雑談 河井継之助

西遊


06029/06029 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 西遊1 (15) 99/11/21 15:48

こんにちは、春秋(はるあき)です。

これから、継之助の山田方谷のもとでの西国遊学を書いていきます。
旅行については、継之助が自分で書いた「塵壺」が基になりますが、基本的には「河井継 之助」(安藤英男著 新人物往来社刊昭和48年発行)の巻末にある、「塵壺(抄)」に依 って書いていこうと思います。塵壺については、それしか持っていませんので・・・。(^_^;
河井継之助のことを書いていますが、この塵壺の部分を読むのは、私にとっても初めての ことになります。(;_;)
例によってのんびり書いていきますが、頼りない書き手ですので書き違いや読み間違いな どがありましたら、遠慮なく教えて下さい。

99/11/21(Sun) 11:37am QYK10262 春秋


06034/06036 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 西遊2 (15) 99/11/21 21:52 06029へのコメント

 1859年6月4日、継之助(33才)は久敬舎を退塾します。
 そして6月7日江戸を発ち、備中松山へ向かいます。花輪馨之進・三間市之進・鵜殿団次 郎が見送りで神奈川まで一緒に来て、横浜を見学しています。品川で2艘の黒船を見て、 城のごときありさまだと驚いています。
川崎で昼食をとり、神奈川から船で横浜へ向かいます。
新しい港で、色々な店が開かれていて、中でも塗り物屋が目立っています。横浜の港の整 備や神奈川までの新しい道が出来ているのは、実に公儀の勢いのたまものである、との感 想を書いています。やはり、幕府びいきでしょうか?
しかしながら、横浜は江戸に近いのと、平地が狭いので、町の発展の先行きは、まだ分か らないと述べています。
横浜から神奈川への帰り道で、橋の上から船に乗った外人を見ています。中にいた黒人の ことを、「黒鬼」と書いています。当時は、そうよんだのでしょうか?外国の女性のこと は、目の色は違うが、目鼻立ちは美人なりと書いていますので、外人に対しては、殆ど偏 見のようなものがないのが、継之助らしいです。さらにその他に、2人のアメリカ人と一 緒に歩いたようです。
その時の外人は、少し日本語を使うということや、先ほどの船に乗った外人は神奈川に住 んでいて、見学に来たのだと書いています。もしかすると、その外人から聞いたのか、又 は周りの日本人に、あれこれ聞いたのではないでしょうか?
当時流行った攘夷という考えは、継之助には微塵もないようです。好奇心が旺盛で、頭も 柔軟性があったような気がします。
 一行4人は、神奈川の「玉川屋」に宿泊します。
しかし、江戸を出て、神奈川から横浜を見学して、神奈川に帰るといのを、一日でやって しまうのですから、当時の人の健脚なのには驚きます。

99/11/21(Sun) 04:10pm QYK10262 春秋(はるあき)


06079/06079 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 西遊3 (15) 99/11/23 05:11 06034へのコメント

 6月8日 雨風 鎌倉宿
 朝、花輪馨之進・三間市之進・鵜殿団次郎と別れ、保土ヶ谷から金沢八景に行くも、雨 風が強く景色を楽しむことが出来ませんでした。
鎌倉に向かう。途中切り通しとして、高さ10間あまりの岩を切り抜いたところが所々にあ り、海に開かれている南以外は、守りを堅くするためである。

 6月9日 晴れ 江ノ島宿
 午前中は案内を頼み、鎌倉を見学するが、聞きしに勝る旧跡であると非常に感心してい ます。七里ヶ浜から腰越(義経の寺を見ています)にいたるところは、景色がよいと誉め ています。
 午後、江ノ島に行き宿を取ります。宿より案内を出してもらい、江ノ島観光を楽しんで します。特に富士山の美しさによほど感動しています。見飽きぬまでに眺めていて、さら に宿の庭からの海と富士の眺めは、何回来ても飽きるところはないだろうと言っています。

 6月10日 雨風 小田原宿
 江ノ島を発って小田原へ行く。小田原では通りを曳いている車(水戸車)、のことを書 いていますが、どんな車なのでしょうか?

 6月11日 雨風 沼津宿
 箱根の天険越えを楽しみにしていたが、晴れならば山上の芦ノ湖・伊豆の山々・富士な どいろいろ見所があったが、天候が悪いので大変残念がっています。箱根は実に天険で、 戦国の頃北条氏が頼んだのもよく分かると言っています。
また、同行の人から聞いた話として、江戸で消費する炭の多くが、伊豆で作られていて、 伊豆では年中炭焼きをしているとの話を書いていますが、各地の経済にも目が向いている ためでしょうか?

