九遊
河井継之助は、山田方谷が江戸へ行っている間に、九州まで旅行しますが、それを書 きます。例によって、「河井継之助」安藤英男著の塵壺(抄)に基づいて書いていきま す。
9月18日 曇小雨時々 玉島宿
朝、進氏より詩を書き直したものを頂く。8時頃「花屋」を発つ。川に沿って出て、
みなぎより川を渡って山へ掛かってから、久々に広々とした処へ出た。備中松山の四方
山で狭いところに居たためか、面白く感じる。
山陽道の本道へ出てから、2里ばかり入って玉島へ着く。林氏を訪ね、夕食をいただく。
娘の琴を聞く。林氏の弟の源三郎が来る。
小島屋へ宿す。この夜、天気が悪く船が出ないためである。
林氏とあるのは、方谷の弟子で玉島に住む商人ですので、前もって寄ることは連絡し ていたのでしょう。
9月19日 晴 逗留
円通寺へ行く。禅寺にて、庭に大石や古松があり、遠くは讃洲の山々、近くは瀬戸内
の小島が見え、嘗て見た富士のように景色がすばらしい。
夜12時頃に船が出た。少し眠ろうと思ったが、早くも丸亀に着く。10里の海路も随
分早く着くので、感心した。丸亀の船宿に入ったが、ご飯の準備もないようなので、支
度して直ちに出かける。
円通寺は今の倉敷市にあり、かつて越後の僧良寛が20年も修行していたところです。
00/1/10(Mon) QYK10262 春秋
9月20日 晴
朝早いので月があるが、港の様子が分からない。城を左にして金比羅に向かう。
この辺りは土地も開けている。左に讃岐富士が小さいが形は良い。その他にも形の良い
小さな山が、数多くある。砂糖が道の両側に植えられているが、黍に似ていると聞いた
が、ススキの穂のようである。茎を採って砂糖を造るという。金比羅の手前5・6町の
ところでようやく日が出てくる。さすがに街道も広く、所々に堂や茶を沸かす処がある。
町の入り口に川があり、屋根の着いた橋が架かっている。色々見物して、坂の下の「と
ら屋」という宿に入り、朝食を食べる。宿の広さや、造りや庭はすばらしいが、食事は
至って悪い。
宿に荷物を預け、山に参詣する。本堂は実に立派で、紺青の画、柱の朱塗り等見事で
ある。眼下に町を見る、下からは8町ばかりの山である。生い茂っている木は、大部分
は樫の木であるが、椋の木もあり初めて見る。
下りて宿により、直ちに多度津へ出る。
途中善通寺へ寄るが、名前だけで良くない。多度津は、城下でかつ船着き場なので賑や
かである。昼頃船宿にて食事をして、船宿の指示で直ぐに船に乗り込んだが、船が出た
のは夜になってからであった。その間中、賭博をしているのがいてうるさかった。
前夜に続いて、今夜も船中泊ですが、河井継之助は体力がありますね、本当に。
00/1/10(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)
9月23日 晴 四日市宿
昨夜は夜半過ぎより雨強く、心配したが今朝は晴で、本郷を発ち山へ掛かる。
芸洲領は道に松の並木があり道は整備されているが、往来がさみしく山道故、退
屈である。自分の身なりがあまりに身軽の支度なのであろうか、三原より広島へ
の飛脚かと尋ねるものがいた。
飛脚に間違えられるのですから、武士らしくないカッコもそうでしょうが、健
脚らしく見えたのでしょう。
9月24日 晴 これより後は黒崎にて記す
四日市を発ちて、長山、原を通って午後4時頃広島へ着いて、所々見物する。
御笹川という川があって、城の左右に堀のように回して、城際まで船も入る。城
や市は広くて賑やかであるが、綺麗ではない。城の外郭等もはなはだ手入れがな
されていない。広島は領地も広大で、町は人口も驚くほど多く繁華であるが、豊
かではない。国の貧富は、実に政治によるものであろう。
夜、宮島へ渡るために船に乗ったが、潮が満ちないので12時頃まで船を出さな
い。ようやく出しそうになったが、又砂につかえて動かない。乗客と共に陸へ上
がって(船を軽くして浮かびやすくするため)しばらく歩いたが、やはり動かな
い。乗客の中には、横着者が多くて陸へ上がらない者も多かったが、自分が皆を
先導して全員船から降ろした。しかしそのかいも無く、潮はますます引いてしま
った。乗客も迷惑、船頭も骨折り損であった。
仕方なく小舟を雇い草津と言うところへ着いたが、もう夜も明けてしまった。寒
くもあり、また眠ることもできないで、今宵は馬鹿馬鹿しい目にあってしまった。
