人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代4」



今回は、「賭博取締」について書こうと思います。

江戸時代の治安維持機構というものは今からみれば少々奇異なものでした。何ていうのでしょうか、偉いお侍さんが行政を司るわけです。その「偉い」侍さんたちは悪い奴を捕まえるための情報収集や探索、ひいては捕まえること自体が「卑しい」とでも考えちゃったんでしょうかね?そういうことは市井の人たちにやらせた訳です。その任にあたったのが「目明し」と呼ばれた人達でした。彼等は手下を使って侍がやらない仕事をこなしたのです。今の警察でいうノンキャリアの仕事になるのでしょうかね?

その「目明し」は行政組織上、正規の構成員ではありません。よって、正規に報酬が出る訳ではありません。実際、正規の構成員である与力から多少のものは出ていたりしていたようですが、充分なものではなかったようです。そうすると彼等はどうやって生活をしていたのか?という話になるのですが、賭場を運営して生活していたようです。目明しが賭場の親分で手下が子分、というわけです。賭場で稼いでいた人達が行政に協力していたと言ったほうがすっきりするかもしれません。その協力の見返りとして本来は許されない賭場の運営を黙認してもらっていたのでしょう。

まぁ、そんなことではまっとうな状況にはならないでしょう。今で言うと暴力団が警察業務を行うようなものですから。

そんなこんなの状況を改善しようと継之助は考えたのではないでしょうか?当時盟友であった村松忠治右衛門は盗賊奉行であった(というより兼任していたというべきでしょう)のですが、二人が中心となって制度を変えたのです。

二人は賭博禁止を強く打ち出し、賽の目などの賭博道具は奉行所に提出するよう求めました。もし隠すようであれば厳罰に処すとふれ、道具類の売買を行った者も処罰することにしました。

そうなると目明しや手下共は食うに困ってしまいます。そこで二人が行ったことは、正規に手当米を出したのです。目明しには二十五俵、手下には各五俵ないしは六俵でした。

ざっとで計算してみましょうか。米1俵=銀50匁、銀50匁=金1両、金1両=現在の10万円、と大雑把に考えますと目明しで年収250万円、手下で50〜60万円..少ないですね。月収の間違いじゃねーの!?って感じです。計算が大雑把過ぎたかもしれませんが、どうも充分な手当てではないような気がします(^^;;ちなみに石高換算をすると目明し(二十五俵)は約8石取り、手下(五〜六俵)は約2石になります。当然石取りは家格を現している要素が強いので石取りと同じになったわけではありませんが。

少ないとはいえ多少でも手当てが出る人は救いがあるだけましで、そうじゃない人は稼ぎようがなくなってしまうので大変だったでしょう。博徒全員が目明しや手下だったわけでは無いでしょうから。ただの博徒は稼ぎようが無くなったわけです。

継之助のあくの強い徹底ぶりが見える逸話を書きます。

栃尾の西中の俣に勇蔵という賭博打がいたのですが、禁令と共に賭博道具一式を庄屋に預け、「自分も長々と賭博を打って道楽をしたが、聞けば最早賭博は御禁制だというから断然思い立って今後は一切打たない覚悟だ。どうかこれを預かってください。それでもこれまでの罪で入牢を申し付けるとあれば致し方ないが、これ位発心した者をよもや罰しないでしょう。何分にもお頼み申します。」と言って帰ったそうです。それから五六日たったくらいに、その勇蔵のところへ一人の男がやってきて「一場やらせてもらいたい」と頼んできたそうです。そこで勇蔵は庄屋に言ったことを繰り返し断るもなかなか言うことをきかない。そこで勇蔵は二分金を一つ出し、「これをやるから他へ行ってくれ」と言って返したそうです。それからしばらくたったある日、庄屋を通じて二分金が勇蔵の手元に帰ってきたのです。もう想像つくかと思いますが、勇蔵のところに行ったのは河井継之助だったのです。

ちなみに継之助は勇蔵に断られた後に同じ栃尾の荒山にいる某博徒のところへ行き同様のお願いをしたところ、そこでは相手になったために取り押さえられ博徒は処分されたそうです。

遠山の金さんに出てきそうと言えば聞こえが良いですが、要は囮捜査ですね。その囮に自分がなるっていうのが継之助らしいところではあります。

暇なのか忙しいのかよくわからない男ですね、継之助って。


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