪人も国力を上げていくための大事な要員な訳です。ただそのままだと使いものにならない。そこでどうするか?それが国民国家の指導者が考えることでしょう。

当然長岡藩領内に元々牢獄はありました。そこはそこで運営するとして、現代でいう懲役犯を収容する新しい施設「寄場」を設立しました。

その「寄場」で行ったことは

  1. 一定の時間労働させ、その賃金から食費を差し引いた分を積み立て、出所時に与えた
  2. 講義を行い感化に勤めた
  3. 改悛したと判断された時点で赦免した
こうした現代の刑務所で行われていることを大昔にやっていたのです。懲役中も労働を行う事により生産力となり、その労働が職業訓練にもなり、出所後の資金を得ることによってまっとうな道に進みやすくしています。講義によって有為なる人物となる手助けをしています。改悛したと判断される時点でその人間は社会で役に立つことが予想されるため、そうした人材が世に出ることで地域の生産力も向上します。結果、地域振興につながり国力増加になる訳です。

更に当時の長岡藩の制度は進歩的で、一定の自由時間(夜から朝まで)を設け自宅へ帰ることさえも許可したのです。ただし規定時刻に戻ってこない者に対しては厳罰で臨んだようで、寄場設立3日後に脱走した者は捕らえられ斬刑に処されました。外に出ても他の人と区別がつくように頭を五分刈り、柿色の牢服を着せたようです。

罪人に刺青を入れ、「こいつは罪人です」という消せない印を付ける発想の正反対ですよね。

これはまさに傷をつけレッテルを貼るだけのもので、なんら生産的な要素がありません。

今となっては当たり前のことをした、というのはある意味凄いです。今でも通じるものを運用していたという事ですから。まぁ、独創なのか外国人や他の有識者から仕入れた考えなのかはわかりませんが。

余談ですが、寄場の場長さんは後に関西財界の雄となった外山脩造(当時25歳、初代阪神電鉄社長、日本銀行初代大阪支店長、大阪麦酒(現アサヒビール)設立委員他経歴多数!?)でした。長岡藩領内の庄屋の息子で、明治時代に最も活躍した長岡人と言えるでしょう。幕末における彼は河井継之助の股肱の一人として名を挙げられることが多いです。


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