99/11/23(Tue) 03:43am QYK10262 春秋(はるあき)


06086/06086 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 西遊4 (15) 99/11/23 17:20 06079へのコメント

今回も、「河井継之助」安藤英男著の塵壺(抄)からの書き込みです。

6月12日 雨のち曇り時々雨のち夕方晴れ 大宮宿
 大宮道の馬方から、甲州・駿河より江戸へ運ぶ荷物のことを聞き、初めて江戸で品物が 無くならないのが分かったと言っています。
また、宿では輪島塗の椀を売る商人に、輪島から出荷する膳・椀類は一年でどの位になる かを尋ねています。

 6月13日 晴れと雨が半々 蒲原宿
 朝宿の裏から富士の頂を見て、登山を決心して村山というところまで行き、案内を頼む。 しかしながらいざ登ろうとすると、雨が降りだして諦めます。
帰りかけますと、今度は晴れてきて、又登ろうとすると雨が降り、結局諦めます。
余程残念だったのでしょう。「富士のため、女子のごとき不決断となり、自ら嘆息す。此 の心、筆に尽くし難し。」とも「この両日は、富士のため失心す。」とまで書いています。 富士山には大きく心惹かれるものがあったようで、「富士は実に聖人のごとし。」とも書 いています。12日・13日の塵壺の記載は、富士のことが殆どです。

 6月14日 晴れ時々曇り 鞠子宿
 昨日登山を果たせなかった富士を、残念に思いながら見ると、この3日間では今日が一 番良く見え、そのため、幾度も幾度も振り返って見て、「(富士に)登らずして帰る、実 に終身の誤りの一つなり。」とこの日も残念がっています。
 久能山へ行き案内を頼み、見学しています。その後、静岡へ行き城や町を見学して、家 康や今川義元のことを思っています。

99/11/23(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)


06132/06132 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 西遊5 (15) 99/11/26 22:59 06086へのコメント

 6月15日 雨風 島田宿
 連日の雨による大井川の河止めのため、渡れない大名や旅人が数多くいる。 昨年などは一ヶ月の内で、20日も河止めがあった時もあり、それに懲りた大名などは、大 体中山道を通っていくそうである。そのため、この辺りの江戸への品物も東海道経由のも のは今年は少なくなり、東海道は道が良いのに、不景気である、と大井川の交通規制(橋 を造らない)は、政策が悪いと言っています。後年、継之助は長岡藩の藩政を司ったとき に、信濃川の流通を改革しますが、当時の武士としては珍しく、経済と物の流れを良く理 解していたような気がします。
 河止めのため多数の人が逗留していて、宿も塞がっているので、そばやのようなところ へ泊まる。同部屋には、横須賀の足軽のような者がいたが、仲間数人の予約もしていたが、 その仲間が来なかったので、宿主からキャンセルのことを責められ、自分の宿賃の他二朱 を包んで渡して言い訳をしているが、気の毒である、と同情しています。武士が商人へ、 一生懸命に謝って言い訳している姿は、いかにも日記風で面白いです。(^-^)

 6月16日 晴 浜松宿
 昨日一緒に泊まった、横須賀の人と大井川を一緒に渡る。河の水は渡す人の首にまで達 するほどであるが、船で渡せば何でもないことで、実にばかばかしいことだ、と言ってい ます。
金谷の坂の上から渡し場を眺めると、富士山も見え実に景色がよく、絵もおよばないほど である、と又お気に入りの富士も見えたためか誉めています。
その後天竜川を渡って、浜松へ行きます。

 6月17日 晴 御油宿
 浜松を出て、たかつかを通るが、ここは蓮が多くある。
新井は、鰻が多くいて、ここから江戸へも出荷している。ここから、岸和田の武士橋本丈 之介という人と、一緒になり御油に同宿します。

99/11/26(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)


06155/06155 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 西遊6 (15) 99/11/28 03:15 06132へのコメント

 6月18日 晴 池鯉鮒(ちりふ)宿
 朝同宿した橋本丈之介と一緒に出ます。しかし岡崎を過ぎた辺りで、この人は体力切れ のため遅れます。
矢作川を渡りますが、大きな橋は殆ど落ちていたため、船で渡ります。橋は幕府の普請で 行うとのことだが未だ工事は始まっていない。大井川は10日間の足止めでしたので、橋は この時の長雨で流されてしまったのでしょうか?

