遊学
小説「峠」は、江戸への留学の許可をもらいに家老の稲垣家へ行くところから始まります。
継之助の江戸留学は、実際も藩庁から許可が下りなくて、なかなか実現しなかったようで
す。品行方正とは、とても言えない継之助だったことが原因でしょうが、それにしても楽
しまない部屋住の日々が、長く続いたことでしょう。
友人の川島億二郎や小林虎三郎の江戸での活躍が聞こえてきたことでしょうから、負けず
嫌いの彼にしてみれば、広い世間に出てみたいという思いは相当に強かったでしょう。大
きな壁の存在を感じたハズです。
継之助の最初の江戸遊学は、1856年26才と1857年27才の二つの説があります。小説「峠」
の最初の項の江戸遊学は、継之助32才の冬になっていますので、2度目の江戸遊学のことに
なります。
江戸では、最初は斉藤拙堂、次には古賀茶渓に学びます。途中一時、佐久間象山にも学びま
す。
継之助は自分が学びたいものがハッキリしていたようで、最初の斉藤拙堂にはそれが無いの
で止めているようです。ただ、個人的には斉藤拙堂に惹かれるものもあったようで、後年松
山に山田方谷を訪ねるときには、伊勢に帰藩していた斉藤拙堂を訪ねて行っています。斉藤
拙堂は、自分の藩では種痘を広めたりとかなり開明的な人だったようで、このあたりが継之
助が惹かれた訳だったのかも知れません。
しかしながら、斉藤拙堂の塾では詩文の作成が講義内容であったため、古賀茶渓の塾へ移っ
ています。
斉藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山は共に朱子学者ですが、洋学をも学び開明的な考えを持
っていた人であることが注目されます。
参考 「良知の人河井継之助」石原和昌著
99/10/24(Sun) 06:11am QYK10262 春秋
20代後半の遅すぎた遊学ですが、江戸ではのびのび楽しんだこともあったよう
です。川島億二郎や小林虎三郎と連れだって、酒を飲んだり名所を見ていて、親
友の小山良運さんを、羨ましがらせています。
当時小山良運は、大阪の適塾で学んでいました。狭い長岡ではなくて、天下の江
戸でやや遅い青春を楽しんでいます。能力や情熱の有る若者には、封建制にがん
じがらめになっている長岡は、何かと暮らしにくかったろうと思います。
既に長岡では、先祖伝来の鎧ビツの中に、もしもの場合に使うように用意してい
たお金を、遊興に使っていたようですので、遊びの方も更に磨きが掛かったのか
も知れません。(^-^)
古賀茶渓のもとで、「李忠定公集」を見つけて大きな感動を受け、貪るように
読み進みついには全12巻を全て書き写します。丁寧に最後まで字画を崩さず写し
ているので、いかに感動を受けたのかが分かります。
師の古賀茶渓は攘夷論など論外で、開国論を唱える進歩的で行動的な学者であっ
た
当時開国論を唱える人は少数派だったことを考えると、三人の師が全て開明的な
考えを持っていたということは、継之助の意志があったと考えられます。
さらに古賀茶渓は、「王陽明全集」を持っていましたが、師を選ぶときにはその
ことも関係しているかも知れません。
99/10/24(Sun) 04:21pm QYK10262 春秋(はるあき
さて当時の長岡藩の藩主は牧野忠雅で、阿部正弘とともに老中を勤めました。
この牧野忠雅が藩内の藩士から広く意見を求めたののが、1853年のことでした。
多くの若手藩士が応じましたが、継之助も歯に衣着せぬ意見を提出し、これが藩主忠
雅の目に留まり、「御目付格評定方随役」という仕事をもらいました。
当時は、士農工商という身分制のもとで、同じ武士の中でも厳格に格付けがなされて
いました。従っていかに能力のある武士でも、下級にある者はその能力を生かすこと
