人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代8」



今回は、「蓄妾の廃止」について書きます。

当時の「法」というものがどの程度の拘束力を持っていたのでしょう?
拘束力をはかるものとして「罰則」が大きな要素になります。現在の法においても罰則規定がない(明記されていない)ものが多いため、取り締まる側が手を出しあぐねているものや場合によっては常識外の厳しい措置によって違反者が酷い目にあう可能性もあるでしょう。

当時は現在の分権制度が確立されておらず(今もまだ不完全だ!という声もあるかと思いますが..日銀の例など)、「一権」の担い手が何をやらかしてしまうのかかわらないところがあったでしょう。

その「不安要素」に対して社会が行ってきたとこが「封建的」な対応とも言えるかもしれません。慣習依存と家に縛られた人物が約束された道を歩いて権力者になっていくために奇抜なことを行わない→同じことを繰り返すためにまわりからみて何をするのか想像つく。 なんだか薄っぺらな封建制否定コメントをしていますが、一般大衆からみれば、こんな感じじゃないですか?ポイントは、大衆が政権に対しどういう認識を持っていたか、です。

そんな状況下、平常時にはあり得ない立身を遂げた男が、それもまわりから危険視されていた男が権力を握って施策をうってきたら..おそらく長岡は混乱したでしょう。町ではうらみつらみの声が上がり、その声に便乗した反主流藩士の城内工作が行われ..なんて雰囲気であったろうと容易に想像できます。

おそらくそんな空気が立ち込めている長岡の町で継之助は日々あくせくしていたのではないでしょうか?

長い序章終わりまして、本編にはいります。

継之助は諸施策を行っていますが、その一つに「蓄妾の廃止」があります。
「蓄妾」について当時どの程度正式には否定をしていたかよくわかりませんが、自分なりに資料等をのぞいた範囲では禁止・廃止が見つかりません。農政・財政に関する継之助の功績については従来皆が施策をうつも達成できなかったことを彼は達成した、という点にあったのですが、今回のテーマはかなり突飛なものであった可能性が高いように思います。なんせ現代でさえ民法上公認められていないものの「内縁の妻」の立場が認められているのですから。

継之助は藩主忠訓公が妾を持っていなかった関係もあって、この施策を打ち出しました。正直、奉行が藩領一体の全階級に対して行える措置とは思いにくいので、奉行(及び郡奉行)の管轄範囲を対象としたものだったように思います。

目的は一つでしょう。富裕層からの用度金を多くとるための贅沢禁止措置でしょう。えげつない要素としては違反者の財産全てを没収してしまえ!とかあったかもしれませんね。

遠山の金さん的逸話を紹介します。

古志郡の庄屋某が女郎の身請けするとの報が入るや継之助は荷送り人夫に扮し、つてを使って妾の供に加わったそうです。庄屋宅で酒食の振る舞いをうけ、祝儀として天保銭八枚を受け取りました。数日後、庄屋を禁令違反の容疑で呼び出したところ、「そのような事実はありません」としらをきってきたために継之助は潜入時に祝儀で受け取った天保銭を投げつけ、「これでも知らぬというか!」とたんかをきって一件落着、ちゃんちゃんです。 河井継之助に関するバイブルともいえる「河井継之助傳」に書かれています。本当は継之助の指示で誰かがやったのか、継之助が部下を引き連れて行ったか、まぁわかりませんが同様の処置(囮捜査を行って処罰した)を行ったのは間違いないでしょう。

また、蓄妾をした者は寄場にほうりこむとの噂を流し、隠れて妾を持っている者に対してけん制をしています。

財政破綻「長岡藩」再建のために鬼をなっている継之助の精神的戒厳令措置の一つでしょうね。

おまけとして、個人的にちょっと驚いたネタ書きます。

慶応四年四月十三日、郡奉行から魚屋・湯屋・そば屋・すし屋で居酒売りの禁止について端書(略式の触書)が出ています。元々禁止だったものの実態としては出していたため再度禁止の旨伝えたようです。

何が驚いたって、そば屋で酒出すだけのことまで禁止していたんですね!

これが郡奉行管轄地域だけの話なのか、長岡城下もそうなのか、はたまた当時はどこでも(例えば江戸の城下)禁止だったのか、どうなのでしょう?
今でも公営ギャンブル以外賭博禁止なのにパチンコ屋の近くで堂々とボールペンが札束に化けていますし公然の違反ってありますが、そういうものなのかな?

詳しい方いましたら教えてください。

次回は「株の特権廃止」です。


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