 6月19日 晴 名古屋宿
 この日は桶狭間の古戦場へ行き、今川義元や家老の墓を弔いますが、墓のあるところは 狭く窪地なのでとても大将のいるところではないのに、此処にいたのは運であろうか。信 長は熱田へお参りしてから、山沿いに進んで襲ったことは、感心しています(現在はこの 説は見直されています)。
有松というところでは、鳴海絞りを売る家が数件あったが、実に見事なものであった。そ の後熱田新宮へ参詣してから名古屋へ入りますが、熱田から名古屋までは家続きとありま すので、栄えていたのでしょう。
名古屋では、天守閣はじめ城が立派なことに感動しています。天守閣の鯱を望遠鏡で見て もいて、日に映えて輝いて見事であるとも言っています。
また、町の賑やかなことは小江戸のようでもあり、大きい商店や川端の材木の多いことな どにも目を留めています。
夜は、広小路へ出て夜店を見物して、賑やかなことであると書いています。

 6月20日  晴 桑名宿
 朝発って、若宮の寺の敷地中に芝居小屋があったが、なかなか盛んであった。
桑名へ渡るときは、景色も良いのだが、口の悪いことで有名な船頭の話しぶりも一つの慰 みにもなる。船の終わりに桑名の城際を通るが、知多郡の先や伊勢の山々が遠くに見えて 実に良い風景である。

99/11/28(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06156/06156 QYK10262 春秋 RE^6:雑談 河井継之助 西遊7 (15) 99/11/28 21:36 06155へのコメント

 6月21日 晴 津宿
 追分けを通り津について宿を取る。
此処には、江戸での師斉藤拙堂がいるので、夕方であったが書を遣わしたところ、早速継 之助と一緒に学んだ用助がやって来て夜遅くまで色々な話をした。
この「用助」というのは、小説「峠」では、用助どんという愛称の拙堂の内弟子で斉藤塾 の名物男でもあったと紹介しています。

 6月22日 晴 逗留
 朝、斉藤拙堂氏の屋敷へ訪ねていき直ぐに一緒に山荘へ行く。そこで一日色々な話をす る。師の斉藤拙堂は3〜4日前に隠居となり家督相続も済んだばかりであった。斉藤拙堂は 継之助の遠慮のない話を聞いて心配になったのか、しきりに、諸葛孔明の「謹慎」につい てを継之助に話した。上の者をも上の者と思わないような継之助の話しぶりや、江戸湾防 備のことなどを聞いて、藩という組織の中での仕事に非常に不安があったのではないでし ょうか?
夕方宿へ帰る。宿には用助どんと秋月藩の神吉(斉藤拙堂のところへ学びに来ていたので しょうか)が来ています。夜は質崎というところで船に乗って遊んでいます。
江戸時代には照明もそれほどないので、夜遊びなどは吉原等のごく限られたところという イメージを持っていたのですが、当時から盛り場は結構何処にでもあったようですね。(^-^)

 6月23日 晴 逗留
 昼前は宿にいた庄屋風の二人と話をする。あまり領内の政治をよく言わずに、批判する ような口振りであった。
午後、また神吉氏が来て一緒に斉藤拙堂先生の屋敷へ行く。書画などを見せてもらい色々 な話しもする。継之助が明日出発する予定だと聞くと、もう少し居たらどうかと引き留め られた。先生の家を出て、神吉氏の案内で学校(有造館)を見学する。この有造館は経常 収入のことも考えてつくられたのか、「入用の所計りて拵え方面白し」と書いてあります。 その後、土井氏を訪ねています。この土井氏は、司馬氏の「峠」では、津の名物男であり、 非常に暑がりで裸でいることが多く、継之助が訪ねたときにも素裸でいたと描いています。

99/11/28(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06214/06214 QYK10262 春秋 RE^7:雑談 河井継之助 西遊8 (15) 99/12/02 04:16 06156へのコメント

 6月24日 晴 久保倉宿
 朝津を発ち、松坂を通る。津に勝ると思うほど栄えている。三井の家元の構えは格別立 派である。山田の町も栄えていた。
恩師と夜に会う。奇体の美男なり。
この恩師が誰なのかが分かりません。(;_;) 場所的には、斉藤拙堂が近いのですが、こ こでわざわざ「奇体の美男」とは書かないでしょうし・・・。

 6月25日 晴 小俣宿
 朝案内の人と一緒に伊勢神宮の外宮へ参詣する。他の神社とは違っているところがあり、 遷座の仕方などはどのような訳からそうなるのかが分からない。間之山を過ぎて古市に至 る。古市は聞きしに勝る繁華である。
内宮へ参詣して、二見の浦へ行く。鳥羽から紀州の海を回って大阪に出ようと思ったが、 風が悪いため止める。
古市へ戻り山田を通って小俣に宿をとる。

 6月26日 椋本宿
 朝発ってもときた道を帰る。大和回りで紀州路をとるか考えたが、津より上方往来へ入 る。この道は追分けより来る道より良いが、人通りは少ない。

99/12/1(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)


