人物伝・河井継之助「町奉行〜奉行時代10」



今回は、「用度金の募集」について書きます。 継之助の「昇り竜の如き」この時代に行った諸政策について今まで書いてきました。今回がその最終回となります。寄り道しなければ次回から中老以降の主要施策である禄高改正と兵制改革について書きますが、この2つの施策は施策自体が目的となるようなものです。今回の「用度金の募集」までは「財政再建」を目的とした諸策と考えて良いかと思います。その最たるものとして今回用度金の募集について書きます。

この時期に継之助が財政面において行わなければいけなかったことは2つの側面で捉えることができます。

・ 体質改善

・ 緊急措置

の2点です。

体質改善は、当時破綻状態にあった諸藩同様に長岡藩も「そもそも歳入と支出のバランスがあっていない」状況にありました。歳入が基本的には農家からの年貢を中心とし、商人からは正規な課税システムが構築されていなかったのです。藩は逆ザヤに苦しみ商人に対し「臨時の」お金を要求することが度々発生し、そのうちそれが慣習化されてきました。

「年貢だけではやっていけない」

ことは当時の行政に関わっていた者全てがわかっていたでしょう。もう昔のように年貢を集め武士に配り、その武士が各種業務に就く、というだけの構造では行政が立ち行かなかったのです。

室町時代あたりから一般にも使われだした「貨幣」はモノが中心にあってそれを交換するための道具としてスタートしましたが、その普遍性を強みとして貨幣が中心となってモノがその貨幣を基準にして「いくら」なのか、という状況に入れ替わりました。

江戸幕府が始まったころには既にそういう状況にあって、その中で敢えて?鎌倉幕府ばりの古めかしい制度で国を運営しようと家康さんはやった?やっちゃったんですね。 なぜそうしたかはいろいろ考えがあったのでしょうが、それを成らしめた理由はなんとなくわかります。家康公が沢山お金を持っていたからです。貨幣の流通量を抑え、地味な国家運営を方針としたんでしょうね。

沢山沢山お金を持っていた幕府でさえ財政難に陥っていた幕末期、諸藩は当然ながら財政難に陥るわけです。

そんな状況に陥っているシステムには抜本的手法を用いて解決を目指すしか無いわけですが、「封建制」の建前を考えると「武士が行うべきこと・やるべきではないこと」の壁や年貢を商人へ渡し貨幣にして各武士へ渡しているのに関わらず「土地を分け与え、そこの年貢を得る」という形に縛られていたわけです。

長々と書きましたが、2点のうち1点目については、このシステムからの脱却が抜本的「体質改善」なのです。

現代はあまねくことに課税を行うことがある意味正当化された社会で、従来「稼ぎ」を中心対象として一部嗜好品のみに対しては「消費」に対しても課税していたのを「消費税」というほとんどの消費に課税する→お金の動きに対して課税するシステムを作り、なんとか行政組織を維持しています。

継之助の時代としては、所得税の概念を取り入れたら「時代を先取りしたシステムの導入」になったと思います。が、そこまではできませんでした。せいぜい通常の年貢を確実にとることくらいでしょうかね?

次、2点目です。「緊急措置」です。

この時期にどうしても用立てなければいけない費用がありました。

・ 第二次長州征伐費用

・ 兵制改革費用

です。

第二次長州征伐の際、長岡藩は600名の藩兵を大坂へ向わせました。芸州口の警護という立場で実際の戦闘には参加しませんでしたが、当初はどこまで続くかわからない戦に対しどういう財政的処置を行う必要があるか頭を悩ませたものと思われます。

そこで、慶応三年三月に10万2874両1分の用度金を徴収しました。

内訳は

7万3482両   非常御入用並に軍器御新調費

2万9392両1分 備金

でした。このお金を使って第二次長州征伐を乗り切りました。

今井孫兵衛からの借用金3万両の棒引きもこの頃です。当初は代官に交渉させていたのですが何分にも大金ということもあり交渉が頓挫していたのを継之助が直々に交渉をすることによって棒引きをさせた上に用度金の献納をさせたのです。献納金は上記用度金に充てられました。

次に、兵制改革費用があります。

長岡藩の頭脳とも言うべき鵜殿団次郎から慶応2年7月に「御軍制御改正に附心得申上」が提出されました。

鵜殿団次郎は継之助の4歳下で家禄150石、継之助と同じ中級藩士の家に生まれました。安政2(1855)年に江戸遊学、東條英庵等に蘭学を学び数学・天文学・航海術・測量を学びました。継之助とはある意味大違いですね(^^;;
安政6(1859)年には学問に熱心な大野藩に招かれ樺太の測量に参加し、文久2(1862)年には幕府の蕃所調所数学教授となりました。村田蔵六や福沢諭吉などのように専門知識によって幕府に取り上げられた当時の「英知」の一人だったわけです。
その後元治1(1864)年に歩兵指図役となり浪士組誕生に関わったり横道にそれたりしますが、この年辞職し長岡へ戻りました。その翌々年に書いたのが上記提案書です。
この提案書は巨視的視点から情勢を見つつ具体的に何を行うかが記され、単純な軍制についての提案ではなく今後武士が何を為すべきなのかを総合的に書いた優れた文章です。 (文章は別途アップする予定です。)

こうした優れた提案と継之助の実行力が合わさって長岡藩はある一つの方向性を見出しました。それを達成するために必要な資金を得るために継之助をはじめ村松等が資金調達に尽力します。彼等は非常用度金として5万2500両を領民から集めました。

こうして緊急措置を行った結果、約10万両の予備金が長岡城に積み上げられることになったのです。

国債を無計画に?発行して将来の借金を増やすよりも強引ながら今のことは今解決すべく歳入を増やすことを考えて欲しいものです。人気とりが必要な今の社会では難しいでしょうかね?

何かを「為すための」準備がこのあたりまでにできました。次回から中老〜老中時代の事績として「禄高改正」と「兵制改革」について書こうと思います。


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