青年編
大部時間が空きましたが、雑談河井継之助です。
河井継之助は15才で、藩校嵩徳舘に入学します。
当時の都講(藩校の責任者?)は高野松陰(当時31才)でした。高野松陰は幼少
の頃から英才をうたわれ、江戸の佐藤一斎のもとで学び、塾頭も勤めました。
塾の後輩には、佐久間象山、山田方谷がいました。後年、この二人に学ぶようにな
るのも決して偶然ではないのでしょう。
高野松陰は、藩校では朱子学を表看板にしますが、陽明学も教えたようで、長岡
に初めて体系的な陽明学を教えたと言われています。
河井継之助も、この陽明学に大きく影響を受け、17才にして、鶏を割いて王陽明
を祭るほどになります。継之助の学問のもととして、長岡の青年時代の写本があり
ますが、佐藤一斎「言志録」は高野松陰から借りたものだそうです。
高野松陰の教える学問は、どうやら素直に吸収したようですね。(^_^;
馬術の時のような、へそ曲がりを彷彿とさせる話は出てきません。それとも高野松
陰先生も大部苦労して、ようやくまともに教えられるようになったのでしょうか・
・・・。(笑)
99/10/2(Sat) 09:34am QYK10262 春秋
15才で藩校に入学した翌年の4月、継之助は元服し、秋義と名乗ります。
この頃から、読書をよくしたと言われますので、精読による読書方が採られつつ
あったのかも知れません。
そして、二十歳頃より藩の祈祷所へ籠もり、気に入った本の写本に熱中すること
になります。
子供の頃から、自分が一番でないと気が済まない程負けん気の強い継之助のこと
ですから、志は大きく持ちながらも、藩の体制や自分の家の家格を考えたときに、
大きな壁の存在に気が付いたのではないでしょうか?しかしながら今、出来るこ
とは学問であり、それが写本という精読に繋がっていったように思います(単な
る妄想)。
(更に妄想を続けると)継之助は、基本が分かれば応用は利くタイプのようです
から、本の読み方としても精読が向いています。(^-^)
そのことが、藩では表向には教えていなかった陽明学に、向かうようになった
ことと関係があるような気がします。俺には、みんなが学ぶ朱子学よりは陽明学
の方が合っている・・・と思ったほうが継之助らしい。(^_^;
99/10/3(Sun) 11:20am QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助は、越後の酸欠・・じゃなかった三傑として酒呑童子、上杉謙信、
良寛の3人を挙げています。(^_^)
越後の英雄としては、謙信はもっとも自然な感じがしますが、他の二人はいささ
か不思議な気がします。(^_^;
この3人の内もっとも継之助の身近にいた人は、良寛です。良寛は、継之助がま
だ子供の頃、頭をなでられたり等と、実際に会った可能性があります。
また、父から幼い頃に、良寛の淡々とした生き方を訊いたこともありそうで、幼
心にも惹かれるものがあったのかも知れません。
このあたりにも、継之助は父から強い影響を受けているような気が、私にはしま
すがどうでしょうか。
さて、酒呑童子ですが、他の二人と違っていて実在しません。(^_^;
しかも活躍したのは、丹波大江山で京の美女を次々に誘拐する、大酒飲みの鬼な
のです。毎日美女のお酌で、美酒を飲む・・・む・・む・・羨ましーーーい。
酒呑童子の出身は越後といわれますので、越後の英雄となるのかも知れませんが
・・・・。
酒と女が好きなところは、継之助に似ているところかも知れませんが、やはりこ
れは、彼のへそ曲がりが言わせた言葉なのでしょう。何か一つは、人の驚くこと
を言ってやろうとしたのでしょうね。どうだ、ビックリしただろう と言って面
白がっているようにも思われます。v(^・^)v
おまけ・・謙信の辞世
四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒
49年の自分の生涯は一眠りの夢のようであり この世の栄華といえども一杯
の美酒に過ぎない
・・・訳については勘違いもあり得ますので違っていましたらスミマセン。
m(..)m
参考 「良知の人 河井継之助」石原一昌著
05267/05289 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 青年編4
