人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代6」



今回は、「川税の廃止」について書きます。

長岡藩の財源の一つに「川税」がありました。これは、長岡藩領に面している信濃川の船舶運行に際し通行料金相当の費用をとるもので、形式的には長岡船組を設け、長岡の上下を長岡船組が運送し運賃をとる形でした。番所を設け水運の全権を握っていたのです。確か番所跡は朝日山のふもとあたりにあったかと思います。

この「しきたり」は牧野家が長岡入封前に堀氏が行っていたものを牧野家が踏襲したのです。この「川税」は藩庁に保護された商人が受け取り、藩庁に対し年に千両あまりを納めていました。幕末期の物価で米1石=銀150匁、金1両=銀50匁とすると、米1石=金3両となり(河井家は120石だったので金360両、1両=10万円とすると年収3600万円になるかな?)、7万4千石であるが実収11万3千石であった長岡藩の年貢による年収は33万9千両(33億9千万円)、千両は大凡年収の3%程度であったように予想されます。たかが3%されど3%、現在の国家で大凡50兆円の税収があり、3%は1兆5000億円、この額はたばこ税(1兆9000億円)に近い数字です。

継之助は慶応三年12月、川税を廃止しました。通達文を見てみましょう。

長岡町船の儀は、信濃川通船継船河岸の訳を以って、諸船乗通不相成仕来の処、所々に差支の件も有之に付、試の為、当分乗勝手次第申付候。御用船の義は、是までの通差支無之様取計可申候。右の趣、支配下へ可被申聞以上。

あっさりしたもんです。多方面から強硬な反対があったそうですが、継之助は「河川は一国の共有すべき者なるに、多年の慣習なりとはいえ、独り長岡の船乗等が不条理なる特権を有して交通の妨げを為し、又長岡の商人等が其陰に隠れて不当の利益を占むるを喜ぶが如きは、大なる心得違いなり。殊に藩庁が斯る不条理の収入に腐心するとは以ての外の事なり」と主張し、廃止を決行したそうです。

個人的にはけっこう不思議だったりします。勿論条理不条理を基準において行ってはいるでしょうし、将来の繁栄を見越して行ってもいるでしょう。しかし、当面の課題として藩財政を立て直すことが大きな存在なわけで、みすみす年千両の金を手放しますかね?

枝葉議論としては、継之助は東海道の旅路において大井川で嫌な思いをしています。特権にあぐらをかいている人達に対し否定的な見方をしていたのは間違いないでしょう。だからといって大きな税収を手放すかどうかなんですが..

ここは素直に継之助の見識の高さ、決断力を評価しましょうか(^^)。

数多くの地域を旅してきた継之助は、経済が生き物であることがわかっていたように思います。決まった流れからどうお金をとるかではなく、どう流れを作ってお金をとるかを考えるほうに発展性があります。今後書いていく継之助が行った特権廃止はその一連の一つになるのでしょう。継之助の時代から遡ること約300年、織田信長が行った楽市楽座そのままといえばそれまでですが。

次回は「遊郭の廃止」について書きます。


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