00/1/12(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)
9月25日 晴
小舟より草津船に移ると、間もなく船が浮かび厳島を指して行く。天気は良く、
島々の好景色を眺めると、昨夜の不快も吹き飛んでしまう。間もなく厳島へ着く。
宮島には、富くじがあり年に6回開催される。朝食を食べに入った宿では、富くじ
に当たった者の名前を書いて貼ってあった。一緒に宿へ行った者の中にも、富札を
6・7枚持っている者もいた。1枚当たると2朱で買った札が、当たると2両や3
両、時には百両あまりにもなるという。宮島は、この富札で成り立っているという
ことであるが、感心したものではない。
継之助は、以前にもバクチをやる人がうるさい等と書いていますが、バクチや富 くじのようなものは、やるべきではないと考えていたようです。後年長岡藩では、 バクチ禁止令を出します。
朝食を食べて、直ちに見物に行く。案内人を進められたが、以前奥州旅行で金華
山へ行ったときの案内人に呆れたことがあるので、断った。
弥山(海抜530メートル)へ登ると、この島一番の山であるので、四方の見晴らしが
良く、中国・四国・九州の山かと思う遠くの山まで見える。頂上は大きな石が多く
大変険しい。
山を下り、厳島神社を見学する。本堂の額は古画が多くあるが、すすけており惜
しい。堂の広く大きなことやその造り方は目を驚かすほどである。千畳敷といって
小高き山に堂がある。これも又大きいものである。
鹿が多く、家の数も多いが、土地は狭い。戦国時代に陶晴腎がここで戦って破れた
のも、もっともなことである。
夜になり船を出し、朝方周防の新湊に着く。
以前に見た桶狭間の合戦場跡もそうですが、今回も厳島の合戦跡などは、戦の様
子を想像しながら見学しているようです。
しかし、また今夜も船中泊ですから、継之助の体力は凄いようで、日中の見学に何
の支障もないようです。
00/1/15(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
9月26日 晴 呼坂宿
岩国の城下に着く。領内の家や城下の家の様子は、いかにも豊かである。土着し
ている武士(土地を耕しているのでしょうか?)も多くあるという。
法は厳しく、人々は驕らず、人柄も穏やかに見える。場所は近いが宮島とは偉い違
いである。賭博や米相場については、厳しく取り締まっている。現に米相場で2・
3人牢屋へ入っているとのことである。武士は少し貧しくなれば、土地を耕して勝
手向きを助ける。
錦帯橋は城の大手にあり、聞いていた以上に趣がある。錦帯橋を見学しているとき
に、剣術の道具を持って往来する人を多く見た。木綿縮み、松金油の大きな店が数
多くあり、名産である。
岩国の6万石は、陪臣では過ぎたものであるが、吉川元春の功を考えれば、周防の
国全部でも足りるものではない。吉川元春の武功は、それほど大きいものである。
9月29日 晴 長府宿
朝発って舟木を通る。ここは櫛が名物で石炭の産地でもある。朝鮮征伐の時に、こ
の山の木で船を造ったので、舟木という名前が付いたという話を聞いた。また赤間
石硯も、この辺りより出る。石工も数件ある。この辺りの宿は、いずれも良い、山
が多くあるが開墾されていて、人情も穏やかで、長州路は(政治が)良いように思
える。
村々に高札があり、年貢は4割であり、不作であれば年貢の率を下げ、豊作であっ
ても率は上げないとある(安政3年春○○・・と昔の文体で書いてある)。こに高
札の文は、帰りでも写そうと思ったので記録しなかったが、今日写
。
賭博は厳禁であり、破ったものは島流しで、見ていた者も40・50日の牢屋入り
であるという。そのため近頃は賭博をする者はいないという。さすがに毛利氏の領
土は、良く治められていて、中国往来中では一番と思われる。賭博の禁止は、実に
風俗の良し悪しに係わってくるのだと思われる。
長府に宿す。この辺りの島々は皆、萩(毛利本家)の領地であり、広大である。
藩札の流通も、非常に上手くいっているようである。
幕末の長州というと、そうせい公の毛利敬親の印象が強いためか、上下の秩序が 無く乱れているように感じますが、内政は非常に上手くいっていたようですね。 そういう下地があったからこそ、奇兵隊などの諸隊が生まれ、そして活躍できたの でしょうか?
