公用人
1862年閏8月、会津藩が京都守護職に任ぜられますが、同じ頃に長岡藩も京都所司 代に任ぜられます。京都に着任したのは、長岡藩が同年の9月、会津藩は12月です。 当時の京都は、朝廷を長州と土佐がリードしていて、尊皇攘夷の過激派の志士が大手 を振って歩いている時でした。土佐藩では、土佐勤王党の武市半平太が上京していま す。彼らは、幕府に攘夷の実行を迫るために勅使を派遣しようと画策し、ついに成功 します。そして勅使出発の前日に突然、所司代の長岡藩主牧野忠恭へその旨を朝廷か ら通告してきます。同時に、土佐藩からは兵200を率いて勅使に付き添う旨の通告も あります。もちろん武市半平太も一緒に江戸へ行きます。 大体、このような勅使派遣の場合には、事前に所司代へ連絡があり、所司代から幕府 へ都合を伺った上で行うのが、通常であった。ところが今回のは、幕府の権威を落と そうとしているものであり、何のための勅使派遣かも知らせず一片の通告で済まそう とするものであった。もっとも、、江戸の幕府でも勅使派遣については以前より知っ ていましたので、京都所司代への正式な連絡が突然であったのでしょう。幕府の権威 を落とすことが、狙いだったのでしょう。 牧野忠恭は、家臣を集めて善後策を協議するも、有効な対策もなく結局、江戸へ三条 実美が勅使として派遣される旨の早馬を出します。 この時(10月)には、会津藩はまだ京に着任していませんので、京都所司代の牧野忠 恭は、自分の任務の困難さを思い知ったのでしょう。そのために、有能な人材の必要 性を痛感し、翌年の1863年早春河井継之助等を上洛させることにします。
もしかすると、京都守護職の松平容保の着任が勅使派遣の前であれば、河井継之助 の登場は、もう少し後になったかもしれない・・・・。(^^ゞ 松平容保は江戸で、一橋慶喜や春嶽それに老中等と会って、勅使派遣が上手く行くよ うに懸命の努力をしています。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社
「河井継之助のすべて」安藤英男編 新人物往来社
0/2/12(Sat) 春秋
1863年に京都へ行く前年の秋に、継之助は江戸へ行きます。
司馬氏の「峠」では、妻のおすがに「またいなくなるぜ」と言い、その理由は、殿様の
京都所司代の就任を拒むことだといいます。妻のおすがは、無役の継之助がどうして殿
様の栄転を止めるのかが分かりません。継之助は「・・・この時勢に、京都所司代など
とは、煙硝倉に火を抱いてとびこむようなものだ。・・」と説明します。なにやら、京
都守護職就任に際して西郷頼母が松平容保に言った言葉とそっくりのようです。(^-^)
河井継之助は長岡でも、京都所司代就任に反対し、江戸へ出てからは、参政に所司代
辞任を建白しています。しかしながら、長岡でも江戸でも藩では取り上げてもらえなか
ったようです。
一般的には、京都所司代は老中へ出世するためのポストであり、今回の人事は、栄転と
いうことになります。そうしますと、藩士達の大部分は妻のすがが思ったのと同じよう
に、何故殿様の栄転を素直に喜べないのか、まして、辞職すべきだなんてとんでもない、
という気持ちだったのでしょう。
徳川の世が、これからも続いていくと思っている人が、ほとんど全部でしょうから、理
解を得るのは困難なわけです。
河井継之助は、山田方谷から学んだことや、長崎などへの西遊で江戸幕府はそう長く
ないと思っていました。しかしながら、現実に徳川の世に生きている人たちは、殆どそ
ういうことは考えないでしょう。何を訳の分からないことを言っているんだ、と思われ
るのがせいぜいでしょう。
そう思った人たちも、京都へ行ってどうも何かが違うと、感じた人もいたことでしょう。
藩主の牧野忠恭が、そう感じた一人だったのではないでしょうか?