06306/06306 QYK10262 春秋 RE^8:雑談 河井継之助 西遊9 (15) 99/12/05 11:31 06214へのコメント

 6月27日 晴 石部宿
 朝発って関へ出る。
鈴鹿山を越すときに、小笠原侯の行列に会う。付き従っている藩士達が、バラバラと勝手 に歩いている。鈴鹿山を登って坂を下りた後までも、お供の藩士に会うほどバラバラであ る。小笠原侯の駕籠脇も同じ様で、御小姓もいない状態である。
街道で大名の往来を多く見たが、その中では松山侯の供の人数は、大勢いたが、桑名侯は ごく少なく、簡素なものであった。また、諸藩の槍持ちは、脇差しのみで二本差しの者は いない。
 伊勢路や近江路は、稲穂の付きがよいので豊作になりそうだ。
 この小笠原侯にものは、映画やテレビで見る、「下にー、下にー」と整然と進む大名行 列とはかなり違います。今まで見たのに比べ、あまりにも藩士達がそれぞれ勝手に行動し ていて団体行動になっていないので、継之助も驚いたのでしょう。

   6月27日 晴 三條宿
 朝発って草津に行く。ここの中山道の追分けがあり茶屋で少し休む。聞いたところでは、 東海道は昨年賃金の値上げがあり、そのため今年は大名や旅人のうち3分の2は中山道を通 るようになった。
大津に渡ってから、瀬田の橋や膳所の城、唐崎の松、石山寺、三井寺など名高い風景を望 遠鏡などで見る。
三條大橋を過ぎて、ます屋に宿を取る。
宿を出て、阿州藩の合田繁之丞に会い夕方まで語る。夜は四條の夕涼みを見る。 宿に帰ったところ、御姫様のお供とかで、雲助30人あまり宿へ泊まるが、隣の部屋でバク チをはじめ夜中の二時頃発って行ったが、うるさくて寝られず、その有り様にはあきれ返 ってしまった。
 小説などのイメージでは、こんな場面では鋭い目で雲助を睨んで、黙らせてしまいそう な継之助ですが、実際は自分が寝不足になっているとことが何となく笑えます。

 6月29日 晴 逗留
 終日出ないでいた。

 6月30日 朝晴夕方大雨 逗留

 7月3日まで京にいますが、特に記事はないようです。
司馬氏の「峠」では京都では、西本願寺門跡の異母妹「織部」さんと知り合うことになり、 その話が進められます。しかし、どうもそんなことはなかったようです。好奇心の旺盛な 継之助のことですから、実際の所は京の見所を色々回っていたと思われます。

99/12/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06331/06331 QYK10262 春秋 RE^9:雑談 河井継之助 西遊10 (15) 99/12/06 04:04 06306へのコメント

   7月4日 朝大雨のち晴 船中宿
 朝雨が降っていたが晴になってから発つ。次信・忠信(源義経に従った平泉の佐藤兄弟 でしょうか)の墓に詣り泉涌寺へ参詣。東福寺へ行き通天橋を見る。また、種々の神社を 参拝する。桃山御殿の跡を訪ね、宇治平等院を見る。
船で伏見まで下り、伏見から夜船に乗り、朝6時頃大阪に着く。

 このスケジュールや以前の行程から見ても、継之助は体は相当丈夫であったようですね。

 7月5日 晴 藩の蔵屋敷宿
 長岡藩の蔵屋敷を訪ね、大阪を見学して蔵屋敷に泊まる。

 7月6日 晴 大阪宿
 一日中見学。竹式という宿屋に泊まる。

 7月9日 晴 生瀬宿
 不親切な宿のため洗濯もできないとこぼしています。
伊丹の造り酒屋は剣菱はじめ大きいものがあり、一軒で千石も二千石も造るというが、そ れでも灘の酒屋には及ばないそうである。
神崎、伊丹を経て中山の観音へ詣る。裏の山へ登って四方を眺めると、市中も尼崎の城の 中にある。六甲山の麓に当たり、海上の船の帆も見えるほどに見晴らしの良いところであ る。

 剣菱は既にこの頃からあったのですね。私が会社勤めをした頃(昭和40年代)は、剣菱 といえば美味しい日本酒の代名詞でした。何時の頃から桶買いが多くなった時期があった ようで、そのころ少し評判が落ちたようです。

 7月10日 晴 有馬宿
 生瀬を発って、川の中に沿ったような処を48丁ばかり行く。難路であるが、回りの景色 は見たことがない奇山や風景で楽しめる。湯治場は、何処も皆道が険しい。昼前に有馬に ついて、奥防へ宿を取り、5回ほど入浴する。
夕方鼓の滝を見る。

99/12/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06410/06410 QYK10262 春秋 RE^10:雑談 河井継之助 西遊11 (15) 99/12/08 22:26 06331へのコメント

