少年
以前に河井継之助の臨時会議室でも話題になったことですが、「継之助」は
「つぐのすけ」「つぎのすけ」と二通りの呼び方をされています。
ちなみに、手許の主な本を見てフリガナを振っているのを書き出しても以下の
ようにバラバラです。フリガナの無いものも結構あります。
「つぐのすけ」としているもの。
前回は、継之助の名前の呼び方を纏まり無く書き込みましたが、河井継之助の
少年時代の話を書きます。
多くの本?(私が読んだのは数少ない本)では、河井継之助は母の影響が強く、
父の影は薄くなっています。今では父の影が薄いのはごく一般的な家庭かも知れ
ませんが、当時としてはどうだったのでしょうか?
ます屋の女将の言葉では、父君は、お人のよいばかりの人で、河井さんがあのよ
うに偉い人になったのは、お母さんの気性を受け継いだからでしょう、と言って
います。
母貞子は、父の先妻豊子が亡くなってから河井家に嫁いできます。
継之助は7人兄弟の4番目として生まれますが、すぐ下の弟は早く亡くなります
ので、男は継之助だけとなり、河井家の跡取りとなります。
この母は、なかなか男勝りの性格で、女兄弟の中の河井継之助を甘やかさずに厳
格に育てたと言われます。
また、当時の武士の娘として珍しく算盤が出来て数字に明るかったと言われます。
河井家の財産管理も、母が中心となり行っていたと書いているものもあったよう
な・・・・。(^_^;
継之助が経済に才があり、後年藩財政の改革に取り組み成果を上げますが、これ
も母親の影響が多分に現れているのでしょうか。
継之助の少年時代は、強情で年中喧嘩をしていたといいます。また、悪戯も相
当したようですが、それを隠し立てすることはなかったようです。
また、悪戯も自分が本当に悪いと思っていなければ、怒られても決して謝らない、
強情さを持っていました。大人から、悪さを見つけられて、謝れといわれても謝
らずにげんこつを食らって痛さのあまり涙をこぼしても、それでも謝らなかった
こともあったそうで・・・・・。我慢強いというか、強情というか、でもここま
でやれれば立派としか言いようがないです。
今の学校なら、担任の先生も持て余すところもあったでしょう。(^_^;
まあー良い意味のガキ大将といったところでしょうか? 自分より大きな人とも
よく喧嘩したと言いますから、弱いものいじめをするような感じは無いですね。
後年の「気合い」は、子供時代の喧嘩から学んだところも多かったのでしょうね。
参考 「良知の人 河井継之助」石原和昌著 日本経済評論社
さて、影の薄い人と思われている河井継之助の父ですが、武器役所頭取・勘定頭
等を努めていますので、やはり普通の武士と比べれば、経済に明るかったのではな
いかと思います。また、父秋紀は自宅に茶室を造り、刀剣の鑑賞を趣味としたり、
書籍も相当程度持つ長岡の文化人でした。
さらに有名な良寛とも交際があり、良寛が長岡まで来た際には、河井家にも立ち寄
っていました。
こういうところを見ると、父の秋紀もまた、なかなかの人物であったのではないか
と思われます。当然継之助も、影響を受けたと思われます。
父がまだ若いときには、封建政治がまだ十分に機能していて、能力はあるのだが家
格などにより活躍の場が与えられなかった。不満があったが、趣味に生き方の活路
を見いだしたのではないだろうか・・・・と邪推してしまいます。能力があっても、
低い家柄に生まれた人は、世に出る機会はないわけです。
継之助が世に出るまでは、温かく見守っていて、継之助が藩の政治の中枢にはい
ると、年輩者の立場からその過激な政治を心配して、継之助との間がしっくり行か
なくなったように思われる節があります。
子供の頃、継之助が腕白で強情を押し通せたというのは、基本的なところでは、父
親が好きなようにさせていたという側面もあるように思います(私の思いこみです)。
河井継之助はきわめて合理的な考えを持っていました。
これは後年の学問の影響もあるでしょうが、本人の持って生まれた性格でもあった
のではないかと思われます。
有名なエピソードですが、馬術を習った際に先生の言うことを聞かずに、いきなり
走り初め、馬術は走ることと止まることが分かればよいとうそぶくまことに扱いに
くい生徒が河井継之助でした。
私が思うに、この時の先生は、馬に乗る前に色々講釈が長く続いたのではないかと
思っています。継之助は、もったいぶった役に立たない講釈を聞きながら反発する
ところがあったのでしょう。馬術の基本はこうだから、それを早く教えろという気
持ちが、その行動になったように思います。私は馬には全くの素人ですので、見当
違いかも知れませんが・・。もったいぶった権威やうるさい形式等は、性格的に嫌
いだったろうと思います。
河井継之助は長岡甚句の盆踊りが大好きでよく行ったのですが、この盆踊りには武
士は参加できないことになったいたそうです。しかし継之助は、妹の浴衣を借りて、
顔をほっかぶりで隠して遅くまで町の人と踊ったということです。
頭の固い武士は、当然盆踊りには参加しません。ましてや妹の浴衣を着てまで、な
んてとても出来ません。このあたりも継之助の心持ちが、武士という枠組みに囚わ
れない自由闊達なものであったことを伺わせます。
また、外山脩造等武士以外の人とも自然に付き合っていますので、サムライだけに
人材はいる等と了見の狭い考えもなかったようです。このことが後に、経済通にな
るのに繋がっていくのだろうと思われます。