は出来ませんでした。武士の中の身分もその俸禄に応じて、上下がつけられ、それに
応じて自分のやる仕事も決められているという状況でした。俸禄という形式と、仕事
内容という実質を一致させていたと言えるでしょう。
自分の力を政治の場に生かすためには、藩主や家老などの重要な地位にある人の引き
がなければ、能力があっても埋もれてしまう訳です。下級武士がいかに能力があって
も、定年までの先行きは、ほぼ想像がつく時代だったいえるでしょう。
継之助の抜擢の「御目付格評定方随役」は、本当に例外だったのです。
しかしながら、継之助自身は俺にはそれは当たり前的な、自信はあったようです。
若者の自信は、他人が世間や慣習等に囚われている分、自分以外の偉い人がどうして
も馬鹿者に見えてしまいます。俺ほどの能力のあるものはそういない、というような
自信過剰の面が、継之助にも多くあったように思えます。
満々たる自信と「御目付格評定方随役」を持って、継之助は長岡へ帰ることになりま
す。
99/10/31(Sun) 08:26am QYK10262 春秋(はるあき)
さて、満々たる自信を持って長岡へ帰った継之助ですが、世の中そう甘くはなかった
のです。当然といえば当然でしょうか。(^_^;
当時国家老として、長岡で藩政の中心にいたのは山本勘右衛門でした。
彼は、そもそも序列を乱して藩主が継之助を抜擢したことが、物事の筋目を乱すものと
考えたようです。ものには順序があり、藩主といえども相談もなく勝手にそれを変える
のはケシカランとでも思ったのでしょう。長く国元にいると世の中の変化が分からない
ものですが、考え方も保守的になります。
さらに、大目付の三間安右衛門も国家老と同じように、今回の藩主の任命を無視する立
場を採ったので、他の役人もそれに同じたようです。現在の会社の役員会なども、この
ようなところが結構あるのかも知れませんね・・・。(;_;)
田舎では急激な変化は好まれませんし、その必要もないと思われます。
継之助はそれに頓着無く、藩主から任命されたとして、出仕して自己の意見を述べた
のですが、無視され続けたようです。
世間の壁が、自分が思っている以上に厚く強固なことに嫌でも気づかされたでしょう。
意見の中味ではなく、世の中を知らない若造(?)のくせに何を言うのか等と無視され
続けました。
さすがに継之助も諦めて、仕方なく職を辞すことになります(1854年正月)。
しかしこの場合も、単純に辞めたのではなく、自分を認めなかった門閥の弊害を厳しく
指摘した書を、藩主へ提出したと言います。
簡単に諦めないところは、いかにも継之助らしいというべきでしょうか?
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
99/10/31(Sun) 03:48pm QYK10262 春秋(はるあき)
国家老山本勘右衛門は、長岡の戊辰戦争で活躍し会津で亡くなった山本帯刀の養父に
当たります。山本家は筆頭の稲垣家と並んで、家老の中でも別格である家です。
山本勘右衛門は、昔気質の頑固者だったそうです。終生正室をめとらず、跡継ぎも作ら
なかったと言うから、家の存続を第一に考えた当時としては、かなりの変わり者だった
ようです。
強情と負けん気では継之助もなかなかのものですが、山本勘右衛門もまた、凄いようで
す。この二人の勝負は、さぞかし見応えがあったでしょう。(^-^)
ちなみにこの養父とは違って、青年家老の山本帯刀は、継之助の人物や考え方を良く
理解して、継之助の藩政改革の良き理解者となっています。
さらに後年、この山本家を養子となって継いだのが、太平洋戦争で有名な山本五十六海
軍大将です。山本五十六も、継之助を尊敬していて、ロンドンの軍縮会議の予備交渉へ