参考 「峠」司馬遼太郎著 新潮文庫
0/2/13(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
さて、京都出仕を命ぜられた継之助は、永井慶弥・安田多膳とともに上京し、前年上
京していた同士の三間市之進と共に、京都所司代辞任を働きかけます。この時の継之助
の役職が、公用人です。
司馬氏の「峠」などでは、この継之助の働きにより継之助が京都にいる間に辞任が実現
するように書かれていますが、実際はそのようにすんなりとは行かなかったようです。
理由は、藩主の忠恭が、そこまでの踏ん切りが付かなかった為です。
継之助も色々頑張ったのですが、最後は見切りを付けて、公用人を辞任します。同様
に、永井・三間等も職を辞し、継之助と行動を共にします(継之助の藩内での影響力も、
段々大きくなってきますね。)。
結果的にはこれらの者の辞任が、藩主忠恭に京都所司代の辞任を決意させます。この辞
任の届け書の中には、「なお、委細は、家来にて河井継之助と申す者に申し含み候・・
・」(「河井継之助の生涯」安藤英男著より)というように、継之助の働きによるもの
であることが分かります。
1863年6月、牧野忠恭は京都所司代を辞任して、江戸へ行くことになります。
なお、この間のことについて、「河井継之助」(星亮一著・成美堂出版)には興味あ ることが書かれています。 それによると、会津藩の秋月が、河井継之助の京都公用人採用に一役買っているとあり ます。 京都において、会津藩から長岡藩に会合を求め、その席で秋月が、河井継之助は今何を しているのか(この重大な時に長岡藩はあのような有能な者をどうして使わないのか?) と尋ね、更に追い打ちで、同席した横山主税も、河井継之助は有能な人物だと聞いてい る、と出席した長岡藩人に、だめ押しをします。 平和なときなら、「あの者は身分が違います」とか何とか言って、他藩の人事に介入す るのはお門違いだと突っぱねるのが普通でしょうが、やはり時代が動いているためでし ょうか? もちろん、この話が実際のことかどうかは分かりませんが・・・。
0/2/18(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)
長岡藩主牧野忠恭が京都所司代をしていた時は、時代が激しく動いているときです。 その間の、主な出来事を眺めてみます。
就任の前月の7月には朝廷の求めにより、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁
職におき、公武合体を進めようとしていました。これまでの幕府本位を改めようと、改
革も行っていきます。
翌8月には島津久光の行列が、生麦事件を起こします。12月には、高杉晋作等が英国公
使館を焼き討ちにします。一方では、一橋慶喜や松平慶永等が、攘夷の不可能を朝廷に
説得しようとして、翌年にかけて上洛します。その他にも、1863年には多くの大名が上
洛します(こんなことは、今までは幕府が許さなかったことです)。
3月には、将軍家茂までもが上洛します。不本意ながら攘夷の期日を約束させられます。
そして5月、長州藩が下関で攘夷を実行します。同年同月、姉小路公知暗殺される。
翌6月、米・仏軍艦長州砲台を報復攻撃。7月、鹿児島で薩英戦争。
そして、8.18の政変と続きます。
このような時代ですので、京都に在職した長岡藩士は些かでも、時代の変化を感じ取
ったに違いありません。そして、河井継之助が言っていた通りに、京都所司代を辞任す
ることになりましたので、河井継之助の評価が藩内でも見直されたのではないかと思い
ます。
長岡藩主牧野忠恭の後任の京都所司代には、淀藩主の稲葉正邦が就任します。この稲葉
氏の次に、桑名藩主が最後の京都所司代になります。
参考 集英社版日本の歴史15 開国と倒幕
0/2/19(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
京都所司代を辞任した長岡藩主牧野忠恭は、京都を去り江戸へ帰ります。
辞任した継之助が当時長岡で詩を作っています。「良知の人河井継之助」(石原和昌著)
によって簡単に要旨を以下に書きます。
