人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代5」



今回は、「小諸出張」について書きます。

 

牧野家はいくつかの大名家を輩出しました。大なるものに本家長岡藩牧野家(7万4千石)、常陸笠間藩牧野家(八万石)、ほかに丹後田辺藩牧野家(3万5千石)、信州小諸藩牧野家(1万5千石)、越後三根山藩牧野家(1万1千石)があります。そのうち小諸藩と三根山藩は長岡分家(長岡藩牧野家が成立してから分家した大名家)で長岡藩の影響を受けやすい環境であったように思われます。

 

今回の話は小諸藩牧野家についてです。この家は長岡藩初代藩主忠成の次男武成が与板にて1万石を襲封し、後に移封した家です。ここが幕末期にお家騒動を起こしてしまいました。文久三年(1863)に藩主康哉公が亡くなった後、家老の牧野八郎左衛門及び用人太田宇忠太が長兄の康民を廃嫡し賢明との噂の高い次兄の信之助に継がせんとしたのがきっかけでした。結局は長兄擁立派の牧野隼人進・加藤六郎兵衛・用人村井藤左衛門が勝ち、康民が藩主となりました。しかし八郎左衛門は子のない信之助を跡継ぎにすべく工作を行っていました。

 

翌元治元年(1864)、水戸天狗党の騒ぎが起こりました(元治元年におきた水戸藩内の争いから始まり尊皇攘夷派が長躯京を目指し進軍した事件)、天狗党は信州を通過して京に向かって進軍したわけですが、小諸藩は幕府から追討令が出ているのに関わらず交戦せずに領内を通過させてしまったのです。この問題の責任者であった八郎左衛門は「卑怯なふるまいがあった」との理由で失脚しました。

 

その後、八郎左衛門は康民夫人揚子を味方につけ、宗家長岡藩に対し牧野隼人進・加藤六郎兵衛・用人村井藤左衛門3名を排する旨伺いをたて、許可を得て慶応二年(1866)処分を断行、再度藩政の中枢に立つことになりました。この処置に対し翌慶応三年(1867)には藩論が沸騰、有志が宗家へ訴え出、騒動となったのです。

 

この騒動を処理すべく藩庁は当初花輪馨之進(求馬)に処理を命じますが固辞し継之助を推薦、4月に継之助を奉行格に昇格させ騒動の処理を命じました。

 

大変長らくお待たせいたしました。やっと継之助の登場です。

継之助は5月1日に藩主名にて小諸藩主牧野康民公を呼び、調査を始めました。調査にあたり、継之助は藩主康民公に対しかなり不遠慮に質問したそうで、後に康民公は「斬ってしまおうかと思った」と側近に漏らしています。幾度かの調査により状況を把握した継之助は9月14日に従者2名のみを連れて小諸に出張しました(従者は外山寅太・大崎彦助だったそうですが、資料が手元にありません。どなたか持っている方いましたら資料情報教えてください)。

 

継之助は木綿の粗末な服に従者2名という、およそ藩幹部とは思えない姿で登場し、10月10日までに円満に解決してしまいました。内容としては牧野八郎左衛門を罰することなく牧野隼人進等を復職させました。また継之助は藩政改革十箇条を提示、後の小諸藩の行動に大きな影響を与えました。最も目立ったものとしては、御牧ヶ原の開墾を強く勧めたことでしょう。御牧ヶ原の開墾は明治3年に始まり、後に望月温泉やりんごで有名な観光地となりました。ある意味御牧ヶ原の父は継之助といえるかもしれません。

 

後に継之助の出張によって復権した牧野隼人進が息子の成功氏から継之助について問われた時、しばらく瞑目熟考したうえで「神様のような人であられる」と言ったそうです。復権させてもらったとはいえ尋常ではない表現ですよね。

 

継之助にとって非常に忙しい時期だったと思われる慶応三年に支藩とはいえ他藩の面倒をみるのは本意ではなかったかもしれません。が、継之助を出す必要があったほどこの問題が大きかったということなのでしょう。

 

ちなみに忠訓公は丹後宮津藩本庄家から牧野家へ養子として入っています。小諸藩は長岡藩祖牧野忠成の次男が与板で1万石の大名家となった家ですが、小諸へ移封された時の藩主は牧野康重で、彼は足利藩本庄家(幾度かの移封により幕末期には丹後宮津藩となる(忠訓公の出身))から牧野家へ養子として入った人です。彼は三代将軍徳川家光の側室お玉の方(桂昌院。五代将軍綱吉の生母)の甥なのです。五代将軍綱吉の時代に権勢をふるっていた桂昌院(けっこうドラマでも出てきますよね)の影響なのか?五代綱吉治世の元禄15年(1702)に5千石の加増を受けて小諸藩主となっています。忠恭公は養子の忠訓公に家督を渡す前に忠訓公に「縁の深い」小諸藩の問題を片付けておきたかったのでしょう。

 

 

 


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