7月11日 晴 兵庫宿
 有馬は有名な湯治場で、家の数が四五百もあるという栄えているところである。 朝二度入浴してから発つ。
六甲山を越えて行くが、高く険しい。途中案内(板)があり、数十カ国を見ることが出来 る山だという。景色も又良い。
下りの10分の7位のところで、水車のついた家が数十軒あり、水の勢いも良く水車が早く 回っている。灘の酒造りのためのものだという。
生田明神を拝し、湊川の楠公の墓を詣で、兵庫に宿す。

 7月12日 一日中風強く曇り 高砂宿
 兵庫を発って築島を見て、平清盛の墓を訪ね平敦盛の墓へ詣で、一ノ谷を通り、舞子の 浜を通る。明石に行き平忠度の墓を見て、人丸の社(神社か?)に登る。
城の堀際まで降りると、淡路島が前に見え、望遠鏡が無くても家並みまで見える。淡路島 の大きいことは、思っていた以上である。
明石より浜辺へ出て、手沈松を見て、尾上の松と鐘を見て、高砂に行く。

 継之助は、合戦場や歴史上の人物の墓などは、興味を持って色々見学しています。 それらの人から学ぶという面もあったのでしょう。

 7月13日 晴 正条宿
 高砂は姫路領で、家の数も多く、船着き場もあるため賑やかである。船着き場の様子を 見て、曽根の天神を拝し、松を見る。その古いのは実に神代のものかと思われる。播州は 実に松の名所である。名のある松は言うまでも無く、その他の松林も実に綺麗である。 そこから姫路に行く。遙かに城の天守を見る。城下は随分良いところで、摂津や播州は石 の産地か、石橋の綺麗なものが多くある。書写山を右に見て山へ登る。
宿の部屋では、故郷を思い出して、磁石で方角を見て、遙か北を拝すると、山の上の月が 照らしたので、ふと歌を口ずさんだ。
 ふるさとの こし地は遠し はりま山
   すめる月こそ かはらざりけれ

 継之助も、長岡で見るのと同じ美しい月明かりのする座敷で、ふと故郷が恋しくなった のでしょうね。

99/12/8(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)


06531/06531 QYK10262 春秋 RE^11:雑談 河井継之助 西遊12 (15) 99/12/12 00:52 06410へのコメント

7月14日 晴 片上宿
 正条を発って赤穂へ回る。赤穂の手前2里ばかりの処に坂があり、下りかかると遙かに 城が見え、その後ろには海や船の帆も見えて眺めがよい。元禄の赤穂事件のことを思い出 して、事件を知らせる使者がこの坂へ来た時は、この景色を見てようやく赤穂へ着いたと 悲しみの中にも、少しほっとしたのでは思われる。
城下に義士の寺があり、寺の横には浅野長矩公の墓を始め、47士の墓がある。
 ここから塩場(塩田)へ行くが盛んである。焼き所に入って釜を見ると、深さ5寸、横6 尺縦9尺の石釜である。

 その他塩の製造には興味があったようで、従事する人の働き具合や一日の製造量や塩の 値段等を見たり聞いたりしています。賃金についても、焼き場・砂を干して水をかける・ 砂を寄せる人等あって、その職種によって賃金が異なっている
等詳細に見ています。継之助が、経済的な視点が優れていることを伺わせます。

 赤穂を出て備前路へ入る。険しい道であるが、山間の中へ堤が数多くあり、わずかな土 地も田圃になっている。稲が良くできていて豊作である。田に石垣があり、地元では獅子 垣と言っている。段々畑のようにして、田圃を造っていたのでしょう。

 7月15日 晴 妹瀬宿
 伊部を通ったときに「備前焼」の品物を出している店を冷やかした。
岡山に達す。岡山は開けているが山が思いの外多い。
水の引き方は十分に工夫されており、干ばつの心配は無いようである。川の水を田へ引 くのにも、板と竹の輪で工夫してある。
水利の行き届いているのは熊沢蕃山の遺徳と思われる。稲はいずれも良くできていて、 しかもその後には菜種か麦を植える。
以前、伊勢にて聞いたところでは、一反にて米も7俵も採れ、その後で麦も5〜6表も出 来る。そうであれば値段も下がるだろうが出荷先をよく考えているためか、総じて高値 である。岡山まで来る間に、百姓家で休み、米の値段のことや暮らし向きのことを聞く。 暮らし向きはよいはずと思うのだが、貧しいのは、殿様・家中の政治の仕方が悪いと思 われる。4年ほど前には地震のためか、藩札が10分の1になり皆困ったそうである。 岡山の町はさすがに大きい。四国には毎日船が出て、大阪には一と六の日に船が出る。 昨年来コロリがはやり、大阪はじめ姫路・岡山・倉敷までも死んだ人が多い。このよう な病気の流行しているところを、わざわざ行くことはないので、讃岐に渡る予定で、妹 瀬に宿す。