今まで我が国が平和でいられたのは上辺のことで、内実は弊害が大きくなっている。 今や国力は衰弱しており、綱紀は緩み、財貨は不足しており、民は重税に喘ぎ、兵は弱 体している。 悲憤慷慨する志士の言いなりになって、朝廷は理性を失っている。 誰かこの困難な状況を変え、国民の生活を安らかにするために、共に政策を実行してい く人はいないか。
同書では、「与に(ともに)治道を策して四民を安んぜん」というのが、この詩の結論 であり、継之助の目指している政治目標であると書いてあります(同書P120)。
江戸へ帰った長岡藩主牧野忠恭は、程なく老中に就任し(同年9月)、12月には外国事 務を管掌とすることになります。
長岡にいてこのことを聞いた河井継之助は、「これではダメだ」と思ったことでしょう。 所司代の辞任の理由が、力を藩内の政治に入れ領民を安んじる為というのとも矛盾します。 殿さんの側近に任せていてはいられない、という気持ちになったことでしょう。 河井継之助の、幕府に構わず藩内を立て直すというのは、どこか高杉晋作の長州割拠論に 似ている響きがあります。
0/2/20(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
1864年正月、河井継之助は物頭格御用人勤向・公用人兼帯を命ぜられて、江戸へ出府し
ます。
江戸へ来て、早速藩主の老中辞任を働きかけます。前回の所司代といい、今回の老中と
いい、藩主を辞任させることに力を尽くすのですから、何とも巡り合わせの悪い仕事で
す。藩内でも頭の固い人からは、今回もとんでも無い奴だと思われたことでしょう。
継之助は、当時の老中首座の板倉勝静へ、牧野忠恭の老中辞任願いを持っていきます。
面白いのは、この時には、願いを出された板倉勝静自身も、河井継之助の師である山田
方谷から、辞任を進められているようなのです。
この届けを出してから間もなく、牧野忠恭は病気と称して出仕を止めます。長岡藩主の
様子伺いに来る幕府の役人に対しては、全て継之助が応対し相手を鋭く論破します。
1864年5月、長岡藩の支藩である笠間藩主牧野貞直が、幕閣の要請で辞任を止めるよ
う説得に来ます。藩主忠恭は、継之助をその場に同席させました。
激しい議論となりましたが、継之助の議論は鋭く徹底的になり、ついには支藩の藩主と
いう地位を無視して、やり込めてしまいます。藩主忠恭もこれには黙っているわけにも
いかず、継之助を退席させ、辞表を提出させます。
継之助は、辞表を永井慶弥に頼んで作文させ、その原稿を見た上で、辞任の理由の病気
が足りないと「その上胸の痛みがひどく」と書き加えて、大笑いしたとあります。
この継之助の辞任に際しては、同士の花輪馨之進・三間市之進・植田十兵衛等も職を
辞し、長岡へ帰っていきます。継之助にも、ようやく若手のブレーンが出来てきたよう
です。
殿様を辞めさせるために働き、その度に辞任しているところなどは、きわめて珍しい
ことでしょう。現在で見ると、支店長がせっかく本店の役員になったのに、役員を辞め
ろと言っている社員のような者です。当たり前に考えるなら、本店の役員として上手く
やっていくように、補佐するのが有能な社員のハズですから・・・・。
この時、継之助38才です。残された時は、あと4年という短さです。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想河井継之助」中島欣也著
「良知の人河井継之助」石原和昌著
0/2/21 QYK10262 春秋(はるあき)
長岡に帰ってきた継之助は、表面的には落ち着いた時を送っているようです。しかし、
激動の時に係わらず無役が1年以上続きますので、内心は焦りもあったでしょう。
司馬氏の「峠」では、「(妻)おすがの好日がはじまった。」と書かれています。そ
の中で、「とにかくおれはよその殿様にあれほど悪口雑言をあびせたためにやめされら
たが、そのためにこっちの殿様もすらすらと老中をおやめになることができた。」それ
で藩費が大いに助かったのだから、大きな仕事をしたのだと妻に自慢しています。
しかし実際のところは、藩主牧野忠恭はすんなりとは辞めることができませんでした。
継之助が辞任したのは1864年5月ですが、藩主牧野忠恭がようやく老中を辞任する事が
出来たのは、1865年4月です。