赴く際に「河井継之助先生が小千谷談判に行く時の精神をもって今回の交渉に臨む」と
言った話は有名です。
参考「愛想河井継之助」中島欣也著
満々たる自信を持っての藩政参加が、思うようにいかなかったことは継之助にとって もかなりショックのようでした。少し後に作ったと思われる詩で次のように詠んでいま す(読み下しは「河井継之助の生涯」による)。
十七 天に誓いて 輔国を任とす
春秋 二十九にして 宿心たおる
千載 この機 得べきこと難し
世味 知り来たりて 長大息す
29才の継之助の挫折感の大きさが、分かるようであります。
部屋住みに戻った継之助は、盛んに鉄砲の練習をしたと言います。また30才の時には、 川島億次郎と共に東北の各地を旅行しています。旅好きでもあったようです。
99/11/4(Thu) 02:09am QYK10262 春秋(はるあき)
さて、継之助の身にはもう一つの事件が待っていました。
時は1855年6月のことです。
藩主忠雅の養子忠恭(当時32才)が初めて長岡入りしました。
長岡では藩士の子弟の中から、文武の道に優れたものを選んで世子忠恭の前で披露するこ
とになりました。それに選ばれた者は、名誉のこととして喜んで受けました。
江戸に遊学していることもあってか、継之助も経書の講義をするようにと選ばれました。
しかし、継之助は毅然として拒絶します。
その訳がまた振るっています。「俺は講釈などするつもりで学問をしたのではない。講釈
する必要があるなら講釈師に頼めばいいだろう」というものでした。
まさか断る人などいないと思っていた藩庁では、ビックリしてしまいます。
脅したり、すかしたり、なだめたりします。しかし、継之助はがんとして承知しません。
困り果てた藩庁では、それなら、病気の為に受けることが出来ないとして届け出を出すよ
うに言います。相撲取りの休場届のようなもので、なんとか形を整えたいというところで
しょう。
しかしながらここでも、病気でもないのにそんなものは出せるかとうそぶき、出そうとし
ませんでした。
とうとう藩庁は、「叱り差し控え」ということで継之助を処分します。自宅で謹慎という
ことになりました。これでおとなしく謹慎しているかと思いきや、謹慎中の生活の伺いと
いう名目で、皮肉の効いた書面を藩庁に出して憂さを晴らします。うーん しぶとい!!
しかしこのような態度では、藩の大人からはとうていよく思われません。
継之助の遊学の願いは、しばらくの間無視され続けることになります。意に反して、長岡
にくすぶることになります。(^_^;
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
QYK10262 春秋(はるあき)
俺がやらねば誰が出来る。と思っていた継之助ですが、いっこうに出番が来ません。さす
がの継之助も、かなりイライラした毎日を送っていたようです。
継之助の妹の安子によれば、この頃の継之助はひどかったと言っています。
家族や周りの人に、内心の鬱憤を押さえかねて、爆発させたことも多かったようです。周り
の人はたまりませんナー。
大体が封建制のこの時代は、自分の出番が決まっていました。人は他人の出番を取ってはい
けないのです。与えられた自分の分を尽くすのが、良しとされていました。継之助の思って
いることは、そんな枠組みを越えているので、理解されません。すると、イライラが募る・
・しばらくして身近の誰かに爆発してしまう・・という悪循環でしょう。
鉄砲の練習も盛んに行い、今までは武士の家を「弓矢の家」と言っていたが、これからは
「砲艦の家」と言うべきだと進歩的な考えを言っています。
1857年、継之助31才の時に家督を継ぎます。
芽が出ないなら仕方がないとやや諦め、気持ちが落ち着いたように見えたからでしょうか?