99/12/11(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


06545/06545 QYK10262 春秋 RE^12:雑談 河井継之助 西遊13 (15) 99/12/12 09:40 06531へのコメント

 7月16日 大雨時々晴 松山宿
 前日に書いたように讃岐に渡るためにここへ来たのだが、朝大雨が降って悪気を洗い 流したように思われた。また備中松山は山の中にあってかえって悪疫も無いようなので、 先に松山へ行って讃岐は帰りに寄ることにした。
妹尾より右に吉備の神社を見て、板倉へ出る。板倉より松山道であるが、城下まで8里 ほどであるが、2里ばかりは平坦であるが、後はみな山道である。途中の休み処で藩札 の話が出たが、松山は信用が一番であるという。ある時に、松山の5匁の藩札が信用無 く流通にされにくい時があったが、その際には日にちを限って持参の札を引き替えて、 皆の前でその引き替えた5匁札を燃やしてしまった。
皆感心して札を信用することになった。
その他にも、文武を励まぬものは山へ上げて屯田をさせると言う等、他国の者まで松山 藩の善政の話をする。松山まで来た甲斐があったと思った。
 松山までは山の中であるが、稲は良く出来、竹も諸処にある。お盆のことでもあるの で道中の宿は迷惑だろうと思うので、夜ではあるが松山まで行く。
昼過ぎは大雷雨だったが、夜は晴れて月も冴え左右絶壁の中の正面にある山の上の月明 かりは清流を照らし、絶景である。
夜8時頃松山へ着き泊まる。思っていたとおり、コロリの流行病はこちらでは無かった。

 司馬氏の「峠」では、松山では旅籠を一軒一軒訪ねたが、お盆の期間中で何処も満員 だったと書いてあります。近在の村々から城下のお盆を楽しむために泊まりがけでやっ て来るのだろうと書いてありますが、松山藩の善政のおかげで、豊かだと言っているの でしょう。

99/12/12(Sun) 08:32am QYK10262 春秋(はるあき)


06609/06610 QYK10262 春秋 RE^13:雑談 河井継之助 西遊14 (15) 99/12/14 22:04 06545へのコメント

 備中松山城は現存する12天守閣のうちの一つでありまた唯一の山城(3大山城のひ とつ)でもあります。また、城のある高梁市は城下町が良く保存されているところでも あるそうです。私は、まだ行ったことはありませんが、その内に訪れてみたいと思って います。
伯備線の備中高梁駅から3つ目の駅が方谷駅だそうです。司馬氏の「峠」では、人名を 駅名にする例はここだけだと紹介していますが、「河井継之助の真実」(外川淳著 東 洋経済新報社刊)では、JR鶴見線の浅野駅や智頭急行線の宮本武蔵駅等人名を冠した駅 は何例かあるが、方谷駅のように下の方の名前では類例がないそうです。この駅名は地 元住民の熱心な陳情によるものだそうです。
 山田方谷は豪農の生まれで、河井継之助より22才年上で、この時55才になっています。 この頃方谷は、藩政改革の一環として武士の帰農を進めていますが、それに伴い自らも、 城下の屋敷を引き払い長瀬に移り開墾事業を推進しています。
その長瀬の屋敷跡が、現在の方谷駅になっているそうです。

参考 「河井継之助の真実」外川淳著 東洋経済新報社刊

99/12/14(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)


06758/06758 QYK10262 春秋 RE^14:雑談 河井継之助 西遊15 (15) 99/12/19 22:15 06609へのコメント

 7月17日 晴 山田方谷宅宿
 松山から3里ほど川に沿って奥に進んで、昼頃山田方谷宅へ着く。
途中の道には、開墾中の土地が見られた。昨年こちらに引っ越してきたばかりで、家の 大工工事もまだ終わっていないところがある。
先生は間もなく見えて、色々話がありましたが、自分の胸の中で思っているところを話 して頼んだところ、良く聞いてくれて、この分なら留学の願いは受けてくれるだろうと 思った。随分親切に話をされ、夜は先生の家に泊まった。
 山田方谷とその日に話したことは、
佐久間象山に温・良・恭・謙・譲のうちどれか一つでもあるのかとの論、封建の世では、 (見いだされて)人に使われることが出来なければ、志も実現できない、一村に一丁づ つの新規開墾を実現しようとしている
と書き、さらに山田方谷が主君から(安政の大獄の処分?を)尋ねられた書簡のやり取 りの文書まで内々に見せてもらっています。 

 佐久間象山の話といい君主に使われる為には、の話を、山田方谷があえてしたのは、 河井継之助にもそういうところがありそうだと感じたためでしょうか?  

