松蔵
こんにちは、春秋(はるあき)です。
司馬遼太郎の小説「峠」に、主人公の河井継之助と共に最後まで登場するの
が、忠実な従僕の松蔵です。
河井継之助が「松蔵や、ながなが、ありがたかったでや」と死ぬ直前にお礼を
いわれた人で、河井継之助の入る棺を、本人から命じられて泣く泣く造ります。
また、河井継之助が小千谷会談に行く際にも、松蔵はお供として付いていきま
す。河井継之助が亡くなってからは、その命日には墓参りを欠かさなかった律
儀者でもあります。
ところで、この松蔵の歳なんですが、皆さんはいくつだと思いますか?
私は、河井継之助が当時42歳ですから、それより上の50歳台とばかり思ってい
ました。小説ではそういうイメージを持ち続けてきました。
ところが実際は、河井継之助よりも10歳以上も若いのです。しかも、身長も高
く美男子だったそうです。(^-^)
これではテレビなどでは困ってしまいますね。なにしろ、主人公の河井継之助
よりも格好良いのですから、主人公の人気をみんな食ってしまいます。
現在では、律儀者とか忠義者とかは、若い人には全く似合わないような気が
してしまいます・・・・・。(^_^;
こんにちは、春秋(はるあき)です。
松蔵は河井継之助に使えるまでは、藩主やその家族の陸尺として働いています。
陸尺とは駕籠かきや掃除などの雑役を行う人のことをいいます。
この松蔵が若殿夫人とまちがいを起こしてしまって、切られる処を河井継之助に
助けてもらったのだと言われます。このことは、松蔵が悪いのではなく、若殿夫
人(つね姫)の方にその責めがあるため、河井継之助は藩主と掛け合い、命を助け
たともいわれます。つね姫は才媛で美貌、そして我が儘だったそうです。
いずれにしても、これ以降松蔵は、河井継之助にとって忠実な従僕となります。
小説「峠」のあとがきでは、官軍が迫っているので皆が気が気でなかった中で、
火葬にした河井継之助の骨をたんねんに拾い上げますが、その時、松蔵が言った
言葉を紹介しています。
「あのような旦那様でございますもの。もし骨の拾い方が足りないで、これ松蔵
や、貴様のそこつなためにおれの骨が一本足りぬ。などとあの世にいってから叱
られては松蔵は立つ瀬はございませぬ。」
うーーん どうしても29歳(?)の人の言葉とは思えません。(^_^;
みなさん こんにちは。
松蔵は拾い集めた河井継之助の骨を骨壺へ入れます。この際、骨壺は二つ用意
しました。骨を入れたもの以外に、土を入れた偽物を造ったわけです。
官軍が迫っていますので、もしもの場合は、偽物を渡してその場を逃げ切りたか
ったためとも言われています。また、二つ用意したのは、松蔵の機転だったとも、
河井継之助の命に依った為とも言われます。
その骨壺を持って会津へ行き、遺骨は建福寺に安置されました。翌日の8月22日
に葬儀が鶴が城中にて、長岡藩主の他に松平容保や会津藩の重臣も出席の上執り
行われました。
松蔵は、会津が落城した際に河井継之助の遺骨が敵兵によって踏みにじられる
のを恐れ、建福寺の墓には偽物の骨壺を入れ、本物の方は山中の松の木の下に隠
しました。
後日、敵兵が会津を占拠した際には、墓を倒して発掘したが、遺骨を見ることが
出来ずに、河井継之助はまだ生きているのかと疑り、また攻められるのでないか
と恐れたそうです。松蔵はその時囚われて獄舎にいましたが、その話を聞き、そ
れ見たことかと大笑いしたそうです。やったね! v(^・^)v
後に兵火が収まってから、松蔵はその遺骨を掘り起こし、長岡に持ち帰り、河
井継之助の妻すがに手渡したそうです。河井継之助のその遺骨は、長岡の栄涼寺
に埋葬されました。
長岡の河井継之助の墓は、長岡の人々から、この悲惨な戦争を招いた張本人だと
され、むち打たれ、足蹴にされ、転がされて、痛みがひどかったそうです。
このような状態だったため、河井継之助の妻や母は、長岡に住むのを諦めねばな
りませんでした。
松蔵は、明治になって姓を木川としたが、この「川」は河井継之助の「河」と
するはずだったのを、役場へ届ける際に間違ってしまい、木川となったと言われ
ます。
ちなみに、松蔵は大正8年81歳で亡くなりました。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社