今回は、河井継之助と上杉謙信を比べて似たところを書きます(独断とこじつけ アリ)。(^_^;
1 両者とも軍事的な才能が豊かであった。
謙信は、戦国時代を代表する戦の名人でした。しかも、その作戦計画は、信玄が
武将を集めて作戦会議を開き、各武将の意見を聞きながら立てたのに対して、殆ど
自ら一人で立てたと言われます。
河井継之助も、長岡藩の作戦計画をほぼ一人で分担していたように思います。しか
も今市の戦いや、長岡城奪還に見られるように、戦術的にも非常に優れています。
また、戦の指揮の仕方も似ているところがあります。
謙信は、後方の本陣へいて動かないで指揮するのではなく、戦の前面へ出て戦って
います。継之助もやはり、2度の負傷でも分かるように結構前線でも指揮をしてい
ます。
2 筋を重んじた為に体制維持の活動をした
謙信は、将軍や朝廷の権威が亡くなっているにも係わらず、懸命にそれを支えよ
うとします。時代遅れかも知れませんが、世の乱れは将軍を中心として立て直すべ
きだと考え、そのため相当無理をしてまで、2度も上洛しています。損得で考える
人ならば、とてもやらないでしょう。現体制(幕府)を維持する方向で、筋を通す
べく活動しています。
継之助も戦争に踏み切ったのは、藩主の意向等もありますが武士の意地を貫くこと
だと思われます。幕府はなくなるということを、十分分かっていたにも係わらず、
結果的には藩の枠組みから出ないで、現体制を維持する方向で活動する事になりま
す。
3 読書の仕方
継之助の読書の精読は有名で、肝心の所は、2度3度と繰り返し読んだり、また、
よく書き写しています。
謙信の読書はよく分かりませんが、国主の座を捨ててまで仏門に入ろうとしたこと
等もあるように、武将であると同時に禅僧でもあります。禅宗の教えを、何度も何
度も読み唱えたに違いないでしょう。精読に似ているのではないでしょうか?
4 活動的である
謙信は、2度の上洛や連年の関東出兵等、実に広範囲にしかも活発に活動してい
ます。
継之助も、当時の長岡藩人としては、江戸への遊学・備中松山・西国旅行等広範囲
に活動すると主に、藩政に参画してからも活発に活動しています。
以上似ているところを書きましたが、違っているところもあります。謙信は、妻 帯もせず禅僧のような自らを厳しく律した生活を送ったのに対して、継之助は、ご 承知の通りの遊び人です。この辺は決定的に違います。(^_^;
99/10/16 QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助は1850年春24才で、梛野嘉兵衛の妹すがと結婚します。
一説によると、継之助の女遊びが高じたために、両親が結婚でもさせれば少しは落ち着
くだろうと思ったとか・・・。そんなことをされると、継之助は返ってへそを曲げそう
なのですが、そうでもなかったようです。やはり、それなりに妻のすがを気に入ってい
たのかも知れません。すが16才の時です。
しかしながら、戊辰戦争以後、すがには非常に過酷な運命が待っています。
継之助の父や母と共に新政府軍に捕らえられ、高田の牢屋に入れられます。牢屋に入れ
られたという極限状態の中で、夫の死を聴くことになります。
8ヶ月の後にようやく牢から出て、父や母と共に会津へ行き、継之助の遺骨を持ち帰り、
長岡の菩提寺の栄涼寺へ弔います。しかしながら長岡の人々は、継之助を戦争犯罪人と
して許さず、家族にまで中傷と罵声を浴びせます。中傷は収まらずに、翌年も更にその
翌年も、続いたと言われます。そのような中で、父の代右衛門は、
精神的に苦しみながら死んでいきます。しかしながら、それでも中傷や嫌がらせは止む
ことがなかったようです。ついに、すがも母を連れて明治5年に、長岡を離れ北海道の
江別へ移ることになります。
雪明かり 吐く息つらし わが病
これは、すがが病の床で詠んだ歌です。病気は肺結核でした。
明治27年、河井すがは、北海道で61才の生涯を閉じます。
明治22年に明治政府は、戊辰戦争で賊軍と呼ばれた多くの獅子たちに恩赦を与え、継之
助の賊軍の汚名は消え去ったのですが、すがは長岡へ帰ろうとはしませんでした。
その遺骨はしばらくして、長岡へ移し、菩提寺の栄涼寺に継之助と共にあります。
参考 「河井継之助の妻「すが」の証言」島宏著 柏書房