 7月18日 晴 松山花屋宿br>  午前中は先生と話をする。まず一端城下に引き取って、20日に先生が松山へ行くので、 その際に留学のこと等話すといわれたので、昼過ぎに松山へ帰る。先生よりの書を持っ て、進昌一郎のところへ行き、文武宿「花屋」へ宿を取る。宿には先に会津藩士の土屋 鉄之助が泊まっていた。また松代藩士でホラ貝・太鼓・采配を持った男も後から来て泊 まった。夜は、進昌一郎も来て土屋鉄之助等と話す。

 会津藩士の土屋鉄之助はどういう人だったのでしょうか?

PS 連日の忘年会のためペース落ちています。 
99/12/19(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06877/06877 QYK10262 春秋 RE^15:雑談 河井継之助 西遊16 (15) 99/12/23 16:07 06758へのコメント

7月19日 晴 花屋宿
 朝、土屋・稲葉隼人(松代藩士)と話す。稲葉は取るに足らない人であるが、ホラ貝 の方は非常な腕をしている。昼過ぎに、案内をしてもらい学問所へ土屋氏と共に行く。 大勢が座っている中で、色々な話をする。夕方宿に帰り、夜は同宿3人と話す。

 7月20日 昼晴夜雨 花屋宿
 昼前に山田先生の出先の家に招かれて、土屋氏と共に行く。進昌一郎と神戸謙次郎も 来て話をする。
土屋氏は諸藩を訪ね、学校の様子や、沢山の人に会っていて、色々めずらしい話も聞け た。淡路の兵士、オロシヤの船に乗った話し、小浦惣内の話し(?)、水戸の話、姫路 の学校の話し等面白い話が数々あった。
夜10時頃帰宿。

 土屋鉄之助は、色々なところへ訪ね歩いているようですので、貴世さんが#6839で 書いてあるように、会津藩の公費で旅行したのでしょう。
また、師の山田方谷氏のことを書く際に、河井継之助は前日までには、単に「山田」 と書いていますが、この日は「山田先生」となっています。以後では「山田先生」の 方が多いような気がします。色々な話を聞くにつけても、師として教えを請うに相応 しいと思ったのでしょう。

 PS 今日「白虎隊」のビデオを借りてきました。(^-^)
  早速前編を見ましたが、やはり神保さんの切腹のシーンでは泣きました。(T_T)

99/12/23(Thu) 03:11pm QYK10262 春秋(はるあき)


06949/06950 QYK10262 春秋 RE^16:雑談 河井継之助 西遊17 (15) 99/12/26 17:25 06877へのコメント

7月21日 晴 花屋宿
 朝、土屋氏と稲葉氏は出発した。
約束なので山田先生のところへ行ったが、今日(藩)に留学の許可の願いを出す予定だ が時間がかかるので、それまでは宿に逗留するようにいわれる。
昼過ぎにまた山田先生のところへ行き、色々話す。
頼母子講の話が出たが、武士は武士、百姓は百姓、町人は町人、それぞれの仲間の他は 堅く停止しているが、改革の一つであるという。
 夕刻より、進昌一郎宅へ招かれ、山田先生と行き、色々話を聞いた。
当町には学問所があるが、町人もそこで会読輪講を受けている。第一山田先生からして 百姓の出身であり、弟子の、林富太郎は玉島の商人、進昌一郎は庄屋より油屋へ養子、 三島貞一郎は他領の庄屋の子である。
進昌一郎のところでも、百姓の子で12才で「八大家文」を読めるまでになっている者が いる。教育のやり方は、感心するところがある。夜10時頃、宿に帰る。
 財政と文武と富国強兵であるが、山田先生の話では、財政に係わると文武が廃れてし まう。倹約も良いが、文武が振るわなくなってしまってはいけない。上杉(米沢藩)は、 そうなってしまっていないのか?

 後年、河井継之助は米沢の上杉藩をあまり期待してないような気がしますが、この辺 の話しも影響しているのでしょうか?