星亮一著の「河井継之助」によれば、1828年の越後の大地震の悲惨さを知るに及んで「自分
の不遇など大したことではない」と悟ったことになっています。
それにより、気持ちの落ち着いてきた継之助を見て安心した父は、家督を譲ったと言われま
すが・・・果たして本当のところは・・・・???。
99/11/7(Sun) 09:53am QYK10262 春秋(はるあき)
継之助が家督を継いだ翌年の1858年、藩主の忠雅が病気で亡くなります。
忠雅の後を世子である忠恭が継ぎますが、この時に新たな人材を登用します。
そこで、河井継之助が外様吟味役に就くことになります。
外様吟味役とは、藩内の面倒な事件の裁判をする役であり、おおむね若い藩士を選びその
人物の力量を試す役でもありました。継之助は32才ですから、決して若いとは言えません
が、長い間解決がなされないで来た宮地村の庄屋と村民の争いが、継之助に任されました。
これまで郡奉行が、何回か解決を試みたがいずれも上手くいかなかった難事件でもありま
す。一丁前に大口をたたくのなら、お手並み拝見と行こうかと、思った向きもあったのか
もしれません。もし失敗すれば、継之助を嫌っていた人からそれ見たことかと言われるこ
とでしょう。
しかし継之助は、現地に出向いて詳しく調査して、庄屋と村民を和解させてこの難事件
を円満に解決してしまいました。
継之助は、この機を逃さず遊学を藩当局に願い出ました。藩当局も、この事件解決の褒
美の意味もあり、遊学を許可します。御用納めの12月27日に、許可がでますが、継之助は
直ちに支度を終え、その翌日に江戸へ向かいます。
一日も早く江戸へ行きたいという気持ちが、いかに大きなものであったことが分かります。
しかも時期は、厳しい冬ですから大雪を踏み分けての旅行になります。また、継之助が当
主となっての初めての正月になりますので、家族や親戚などの多くの人は、正月くらいは
家にいて雪が解けてから出立したら、と思っていたに違いありません。
参考 河井継之助の生涯 安藤英男著
PS ようやく、小説「峠」の最初の頃にくることができました。(^_^;
99/11/10(Wed) 08:49pm QYK10262 春秋(はるあき)
さて、江戸にでてきた継之助は再度「久敬舎」にて学びます。
久敬舎で鈴木虎太郎に師事されます。小説「峠」では鈴木佐吉となっています。
鈴木虎太郎は当時16才で、足利藩の医者の子で後の筑波山の旗揚げに加わり、その後は、
維新後新政府よりの仕官話しも断り、禅の道に進みます。
この時の継之助は、かなり一生懸命勉強した模様です。大雪の中を危険も省みずに急ぐほ
どの訳もあったのでしょう。
実際に仕事をしてみて、自分の進む道が分かったのでしょうか?それもかなり具体的に・
・・そんな感じがします。
そんな中でも、継之助らしいエピソードも、しっかり残しています。(^-^)
継之助は吉原には、よく行ったようで、吉原の情報誌「吉原細見」にそこで買った娼妓に
○や△の印を付けていたようです。(^_^;
小説「峠」にも、遊郭の稲本の花魁の「小稲」(お稲ともいう)とのことがでてきます。
この「小稲」は戊辰戦争の際の伊庭八郎との仲でも、有名です。伊庭八郎の函館までの旅
費を、何も言わずに工面するのが「小稲」です。
河井も伊庭も、同じ女性に惹かれたいうことでしょうか?
河井継之助は英雄豪傑ほど、女性の情には身を誤る危険があるとして、鈴木虎太郎にも女
性のは近づくなと言っています。
しかしやはりというべきか、鈴木虎太郎も出来るだけ河井継之助に教えられたことは守っ
たが、これだけは守れなかったと述懐しているようです。
参考 河井継之助の生涯 安藤英男著
良知の人河井継之助 石原和昌著
99/11/14(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
継之助らしいエピソードをもう一つです。
ある日藩からご用召しの呼び出しがあり、継之助が行きますと、英艦のための横浜港警
備の隊長の命令がありました。
当時の江戸家老は、山本勘右衛門で、国元で継之助を徹底的に無視したあの頑固者です。
継之助は、隊員の生殺与奪の権が隊長である自分にあるのかと訊きました。当時はまだ平
和な時代ですから、そんな規則も前例もありません。当然そんなものは、隊長に与えるこ
となど考えてもいません。藩に伺いを立てて、許しがあった時でないと、行使できないと
の回答になります。
継之助は、戦場になるかもしれない処へ行くのに、一々藩に伺いを立てなければならない
のなら、とても勤まりませんと言って断ってしまいます。
すると3日ばかりして、また呼び出しがあり、今度は藩が折れて、生殺与奪の権を付け
るという。継之助はそれならば受けましょうということで、支度をして隊長として出かけ
て行きました。
しかし品川の女郎屋まで来ると、馬から下り「俺はここで遊ぶから、遊びたい者は一緒に
来い、また帰りたい者は帰れ、横浜へ行きたい者は行け」と言って建物の中へ入っていっ
てしまいました。
当然、後日藩からきつい呼び出しがありました。
そこで、継之助は、生殺与奪の権をも自分に与えたのだから、私の勝手ではないかとうそ
ぶき、役目を返上して帰りました。
久敬舎の古賀先生が、継之助にどうしてそんなことをしたのかと訊いたところ、「英国
は、本気で戦をする気なんかはありません。何ヶ月も多数の藩士をそこに派遣していたら、
長岡藩は大変な負担をしなければなりません。幕府の申し訳程度の人を派遣しておくだけ
でいいのです。」と言ったそうです。
鋭い見方ですが、藩の役人からすれば、そんなことはとても現実には出来ない、というと
ころでしょうか。
有名なエピソードですが、本当のことなのかは、ちょっと分かりません。(;_;)
継之助以外に、隊長になる人がいなかったのかどうか・・・?
