方谷
今回は、山田方谷の河井継之助に関するエピソードを少しばかり書きます。
山田方谷が幕府をどう見ていたかについては、面白い話があります。
安政の初年(1854年)、方谷が諸藩の人々と時勢を論じたときに幕府について、それを
「衣」にたとえて話しています。
「家康が材料を整え、秀忠が裁縫し、家光が初服した。以後は代々襲用したので、吉
宗が一たび洗濯し、松平定信が再び洗濯した。しかし以後、汚染と綻びが甚だしいの
で、新調しなければ用にたえない。」(「河井継之助」安藤英男著)。中で聞いてい
た一人が、それならもう一度(3度目の)洗濯したら良いだろうと言ったのに対して、
方谷は、布質は既に破れ、もはや針線にも耐え得ないであろうと答えたと言います。
1854年といえばペリーの再来の時ですが、その時既に徳川幕府は、そう長くないこと
を予見していたことになります。
河井継之助も山田方谷から、同じ様な話はきっと聞いたことでしょう。また弟子の人
たちと、徳川幕府について話し合ったこともあるだろうと思われます。
参考 「河井継之助」安藤英男著
00/1/1(Sat) QYK10262 春秋
山田方谷が行った藩政改革の基本は、次の6項目だとされます
1 上下節約
2 負債整理
3 産業振興
4 紙幣刷新
5 士民撫育
6 文武奨励
当時ほとんどの藩は、財政悪化に悩んでいたようです。そのため、上記の藩政改革
の内1〜4までは財政再建そのものと言えるでしょう。
山田方谷は、まだ遊学中の書生の時に、「理財を論ず」とした論文で、財政再建の対
策を起草しています。後年その対策を自ら実践して、成功を収めています。
河井継之助は、その方谷のやり方を実地に見て学んだのでしょう。長岡での継之助が
行った藩政改革は、ある意味では山田方谷の松山での藩政改革の真似であったともい
えるでしょう。
継之助が山田方谷のもとを去って2年後に、江戸勤務を命じられた方谷が江戸へ出
て来ます。継之助の義兄(妻おすがの実兄)梛野嘉兵衛は、継之助が世話になったお
礼のために一席を設けて方谷をもてなします。その際に、継之助から聞いた松山藩の
藩政について色々話すのを聞いて、方谷は大変驚いたそうです。
継之助が知っているはずのない事柄が、次々に出てきたからです。藩政のことですか
ら、あえて教えていないことや、藩内でも秘密にしていたことまでが継之助には分か
っていたようです。山田方谷は、そんなことまで知っていたのに驚くと「河井の才じ
ゃ」と呻いたそうです(この場には、河井継之助もいて、自分で話したとしているも
のもあります。)。
河井継之助の洞察力の深さを、伺える話です。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想河井継之助」中島欣也著
00/1/2(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助が旅行へ出発した直ぐ後に、山田方谷は江戸へ向かいます。
山田方谷の江戸行きの理由ですが、安政の大獄と関係があります。当時備中松山藩の藩
主板倉勝静は、寺社奉行を罷免させられています。
井伊直弼の行った弾圧政策(安政の大獄)に対して、山田方谷の意見に基づき、断罪は
一、二に止め、その他は不問にすべきであると申し入れたのが、大老の不興を買ったた
めです。
板倉勝静は方谷へ手紙を書き、大いに時勢を嘆いたといわれます。これに対して方谷は、
「進退は義を以てすべきもの。大老に意見した以上は、用いられるか、そうでないかは、
拘るべきではない」と言ったといわれています。
「進退は義を以てすべきもの」は、後年継之助が薩長と戦うときのキーワードになった
ように思います。
鳥羽伏見の戦いの後の1868年3月、江戸の長岡藩邸を処分して海路長岡へ発つ直前に、
長岡の分家の小諸藩の江戸詰重臣を呼んで、今後の小諸藩の採るべき道について言った
言葉があります。
「今や世情紛々、情偽図りがたいが、願わくは大儀に依って事に処せられよ。大義親を
滅すを忘れないように。」と言っています。
この場合、大儀は朝廷、親は長岡藩のことを指すそうで、暗に小諸藩は大勢(朝廷)に
順応するように言ったとされています。しかしその裏側には、長岡藩は義を以て行動す
るので、あるいは薩長と戦うかもしれないと言っている訳でもあります。そうすれば、
長岡藩は滅ぶかもしれない。しかし牧野家(長岡藩)の血筋は、何とか残したいという
気持ちを伝えたことになります。
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
「良知の人河井継之助」石原和昌著
00/1/3 QYK10262 春秋(はるあき)
後年、山田方谷が河井継之助が亡くなったことを聞いたときの話は、「河井継之助の
生涯」(安藤英男著)から引用します。
のちに戊辰役で継之助が戦没したことを聞いた方谷は、自分のもとで陽明学を学んだ
ことと関連があるのではないかと、沈痛な面持ちであったという。門下生が、このこと
を尋ねると、「お前の考えはどうか」と反問するばかりであった。
しかし、その後長岡の藩情と、開戦のやむを得なかった事情を詳細に知って、ようやく
安堵の色があったという(P103)。
ここでの山田方谷の判断基準は、前回書いたこと、すなわち「進退は義を以てすべき
もの」であったはずです。戦えば悲惨な戦争になり、その結果人々が苦しむことは分か
っていたはずです。また、武士が亡くなるのも、そう先のことではないと理解していた
継之助です。
そうであればこそ、方谷は「どうして戦ったのか?」が、疑問であったのでしょう。し
かしながら、開戦の事情が分かれば、その方谷としても理解できたのです。
ちなみに備中松山藩は、藩主不在の山田方谷のもとで西軍には開城しています。
00/1/3(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)
今回は山田方谷の弟子の三島貞一郎(中洲)の話です。
河井継之助が備中松山へ居る頃、三島貞一郎とはよく会っています。当時三島は継之助
よりも3才年下で年齢も近いということもあり、お互いに気があったようで交友を深め
ています。JR伯備線の「方谷駅」が地元住民の陳情により決まるときに、山田方谷は知
られていなかったが、あの偉い三島中洲の先生だからということで、決まったといわれ
ます。
三島貞一郎は伊勢で斉藤拙堂に学んでいます。河井継之助も、江戸で斉藤拙堂に学ん
でいますので、二人とも斉藤拙堂門下ということになります。今回の旅の途中にも、伊
勢の斉藤拙堂の処に寄ってきていますね。
三島貞一郎は、長州の吉田松陰とも面識がありました。河井継之助も吉田松陰の話を、
三島から色々聞いたと思われます。
そのためでしょう。河井継之助は長岡藩へ戻ってから、松陰の遺文集「二十一回孟子遺
文」を書写しています。この松陰の遺文集がどういうことを書いてあるのかは全く知り
ませんが、継之助も松陰の考えや行動には、惹かれるところがあったのでしょう。
参考「良知の人 河井継之助」石原和昌著
00/1/6(Thu) QYK10262 春秋(はるあき)