継之助は遊び好きでもあります。旅館の「ますや」で一杯入れてから、芸者遊びを良
くやりました。あんまり芸者遊びが多すぎるというので、河井家の使用人か誰かが、妻
のすがに亭主がしょっちゅう遊び歩いていますよと教えたことがありました。その時妻
のすがは、すらすらと次のはやり歌を書いて相手に示したといいます。
ここじゃ浪人 あそこじゃいくさ
主の浮気も 無理がない
うーん 出来過ぎでしょうか。
継之助は、親しい友人には「おすがは偉い、おすががいるので家のことは安心している」
と言い、自分は家を留守にすることが多いが、気むずかしく厳格な母によく使えている
と思っていたのでしょう。
参考 「愛想河井継之助」中島欣也著 恒文社
0/2/26 QYK10262 春秋(はるあき)
継之助は、前回と今回の辞職で長岡に帰っています。
長岡にいる間は、読書をしていますが、相変わらず精読で、気に入ったものは書き写し
も行っていたでしょう。
継之助が写した写本には、吉田松陰に関する以下のものもあります。
「二十一回猛士遺文」吉田松陰の文章です。
「吉田寅次郎伝」米城浩堂撰。
継之助が吉田松陰の遺稿や伝記を写しているのは、松陰の考えや行動に何か惹かれるも のがあったからでしょう。吉田松陰は、継之助の師の斉藤拙堂や備中の三島中洲と交流 があったので、その二人から松陰の人となりを聞いたのでしょうか。継之助と松陰とを 大雑把に比べると、継之助は実務、松陰は理論というように、お互いにかなり違いがあ ります。 しかしながら、松陰の行動力は凄いものがあますので、その点では継之助の信じている 陽明学の知行合一と共通点がありそうです。 「河井継之助の生涯」(安藤英男著)では、「松陰の持つ情熱・至誠・見識・文才・な どには、感銘するところが多かったのではあるまいか。」として、もし、小千谷会談の 際に、松陰門下生が新政府軍の代表として継之助に会っていたならば、相通じることも あったのに惜しまれる、としています。
0/2/26(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
公用人という題名ですが、ここ3回は辞職した後の無役の時の話です。
今回は、書物によっては、河井継之助のライバルとも書かれている小林虎三郎との話し
です。
江戸留学の初めの頃は、継之助も一緒に江戸見学に行ったりと仲が良かったようですが、
学問が進むに連れ、考え方の相違が目立ってきていました。
小林は、江戸で佐久間象山の門下になり、藩主に横浜開港を建言したことで、謹慎処分
を受けています。処分が終わった後は、リュウマチで体調を崩していました。
1863年11月、この小林家が火災にあっています。継之助は身の回りのものを持って早
速見舞いに行きました。小林虎三郎は、今回の災害で見舞いに来る人もきわめて少なく、
人情の薄さをかみしめていましたので、この継之助の見舞いを非常に感謝します。他人
は、お互いに政敵とまで噂する人もいる当の継之助が来たのです。また、この時に小山
良運から借りた本も焼失してしまいましたので、継之助は自分の写本を小林に与えたと
も言われます。
とにかく、小林虎三郎は継之助に大変感謝し、今は何もお礼が出来ない。しかし唯一出
来ることは、忠告であると言い、継之助の考え方が間違っていることを蕩々と述べたと
言います。
これには、言われた継之助もビックリしたでしょう。「河井継之助」芝豪著では、「そ
れにしても、虎さは豪(えら)いものだ。今度ばかりは負けた」継之助は、幾度も独り
言をもらしながら帰ります。火災にあっても、気持ちが全く負けていないから出来るこ
とですが、それでも普通の人は、とうていこうは出来ませんね。
事実かどうかは分かりませんが、有名(?)な逸話なので書きました。 ちなみに、小林虎三郎は後年「米百俵」で有名で、地元長岡では、継之助よりも人気が あると言われています。米百俵は山本有三の戯曲になっている他長岡銘菓にもあります。
参考 「河井継之助」芝豪著 PHP文庫
「歴史読本 河井継之助 薩長に挑んだ男」1955年4月号 河井継之助をめぐる群像
0/2/27(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)