しかしこの後、長岡藩は、横浜警備をどうしたのでしょうか? ちょっと気になります。
参考 河井継之助の生涯 安藤英男著
愛想河井継之助 中島欣也著
99/11/14(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
前回のエピソードの続きです。
「河井継之助を支えた男」立石優著 恒文社では、国元の家老牧野頼母が、継之助を呼び
だして、横浜警備について問い質します。
しかし継之助は、全然反省の色がありません。むしろ家老の牧野頼母を言い負かしさえし
ます。結局、中屋敷に二日間押し込められて、処罰は「お叱り」ということで、うやむや
のようになったようです。
また、長岡藩の横浜警備も、立ち消えとなり、幕府からも、特にお咎めもなかったようで
す。
継之助は、久敬舎に半年ほど学んだ後に、いよいよ山田方谷に学ぶべく備中松山へ行くこ
とを決めます。当時、山田方谷は松山藩の財政立て直しを成功させたとして名高かったと
いいます。
継之助は江戸の藩邸の重役に話して、松山遊学の了解を取り付け、長岡の父に対して3千
字にもなる長文を書いて、遊学が必要なわけとそのための学資50両を送ってくれるように
頼みます。この書面を江戸から持っていったのが、村松忠治右衛門です。村松は、勘定方
として藩財政の建て直しに勤めていましたが、この時以前から継之助とは仲が良かったよ
うです。村松が、継之助の父に何か土産を持っていきたいが何がいいのかを訊くと、継之
助は、中に「微酔」と書いた盃を頼みました。このわけは、継之助の父は酒が好きなので、
楽しんで欲しいが、体に触らぬ程度に加減して欲しいからだそうです。この辺りからも、
父を十分尊敬している様子が、分かるような気がします。
継之助は、この手紙を頼んだ村松の長岡行きを、浦和まで送っています。
長岡へ帰った村松は、早速継之助の父に会い、手紙を渡すと同時に、継之助の西国遊学と
山田方谷について詳しく説明します。継之助の父も、贈られた盃で酒を飲むなど上機嫌だ
ったようです。
参考 河井継之助の生涯 安藤英男著
99/11/20(Sat) 03:35pm QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助が山田方谷を選んだ訳が、彼の手紙に出ています。
それによると、さすが江戸は大都会で優秀な学者も多いが、いずれも学問を職業(学問
のための学問)にしていて、才徳を兼ね実学の人は少ないが、山田方谷は学問を実戦し
て成功しているので感心している。実学を学ぶとすれば、この人しかいない、と思って
いたようです。
継之助は学者になるための学問をしようと思っているのではなく、実際の藩政に役立つ
ものを得ようと思っていたことが分かります。なかでも財政再建は、友の村松忠治右衛
門から話を聞いていて、急務であることを十分認識していたことでしょう。
また、山田方谷については、以前大阪の適塾にいた小山良運からも情報を得ているよう
ですし、それより前には、長岡藩校の高野虎太教授にも聞いていたことでしょう。
そうして継之助は、父から旅費を送ってもらい、塩谷とう陰から山田方谷への紹介状 をもらい江戸を出発することになります。
99/11/21(Sun) 03:10am QYK10262 春秋(はるあき)