 8月3日 晴 水車宿
 夕方「水車」(藩侯板倉氏の別邸)へ移る。それまでは花屋へ逗留。
夜、進昌一郎が来る。

 ようやく藩庁から、許可が出たので「水車」に移ったのですが、この「水車」は山田 方谷が長瀬から月に3度くらい城下へ出仕してくるときに数日泊まるところでもありま す。継之助は、山田方谷が長瀬にいる間は「水車」から長瀬に泊まりに行っていたよう です。
また、7月28日から8月1日までは、会津藩士秋月悌次郎と会っていました。秋月とはお 互いに意気が合ったと思いますが、塵壺(抄)の松山には何も書いていないようです。

 参考「愛想河井継之助」中島欣也著
   「河井継之助」安藤英男著

99/12/26(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


06974/06974 QYK10262 春秋 RE^17:雑談 河井継之助 西遊18 (15) 99/12/27 21:03 06949へのコメント

|また、7月28日から8月1日までは、会津藩士秋月悌次郎と会っていました。秋月とは |お互いに意気が合ったと思いますが、塵壺(抄)の松山には何も書いていないよう |です。

 こう書いたのですが、どうも塵壺には秋月悌次郎のことが書いてあるようです。 そこで、もう一度お断りしていますが、私は雑談河井継之助の西遊については、「河 井継之助」(安藤英男著 新人物往来社刊 昭和51年第2刷発行)巻末にある塵壺(抄) に基づいて書いています。これは(抄)となっていますので、省略している部分もある ようです。ですから、日にちはあくまで、巻末の塵壺(抄)に載っている日 だけを書いています。
なにせ、塵壺を読んだこともないのに書いていますので、ご了解下さい。m(..)m 

 8月16日 晴のち雨又晴れ 山田先生宅宿
 明け方より藩士7・8人、豪商2人と山田先生のお宅へ行き、そこから船で不動滝とい う処まで行く。奇岸絶壁は言葉で言い表しにくい。川は小さいが急流であるので、船頭 の心労や働きには感心した。このような急流は、初めて(船に)乗った。
又先生の処へ戻るが、私以外の人は夜になって松山へ帰って行った。

 8月17日 晴 山田先生宅宿
 夜は澄み切った満月であり、その月のもとで先生の話を聞く。

   山田方谷との、良い関係が分かるような書き方です。(^-^)
若いときに、さんざん教師を手こずらせた人とは思えないです。

99/12/27(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)


06994/06994 QYK10262 春秋 RE^18:雑談 河井継之助 西遊19 (15) 99/12/29 04:31 06974へのコメント

8月23日 一日雨 水車宿
 山田先生も水車へ逗留。この日、山田先生が江戸出府の藩命を受ける。

 9月9日 雨 先生逗留
 朝早く地震あり、夜明けに又地震があった。
山田先生の話として、改革は、古老は老いて死に、若年の者は成長し、15年位して始め て結果が出る。急激に行おうとしても同僚の誹謗に会い、急には出来ない ものである。そうだからといって最初から手を抜かないのは当然のことである。 これは、板倉公から松平定信公(板倉勝静は孫に当たる)の話しとして、聞いたことで ある。
また先生は、改革が10箇条あれば、し易いものより始め、段々に行って行くのがよいと 言っていた。
この夜、林にての話(?)。

 山田方谷は、9月20日頃江戸へ出府し往復約50日の予定であったので、河井継之助も この期間を利用して、さらに西へ行くことに決めます。9月18日に出発しますので、8月 3日に山田方谷に師事していますので、この間1月半です。
司馬氏の「峠」では、長崎へ行って世界の動向を察したい為であるとしています。

99/12/28(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)


07005/07005 QYK10262 春秋 RE^19:雑談 河井継之助 西遊20 (15) 99/12/29 18:05 06994へのコメント

 9月17日 晴 花屋宿
 先生、朝8時前に「水車」を発って帰る。北海の小鯛という大きな鯛を下される。 先生を送って飛石まで行き、昼頃「水車」へ帰る。
これより掃除、あつらえものを終えて「花屋」へ来る。

 河井継之助も旅立ちの準備で、「水車」の身の回りの整理をしたのでしょう。
「花屋」は、松山で最初に泊まったところで、入門許可が下りて「水車」へ移るまで 半月ほど泊まっていたところです。「愛想河井継之助」(中島欣也著)によれば、文 武宿花屋といい、「文武宿」というのは松山へやって来る文武の修行者や藩政の視察 者などが泊まる宿だそうです。

 夜、進昌一郎、暇乞いに来る。扇子に詩を書いたものを、もらう。進昌一郎が帰っ てから栄太郎(?)が来る。夜10時頃まで、話をしてから帰る。昼、三島貞一郎(中 洲)が来て、花屋に泊まる。

 いよいよ旅立ちになりますが、項を改めて書きます。
山田方谷の留守の間の旅行をするということは、山田方谷の日常を通してまだまだ学 ぶべきことがあると思っていたのでしょうね。反対に山田方谷がいなければ、学ぶも のがない又は学び難いのでしょう。河井継之助は、どうも一から型にはまった教え方 をされるのを好まないようですから、この日常生活の中から自分で学びたいものを学 ぶということが継之助にとっても合っていたように思います。
必要なものは勝手に自分で学ぶ、必要でないものは教えてくれなくても良い、という ところでしょうか。

99/12/29(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)


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