00/1/16(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
10月2日 晴 博多宿
畦町を発ち、香椎宮の前を通る。道は黒田侯の往来になっているため、広く並木
に松が生い茂っている。筥崎八幡へ参詣する。社殿の造りは立派である。境内は海
辺まで馬場のように伸びていてその先に鳥居がある。そこの海の砂は、病を治すと
いわれている。傍らの船見櫓に登って、しばらく見物する。志賀島という3里の松
原が内海になり、その風景は有名である。これより松原を通って博多へ宿を取る。
博多は、福岡と城近くの橋で分かれているのみで、博多も城下町といえる。
見物に出かけ、城の外郭を入る。天神町と大名町の二つの町は、大きい家ばかりが
あるところで、仙台の大名小路のようなものである。しばらく行くと、海辺の山上
に東照神君の社があるので、登って礼拝する。この山より城下が一目で見えるが、
広大であり、風景も良い。しばらく町を通り、宿へ帰る。城の濠へは海水が入って
いるようである。場所も良く賑やかなのは、この旅行の九州では一番であろうか。
人吉の同宿の藩士と一緒に夜出かけて、柳町という女郎町を見るが、店は僅か10
件ばかりしかないが、木戸があり厳重な管理をしている。上玉は奥にいるとしきり
に勧められたが、言い方が可笑しく大笑いした。
また、同宿に加賀の人がいたが、町人の格好をしているが、町人ではなさそうであ
った。その人は日本中の諸藩の様子、家の数や産出するのもの等よく知っていて話
をする。何者かと思って尋ねると、葉商人でぶらぶら遊び歩いている等と言って答
えなかった。以前に加賀藩では、他国の観察者を出していると聞いたことがあるの
で、あるいはそうかと思った。
加賀藩のこの人物は、謎の人物のようですね。隠密ほどには秘密ではないが、藩 命で他国の情報を得ている人だったのでしょうか?
00/1/16(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
10月4日 晴
神崎というところで、値を付けたところ負けてくれたので蓑を買う。しかしながら、
松山へ帰るまで一度も使用しないでずっと背負っていた。馬鹿馬鹿しいと一人笑いを
する。
昼過ぎに、佐賀へ着く。城は町の西南に当たる。武士や町の人の家の造りは、綺麗
である。中国産のものを、取り扱っている店も多くある。少し寄り道して、兼ねて噂
に聞く反射炉を見る。中をみたいと思って、番所で頼むが色々手続きがあって、見る
ことが出来なかった。外から見ると、高さは8・9間で鉄のタガがしてあり、石灰塗
りで、水車にてキリを入れ、音がいつもうるさい。一本の軸に車が二つあり、軸は鉄
であろうか、車の拵え方などは丁寧である。通りには銃の台を造る店があり、数十挺
のゲベール銃が並んで、職人も数人いた。
うどん屋で休んで、亭主から色々話を聞く。さっき見た反射炉の大砲は、公儀の注文
の品であるという。佐賀は平野が広く、実に良いところで逗留したいと思った。
これより町続きで本庄へ行く。船に乗るつもりが、出発は夜10時頃というので船
宿で休む。夕方何か音がするので表へ出てみると、先に見た反射炉で造った大砲を引
いて行くところであった。それに付いていったところ、川端の小屋に36ポンド、24
ポンドの砲が合わせて7門あった。いずれも見事に出来ていた。感心してみていると、
役人が咎め立てしたが、名前を名乗って感心したので拝見したいと答えゆっくり見物
した。公儀の注文の大砲で、江戸へ運ぶものである。船に積む準備が大変で、4・5
百石の船に積むようだが、沖でさらに大きい船に積み替えて、江戸まで運ぶことが出
来るという。
陸を行って大村もみたいと思うが、道も悪いので船で諫早へ行く。夜10時頃出発
