人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代7」



今回は、「遊郭の廃止」について書きます。

この施策については小説等でもよく扱われていますよね。なんせ色っぽい ネタですから。

落書「河井河井と今朝までおもい今は愛想も継之助」は有名かな?

河井継之助のことを知っている人の多くは目にしたことがあるでしょう。
この落書が生まれた頃の話をします。

現在の長岡市は文教政策?によって風俗店やラブホテルのない(非常にすくない?)ところです。山道をドライブしていると、長岡市の際までは何もなくて隣の市に入るといきなりラブホテルが現れたりします。この「風俗空白地区」を生む基が幕末の「遊郭の廃止」政策だったのでしょう。

幕末当時、長岡には二大風俗街(というと大袈裟でしょうが)がありました。「横町」と「石内」です。「横町」は現在の千手あたりになります。現在「横町」という地名はありませんが、一般呼称として「千手横町」という呼び名が残っています。「石内」は今でもそのまま「石内」という地名があります。長岡大橋の東岸あたりになります。

いずれも地理的に当時の「長岡」の中心部(長岡城及びその周辺)からみて下町的な存在で、江戸における吉原や品川と同じような環境にあたります。

当時、横町や石内には「貸座敷」というものが多数ありました。言葉通り「座敷を貸す」所なのですが、その座敷に選んだ女性を連れて入って..というところでした。言葉だと現在のラブホテルに近そうですがソープランド兼大人の宴会場って感じでしょうかね。

慶応三年12月5日、長岡藩庁は横町及び貸座敷業者を町役所に召喚し、中老に昇格していた河井継之助及び町奉行の花輪馨之進、割元・庄屋・町役人等が並ぶ中「遊郭廃止」について花輪馨之進が口達しました。その演説内容は

両町の儀者、兼ねて被仰出も有之候へ共、数年来の流弊にて、売女体の者差置、商売なく罷在候は、甚以不宜、其為、数多の人心を蕩かし、一家一身は申迄もなく、郷中の一村、市中の町内の苦害を生し、御領中の風俗をも乱し候は、気の毒なる事に候。今迄いたし来り候故、頓に商買替は一時迷惑にも可有之候へ共、夥多の人心を蕩かし、悪風を醸し候程の儀と悟り候はは、人心あるもの誰か忍で可為苦は無之候へば、後悔悲嘆も不及事に付、能々心に省し、御仁恵の被仰出厚く相弁へ可申事。
売女体の者、不差置旨、兼て申聞候処、是迄種々申立の品も有之候へ共、御領政にも相響、難差置候事に付、此度厳禁申付候間、早々先々へ相送り、商売替可致候。萬一隠し置き候者有之に於ては、屹度可申付候。
右通、上組、千手町、横町、赤川村、並石内町迄可被申聞候。已上。
慶応三年十二月五日

上記施策を施行するにあたり、藩庁は業者に対してやむを得ない場合は資本を貸与し、娼婦にはそれぞれ旅費を与えて親元に帰らせました。

この施策は河井継之助が町奉行であった頃に方針が決定され、噂を流すことでほとんどの貸座敷業者に覚悟をさせた上で行ったようです。そのため大きな混乱もなく行われたようです。

この話は2つの側面があります。ひとつは財政再建を行っていた継之助にとっての用度金準備です。幕府の崩壊が誰の目にも近いと思える状況の中、財政再建は急務であり5年後10年後に達成目標を置くわけにはいきませんでした。そうなると制度上の改革は勿論、町民からの用度金(半強制的に献金ないしは借金棒引きに応じることを了承させる)に頼らざるを得ませんでした。頼るべき町の富裕層の支出要因を閉めてしまい、来るべき用度金の要請に対して多額の対応が可能になるよう布石を打っていたであろうことが予想されます。それが一つ目。

ふたつめの側面は、「遊び人継之助が遊びを禁止した」というギャップのおかしさです。継之助は横町の貸座敷屋である「藤本屋」によく行っていたそうで、「おりく」という女性にお酒の相手をさせていたようです。そんな人が禁止するというのが世間的にはびっくりするやら唖然とするやらだったでしょう。競馬大好き人間が競馬を禁止するようなものです。

継之助は単に皆と遊ぶのを楽しみにしていたようで、三根山藩の家老を誘ってみたり、通りがかりの盗賊方を誘ったり、そんな感じだったらしいです。この側面はよく扱われているところですね。

次回は似た話で「蓄妾の禁止」について書きます。


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