山中騒動
1865年6月21日、長岡藩主第二次長州征伐のため、兵570名を率い江戸を出発。7月6日、 大阪に着きそこで待機。
ここで長岡では、山中騒動が起きます。長岡藩の多くの人材は、この時藩主と共に大阪
にいました。このことが、継之助が登場するのに一役買っているようです。つまり、山中
騒動という難問を、無事解決できる人材が国元で見あたらなかった。常日頃、大口を叩く
あいつにやらせてみよう、そういえば、以前宮路村での百姓騒動も解決したそうではない
か、となったのでしょう。
7月19日、河井継之助は、外様吟味役に任ぜられます。
山中騒動というのは、山中村の庄屋徳兵衛と継母「のわ」の家庭内の争いと、それに小作
料に不満を持つ村民が絡んだ争いです。
継母「のわ」は、庄屋役を自分の実子にしたいため、息子の徳兵衛が母である自分を虐待
したという訴えを、3度も起こします。それに継母「のわ」の親戚である隣村の庄屋伊惣
次が、村民の不満を煽ります。そうこうして、3年に渡って争いが続いていたようです。
継之助は、現地へ行き調査を行い、喧嘩両成敗の形で以下の判決をします。
庄屋徳兵衛は庄屋役取り上げ、跡目は息子大五郎が相続。
村民をそそのかした隣村の庄屋伊惣次は庄屋役取り上げ、跡目は息子が相続。
山中村村民は戸締まり10日間。
継母「のわ」は御叱。
参考 「良知の人河井継之助」石原和昌著
0/3/5(Sun) QYK10262 春秋
継之助の裁断によって、無事解決を見たと思ったはずの山中騒動ですが、実は3ヶ月後
に再燃します。山中村を含む周囲の6ヶ村は、3年前に天領から長岡藩領へ交換により編
入されたもので、幕府の直轄領の頃に比べると、長岡藩の取り立ては厳しかったことにも
原因があります。
庄屋と村民の争いが激化して、庄屋側についた3人の村民が村の人たちからの圧迫に耐
えかね、首吊り自殺を図ります。しかし発見されて、2人は助かります。連絡を受けた藩
では、盗賊方の役人を派遣します。盗賊方の役人は実情を調べ、首謀者4名を逮捕したと
ころ、村民は納得せず役人を取り囲み、4名の連行を拒否します。
村民達の不穏な動きの連絡を受けた藩庁では、直ちに足軽頭の田部武八に20名の足軽を付
けて、山中村へ行かせます。しかしながら、村民はそれでも不穏な動きをします。このま
までは、一揆にもなりかねないところでした。
足軽頭の田部武八は、盗賊方の役人を諭し、逮捕した首謀者4名の縄を解いて自由にし、
その交換条件として蜂起した村民を解散させます。田部武八は藩庁に帰ってから、処分を
覚悟の上、使命を果たせなかったことを報告します。この時に郡奉行になっていた河井継
之助は、田部武八の臨機応変の処置を真っ先に誉めました。田部武八もそれにより面目を
施しました。
継之助は、田部武八をもう一度山中村へ派遣して、「河井継之助は、今多忙で手が放せ
ないが、4、5日中に出張して、公明の裁断を下す。一同謹慎して沙汰を待つべし」(
「愛想河井継之助」中島欣也著)と言わせます。
参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
「河井継之助の生涯」 安藤英男著 新人物往来社
0/3/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
さて、4、5日中に出張すると言った翌日の11月14日、河井継之助は大崎彦助など2名 の伴を連れただけの軽装で山中村に向かいます。その日の夕方、山中村に着き、庄屋徳兵 衛の屋敷に入ります。 やがて、そのことを知った村人達が庄屋の屋敷へきて、騒ぎ始めます。庄屋の家に泊まる ということは、庄屋の味方をすることになると思ったからです。 しばらくして継之助が出てきて、騒いでいる村人達を大喝します。 「お前達の騒ぎ方は何のつもりだ!庄屋の屋敷が広いのは、こういうときのために藩が許 可しているのだ。大体俺が、庄屋の屋敷へ泊まったから庄屋を依怙贔屓すると思うのか! とんでも無い了見違いだ!」「明日は裁断を下すから、皆早く帰れ!」継之助の気迫にす っかり押されながらも、それでもまだ帰らない者がいます。 継之助は、今度は部屋のふすまを取り外し、灯りを付けさせ、外から丸見えにしました。 これで、残っていた村民も家へ引き上げます。
翌15日朝、村人達は庄屋の家に集まってきます。頃合いを見計らって継之助が村人達の
前へ出て、皆をあの鋭い目で睨み付け、突然首謀者4名の名前を呼び、開口一番一喝しま
した。反論しようとすると更に、おっ被せて鋭く叱りつけたのです。御奉行様が、まさか
自分の顔と名前を知っているとは思わなかった首謀者達は、すっかり毒気を抜かれて圧倒
されます。そこで継之助は、今度は皆に解るように諄々と説きました。
「道理があっても徒党を組んで不穏の行動をすれば、道理もなくなり一揆と言われ、処分
を受けるようになる。そうなったら残された妻子はどうなるのか。そこのところをよく考
えよ。」と情愛のこもった言葉で説くのです。こうして、村人達が詫びを入れたところで、
庄屋の徳兵衛を呼び出し、皆の前で論説し、双方が誓約書に署名して解決します。
継之助の鮮やかな気合い勝ちです。この気合いは、見事なものです。
河井継之助は人間的な迫力が巨大で、他人に有無を言わせぬところがあったことが分かり
ます。
参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
「愛想河井継之助」中島欣也著 恒文社
0/3/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
さて、無事に解決した後に、継之助はいくつもの包み金を取り出しました。
この金は前回の裁判(7月)の時と今回の時のお礼だとお前達が持ってきたものであると
告げ、裁判をする側がこういうものを貰ういわれはないとして、その金で酒と肴を運ばせ
庄屋や村人達と飲み明かしています。当時は賄賂が公然と行われていたので、村人達は驚
いたことでしょう。この辺りは、騒動の根が残らないようにとの心配りですが、心憎いと
ころです。
また、庄屋の今井徳兵衛は継之助に感謝し、この日を記念日として毎年継之助の肖像と
好物の桜飯を供えました。今井徳兵衛の曾孫の語った話では、「戦前は11月15日に、書院
の床の間に、河井さんの肖像を掲げ、好物だった味噌漬飯を供え、父常栄が子供たちに、
騒動の経過、その処理について、落涙絶句しながら話してくれたのが印象に残っています。」
(「愛想河井継之助」中島欣也著)として、継之助に非常に感謝して、子供に伝えていっ
た
ことが分かります。
「良知の人河井継之助」(石原和昌著)では、このような継之助の解決策には、いくつ
かのポイントがあると書いています。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著