し、諫早には朝8時過ぎに着く。船は小舟で数艘出発したが、中には丸木船もあった。
継之助が買って使用しなかった蓑ですが、長岡の郷土資料館の河井継之助コーナ
ーに展示されているそうです(河井継之助の生涯 安藤英男著)。
大砲にはさすがに高い関心を示して熱心に見学していますし、スケッチにも取ったよ
うです。
QYK10262 春秋(はるあき)
10月5日 晴 長崎宿
諫早は鍋島家の家老の城下で良きところであり。4日に同宿した佐賀人は、諫早の
眼鏡橋は日本一だと自慢したが、なるほどそうである。二年前に出来たそうである。
石橋も色々あるが、このようなものは見たことがない。これより段々山へ登る。
山上より望遠鏡で見ると、大村やその他も見える。遙かに遠くへ見えるのは、平戸で
あろうか。矢上の宿を通り抜けたところで、会津藩土屋鉄之助に会う。秋月悌次郎長
崎にいるという。土屋は、親が亡くなったためであろうか、用事で急に帰るところで
ある。しばらく話をしてから、別れる。
矢上の先は、道がいよいよ険しく、月見峠は石ばかりで、佐賀まで平地が続いていた
のとは全然違う。峠よりは、温泉はもとより天草を前に見て、景色がよい。
山を下って、1里ほど行けばもう長崎で、午後5時頃着く。銀屋町の「万屋」へ宿を
取る。中国を渡ってから、この長崎街道は往来も大変賑やかである。
街道を歩いていて、会津へ帰る土屋鉄之助に会ったのは、本当に偶然で良く会えた ものだと思います。彼から、会津藩の秋月悌次郎も長崎へ来ているときいて喜んだで しょうね。長崎では、秋月とも同宿しています。
0/1/19(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)
10月17日 曇 逗留(長崎滞在中のことをまとめて書いてあります)
「万屋」では、長州舟木の人、二本松の画工、薩摩の人、肥後の人等色々な人が同
宿した。
同宿と書いていますので、これらの人とも色々な話をしたことでしょう。
「山下屋」へ移ってからは秋月悌次郎と同宿する(同間ではない)。秋月は薩摩藩
や諸藩のことに詳しい。夜長崎の町を散歩して、商店の品物をあれこれ聞いたりした。
何を見ても面白いのは、長崎が商売交易の土地であるので、そうなってしまうようだ。
中国人の館やオランダ人の館を見ることや通訳と懇意になることは、皆秋月のおかげ
である。江戸へ帰ったら、一杯ごちそうをしよう。
中国や西洋の品物を扱う店は数多くある。筑前藩士がオランダ人を斬ったこともあ
った。町にある橋は、石造りの眼鏡橋が多い。また、道に切石を敷いてあるところが
多くある。秋月と丸山へ見物へ行き、あちこち回り、山の上にて名月を見る。
ある日、通訳の石崎方へ秋月と行く。庭は大きく綺麗であり、高いところにあるの
で座敷より見た景色が綺麗である。朝10時頃より書画を見たが、夕方まで掛かっても
見きれなかった。ゆっくり楽しめば、1年でも飽きないだろう。中でも欲しいと思っ
たのは、建隆帝の書である。林則除も良い。後日、他の中国の書画を見ても目移りは
しないだろう。午後2時に広東人の馮鏡如唐が尋ねてきたが、これは我々のために招
待した人である。この人はイギリス船に雇われて、日本に来た来た人である。秋月が
彼に詩作って贈ると、彼は直ちに机に向かい、口の中で声を出して吟じ、直ちに書き
付ける。午前2時過ぎまでそんなやり取りをしていたが、全然退屈そうな感じではな
かった。別れて帰るときに、私が提灯を持っていなかったので、しきりに送っていく
と言ってくれたが、あえて遠慮したところ、それでは丸山にでも行こうかと誘われた。
お金があったなら、唐人と一緒に丸山へ行き、女郎を買っても良かったのだが、無益
と思ってそうしなかった。
長崎の町は、商売交易の地だあるので何を見ても面白いというのは、結局は城下町と
違って自由に振る舞えることだったのではないでしょうか?
