東帰
「塵壺」は、河井継之助の唯一の著述で美濃紙121枚に気楽な気持ちで書いた日記
です。12月6日には、「他日ご両親へお話のつもりと思い付きし事を記すのみ」と書
いていますので、お金を出してくれた両親への土産話しという意味もあったのでしょ
う。
備中松山に、山田方谷が江戸から帰ってきたのが11月28日頃です。継之助は再び
方谷の基で学びます。
そして翌年の春いよいよ江戸へ帰ることとします。
帰るのに際して、山田方谷が愛蔵していた「王文成公全集」を4両で譲り受けて
います。その際に方谷は、1700字にも及ぶ一文を河井継之助に与えています。
その内容の要点は、「河井継之助の生涯」には、「長岡の河井継之助氏を見ると、
経世・済民の志は堅く事業と政策に深い関心を抱いている。なので不用意にこの全
集を譲ると、王陽明の功業の跡のみを追い求めることになり、返って害を招く心配
がある。そのために、王陽明の事績を学ぶには、その事績の末に囚われずに本質を
よくわきまえて、運用を誤らないようにして欲しい。」となっています。
山田方谷も、河井継之助の妥協の無い性格等を見ていささか危ういところがあり、
かなり心配だったのでしょう。
松山を発ったのは、1860年の3月頃といわれています。司馬氏の「峠」では、
1860年の正月となっています。
0/1/30(Sun) QYK10262 春秋
さて方谷との別れの日です。 方谷と門下生の見送る中、継之助が高梁川を船で渡ります。この日の継之助の持ち 物の中には、例の「王文成公全集」と方谷から贈られた「長生薬」一包みがありま す。河井継之助が、川を渡って少しいったところで振り返ると、師の方谷はまだ対 岸で見送っています。継之助は笠を取り、その場に正座してお辞儀をしました。そ して、また少し歩いては、そうし、これを幾度か繰り返しました。 方谷の基で学んだ期間が、継之助にとって非常に充実したものだったからと、それ に対する感謝の気持ちが強かったからでしょう。山田方谷も、河井継之助が遠くで 小さくなるまで見送っていたのですから、心の通い合った良い師弟関係だったので しょう。
後年方谷は次の歌を残しています。
題「河井家より蒼龍窟の碑文を頼まれし時」
碑文(いしぶみ)を 書くもはづかし 死に後れ
山田方谷が、河井継之助の死をいかに悲しんだのかが、伝わってくるようです。
参考 「河井継之助のすべて」安藤英男編
今週は飲み続けだった 春秋(はるあき) (@_@)
さて、この3月7日付けで江戸にいる梛野嘉兵衛(継之助の妻の兄)へ書いた手紙が あります。これは、梛野氏が継之助に天下の情勢を尋ねてきたものの返事のようです。 3月7日ですから、山田方谷の基を去る時になりますので、ちょうどこの頃に、書いた ことになります。
手紙の要旨を「愛想河井継之助」(中島欣也著)から書きます。
0/2/5(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
継之助は、江戸へ戻ると再び久敬舎に入塾します。司馬氏の「峠」では、鈴木少年
から、再び久敬舎へ来た理由を尋ねられと「ひとつは女、もうひとつは人である」と
答えています。「人」というのは、当時の学塾には、諸藩の一流の人物が尋ねてくる
ので、自然に耳と目が肥えると言っています。
おそらくこの頃に、横浜へ行き、そこに住んでいた外国人のスネル兄弟やスイス人
のファブル・ブラントと親交があったようです。
掛川藩士の福島住弌氏が晩年に物語ったところでは、ファブル・ブラントの店へ度々
行った際に、主人のファブル・ブラントと大変に親しそうな日本人がいたので、ある
時に名乗り会ったらそれが、河井継之助であった。ブラントは河井継之助のことを
「私を保護して下さるお方です」と、大変に丁寧に接していたそうです。後年、河井
継之助と言えば、真っ先に想像されるガットリング砲ですが、このファブル・ブラン
トより購入しています。また、長岡藩の軍政改革での元込め式の西洋銃は、ヘンリー
・スネルより購入したものと思われます。
継之助は、ファブル・ブラントの店には寝泊まりしていたのですから、そこで外国の
話を色々聞いたことでしょう。藩命とか外国語や西洋医学等を学ぶ学生等ではなく、
個人の意志で外国人と色々交流が持てるということは、身分などに囚われずにきわめ
て合理的な考えを持っていたからでしょう。そのことが、彼らから信頼されていた原
因でもあったのでしょう。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/2/6(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
前回、継之助がファブル・ブラントの商館で居候をしたことを、1860年の事として 書きましたが、この年月日については必ずしも確かではないようです。 「愛想河井継之助」(中島欣也著)では、スネルと知り合ったのはこの時期だろうと してあります。理由としては、継之助が江戸にいた中で比較的自由だったことと、長 崎に行って西洋人への目を開いてきたことをあげています。スネルの方は、この時期 に横浜へ居たのは間違いがないのですが、ファブル・ブラントの方は、まだ日本に来 ていないようなのです。 「河井継之助の真実」(外川淳著・東洋経済新報社)と「愛想河井継之助」では、フ ァブル・ブラントは1862年にスイス公使に従って来日していると書いてあります。そ うしますと、この時期には横浜でスネルと知り合い、親しくなり、後年ファブル・ブ ラントが来日したときには、スネルから紹介して貰ったことになるでしょうか。 ただ、1863年となると、河井継之助も忙しくなってきており、掛川藩士の福島住弌氏 の話のように、ファブル・ブラントの食客となり、夜回りをして拍子木を叩くような 余裕があったのかどうか・・・・・。
0/2/6(Sun) 09:45pm QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助は、1860年の夏頃に長岡に帰ります。 司馬氏の「峠」では、妻のおすがを連れて芸者遊びをしたりして、平穏な日を送って います。妹のお八寸との会話では、自分には下級官僚の才はない、適しているのは家 老だ等と言って、いずれ必要となるときまでは、本でも読んでぶらぶらしているしか ないと言っています。 この時、継之助34才の働き盛りです。この34才の夏より、36才の秋まで約2年 間、長岡にいます。 この間、色々な事件がありますが、長岡藩は彼を必要とはしませんでした。
「越後長岡藩の悲劇」(磯部定治著・新潟日報事業社)は、北越戦争の際に河井継
之助と対立した長岡藩の和平派の立場から書かれたものですが、その中で河井継之助
の人物について、以下のように書いてあります。反対派から見た継之助像と言えるで
しょう。
河井継之助と家が隣にあった藤野友三郎の言葉として、
0/2/11(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)