石崎氏の家へ行き、そこから唐人の家へ行ったのでしょうか?中で見た品物の数か
ら思えば、石崎氏の家というよりも貿易に来ている中国人の館のようです。また、継
之助も、父の影響でしょうか書画を見る目はあったようです。一日見ても飽きないと
言っています。
最後の丸山の話は、お金があったら余程行きたかったのでしょう。(^-^)
「後にて聞けば(誘った馮鏡如唐は)丸山へ行きし由」と書いています。無益と思っ
てそうしないと書いたのは、どうも悔し紛れの言葉のようです。
0/1/21(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)
「河井継之助」安藤英男著の塵壺(抄)には、10月17日の他に長崎の話は書いてあ りません。しかし河井継之助関係の本には、他にも興味あることが出てありますので、 それらのことに簡単に触れてから、先に行きたいと思います。
長崎では、幕府の軍艦奉行の矢田堀景蔵が、咸臨丸に乗って江戸から長崎までやっ
て来ていました。河井継之助は矢田堀は江戸の古賀塾で同門だったこともあり、3回
に渡って彼を訪ねて蒸気船を見せてもらっています。江戸から長崎までたった4日で
着いたと聞いて驚いています。そして、帰りには江戸まで乗せていって欲しいと頼ん
でいるようです。これは実現しませんでしたが、西洋人や西洋の文明に対しては、当
時珍しいほどアレルギー等を持たず、旺盛な好奇心を示しています。西洋のことを学
んでいない人としては、攘夷が叫ばれている当時を考えると、実に驚くべきことのよ
うに思われます。
またイギリス軍艦の前を通ったときに、数十名の水兵がマストに登ったり、船腹を洗
うキビキビした動作に感心しています。
さらに幕府のこの度の、長崎への航路は、1804年のロシア使節が長崎へ来航したとき
の海図に依って運航していると聞いて、日本の遅れを嘆いています。これなどは、継
之助は蒸気船というハード面だけでなく、航路というソフトにまで気が付いていてそ
の重要性を認識していたということになるでしょう。
この長崎滞在中に、継之助は秋月から直言を受けている。強情で負けず嫌いの継之
助がそれを認め、かたじけなく思っていることには驚かされる。二人は、よほど気が
合った親友というべきでしょう。継之助が長崎を発ったときには、秋月は唐八景の山
の上まで送ってきて、卵と酒で送別しています。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想河井継之助」 中島欣也著
0/1/22(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
10月20日 朝晴 学領宿
朝5時頃船出。雲仙や天草が見え景色は良い。しかし天気は荒れそうで、船出には
悪そうである。船頭はこのような話を嫌うのだが、嵐が来そうだと言ったところ、船
頭は返事もしなかった。船も中古の物を買ったので、造りも悪いので気になった。
強い順風の中で凄い勢いで走っていったが、間もなく風が止み雲と霧が出てきた。船
頭も色々やったがなにぶん風のことで、上手くいかない。もう一人の船頭などは、今
日は船を出す天候ではなっかた等と言って、全く役に立たない。頑張っていた船頭も
やむを得ず、碇を降ろし帆をたたんだが、その内に船内にしきりに浸水してくるよう
になった。風もまた段々強くなり、船が左右に傾くようになった。引き返すか、風に
任せて肥後の方へいくほかないという。
同行の増子氏は、怖くて物も言えずにただお経を読んでいた。可笑しいと思ったが、
こちらも船酔いで難儀をしているので笑うこともできない。しかしながら、いざとな
った場合に働けるように、手足に気を使い横になった。しかし、君命とか父母の命と
か戦とか、その大儀(名分)があれば、いかなる暴風大波にも気持ちが目先の嵐に囚
われずに済む。しかしながら此の遊学は、個人の遊びでは無いものの公のものではな
いので、自然に心も不安になってきて、腹や胸の具合も悪くなり、手足までも影響が
出てきてしまう。
海はややしばらくして船頭の言うとおり、風が変わって肥後の方へ向かって走る。
熊本の川筋は船着き場であるが、南風が強く入ることが出来ない。長い石垣の脇に着
いたのは、夜の9時少し前であるが、同行の増子氏は私を起こし、着いた着いたと頻
りに喜んでいた。船が出たのも日が暮れたのも知らなかったので、よほど長く寝てい
たのだろう。
着いた場所は肥後の新田で学領というところである。4人とも無事に着いて、良かっ
た。それから芋飯を炊き、皆で食べる。この晩は火を焚いて、皆休んだ。
しかし、大儀でもって行動しているときには、どんな嵐でも肉体(体調)の具合は、 精神で克服できるとは・・・、これは凄いとしか言いようがないが、現代の私から見 るとどうしても眉につばを付けないと・・・・。(^_^; この辺りも、同時代でも嫌 われるところなのでしょうか?
0/1/23(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
10月21日 晴 熊本
朝天気不順で風が止まず、そのうえ潮は2、3丁も引いてしまい、船の下は水が無
くなってしまった。そのため今日は昼過ぎまで、船を出すことが出来ない。そのため、
増子氏と話し合い陸に上がって熊本まで歩くことにした。
ここの石垣の新開地はたいそうなもので、2段に畳み上げ、高さは2間半か3間にも
なる。ここの地名の「学領」という名前の由来を、船頭へ聞いたが知らなかった。後
で聞けば、学校(藩校)の費用を賄うために、開拓された新開地なので「学領」とい
うのだそうである。さすがは熊本である。
昼過ぎに熊本城下へ入る。町をかなりの距離を歩くと、城の脇の高台に社があった
ので、その下で昼食をとる。その後、城の西を通り真っ直ぐに清正公社へ行く。その
道では藩士に多く会った。毎日お参りする人も、何人もいるという。御百度参りをす
る人もいるし、藩士の家内と見える人もいる。内院には、木の矢来があり、堂の前に
は石灯籠があり、全てが見事であった。田舎の熊本でもこのように賑やかなので、江
戸の地にあったら浅草と比べられるくらいになるであろうか。
この「学領」という新開地は、文化文政期から干拓され、天保期には96町歩 という広大なものになったそうです。また継之助が感心した高さが2間半以上の石垣 は4キロにも及ぶ丈夫なものであったが、昭和2年の大津波で、決壊してしまったそ うです。熊本に入ってからは、真っ直ぐに清正公の社へ行っていますので、清正公に は感じるところがあったのでしょう。現在でも熊本では、「せいしょうこうさま」と 言って大変人気があるそうです。
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/1/26(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)
10月22日 晴
木下犀潭宅へ行く。山田方谷の話を色々したところ、久しぶりに聞いて嬉しそうで
あった。その後は、私のことを聞いた。家の中の様子を見ると、畳はもとより、衣服
や木下犀潭自身や家族も万事質素である。
秋月悌次郎や土屋鉄之助の話も出た。山田先生への手紙の返事をお願いしたところ、
直ちにその場で書き始めた。木下犀潭は温和で、丁寧であり儒学者らしくなく、初め
て会ったような気がしなかった。いかにも実学のような人のようで、100日や半年も
一緒にいて学んでみたいと思った。山田先生の息子の遊学を頼まれたことを私に話し
て、人の師のようにはいかないかもしれないが、子供の世話のつもりでやります。お
子さんがお出でになれば、出来るだけのことはするつもりであり、そのことは手紙に
も書きましたので、よろしくお伝え下さいとのことであった。その言葉は、謙譲で実
のあるものであった。もっと長く留まって、その場所の風俗や制度の様子や色々なこ
とを聞きたいと、呉々も思った。塾は、読書をしている声が盛んで、よほど人もいる
様子で、数十人もいるようである。色々な塾も見てきたが、家塾でこのように大勢の
人が学んでいるのは、初めて見た。
木下犀潭は農民出身であるが、山田方谷と同じに佐藤塾で学んでいます。山田方谷 は子息の栄太郎を、この木下犀潭の基で学ばせようとして、依頼の手紙を河井継之助 に頼んだものです。河井継之助は、この木下犀潭を非常に良く思ったようで、その基 で学びたいという気持ちになっています。しかし、木下犀潭が大変忙しそうなのと、 お金のこともあり諦めています。
0/1/29(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
10月29日 晴 船
下関より船に乗る。江戸へ剣術修行に行く薩摩藩士が、朝鮮征伐から帰って来ると
きに歌った歌を歌う。そして、私に豊後の刀を見せたが、見事な品物であった。この
薩摩藩士は、質朴で、優秀な戦士である。私が蘭画の話をしたところ、頻りに見せて
くれと言うので見せた。
細川家の人や江戸、大坂、中国の人も数人、そうかと言えば27日には、船が出るまで
女郎2、3人も来ていた。大勢の人だったので、うるさいのみで面白い話しもないの
で、風景を楽しむこと以外にはやることがない。その中に肥後で、俗謡が流行るのこ
との由来を話すものがいた。
越前福井の医学生と豊後の出家は、私の名前を聞いてきた。
乗り合いの人数が少なければ、商人に面白そうな男がいたが、人数が多くてざわざわ
として話もできない。
継之助は熊本から帰路に入ります。小倉へ出て小倉からは船で鞆津へ行っています。 この旅行で薩摩と萩に行くことが出来なかったのは残念だったようです。もし行って いたら、後年の小千谷会談はもっと違ったものになっていた可能性があります。 松山には11月3日に着いています。
0/1/30(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)