雑談 河井継之助

山中騒動


08091/08091 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 山中騒動1 (15) 00/03/05 08:41

 1865年6月21日、長岡藩主第二次長州征伐のため、兵570名を率い江戸を出発。7月6日、 大阪に着きそこで待機。

 ここで長岡では、山中騒動が起きます。長岡藩の多くの人材は、この時藩主と共に大阪 にいました。このことが、継之助が登場するのに一役買っているようです。つまり、山中 騒動という難問を、無事解決できる人材が国元で見あたらなかった。常日頃、大口を叩く あいつにやらせてみよう、そういえば、以前宮路村での百姓騒動も解決したそうではない か、となったのでしょう。
 7月19日、河井継之助は、外様吟味役に任ぜられます。 山中騒動というのは、山中村の庄屋徳兵衛と継母「のわ」の家庭内の争いと、それに小作 料に不満を持つ村民が絡んだ争いです。 継母「のわ」は、庄屋役を自分の実子にしたいため、息子の徳兵衛が母である自分を虐待 したという訴えを、3度も起こします。それに継母「のわ」の親戚である隣村の庄屋伊惣 次が、村民の不満を煽ります。そうこうして、3年に渡って争いが続いていたようです。

 継之助は、現地へ行き調査を行い、喧嘩両成敗の形で以下の判決をします。
庄屋徳兵衛は庄屋役取り上げ、跡目は息子大五郎が相続。
村民をそそのかした隣村の庄屋伊惣次は庄屋役取り上げ、跡目は息子が相続。
山中村村民は戸締まり10日間。
継母「のわ」は御叱。

 参考 「良知の人河井継之助」石原和昌著

0/3/5(Sun) QYK10262 春秋


08092/08092 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 山中騒動2 (15) 00/03/05 15:47 08091へのコメント

 継之助の裁断によって、無事解決を見たと思ったはずの山中騒動ですが、実は3ヶ月後 に再燃します。山中村を含む周囲の6ヶ村は、3年前に天領から長岡藩領へ交換により編 入されたもので、幕府の直轄領の頃に比べると、長岡藩の取り立ては厳しかったことにも 原因があります。
 庄屋と村民の争いが激化して、庄屋側についた3人の村民が村の人たちからの圧迫に耐 えかね、首吊り自殺を図ります。しかし発見されて、2人は助かります。連絡を受けた藩 では、盗賊方の役人を派遣します。盗賊方の役人は実情を調べ、首謀者4名を逮捕したと ころ、村民は納得せず役人を取り囲み、4名の連行を拒否します。 村民達の不穏な動きの連絡を受けた藩庁では、直ちに足軽頭の田部武八に20名の足軽を付 けて、山中村へ行かせます。しかしながら、村民はそれでも不穏な動きをします。このま までは、一揆にもなりかねないところでした。 足軽頭の田部武八は、盗賊方の役人を諭し、逮捕した首謀者4名の縄を解いて自由にし、 その交換条件として蜂起した村民を解散させます。田部武八は藩庁に帰ってから、処分を 覚悟の上、使命を果たせなかったことを報告します。この時に郡奉行になっていた河井継 之助は、田部武八の臨機応変の処置を真っ先に誉めました。田部武八もそれにより面目を 施しました。
 継之助は、田部武八をもう一度山中村へ派遣して、「河井継之助は、今多忙で手が放せ ないが、4、5日中に出張して、公明の裁断を下す。一同謹慎して沙汰を待つべし」( 「愛想河井継之助」中島欣也著)と言わせます。

 参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
    「河井継之助の生涯」 安藤英男著 新人物往来社

0/3/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


08111/08111 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 山中騒動3 (15) 00/03/06 05:10 08092へのコメント

 さて、4、5日中に出張すると言った翌日の11月14日、河井継之助は大崎彦助など2名 の伴を連れただけの軽装で山中村に向かいます。その日の夕方、山中村に着き、庄屋徳兵 衛の屋敷に入ります。 やがて、そのことを知った村人達が庄屋の屋敷へきて、騒ぎ始めます。庄屋の家に泊まる ということは、庄屋の味方をすることになると思ったからです。 しばらくして継之助が出てきて、騒いでいる村人達を大喝します。 「お前達の騒ぎ方は何のつもりだ!庄屋の屋敷が広いのは、こういうときのために藩が許 可しているのだ。大体俺が、庄屋の屋敷へ泊まったから庄屋を依怙贔屓すると思うのか! とんでも無い了見違いだ!」「明日は裁断を下すから、皆早く帰れ!」継之助の気迫にす っかり押されながらも、それでもまだ帰らない者がいます。 継之助は、今度は部屋のふすまを取り外し、灯りを付けさせ、外から丸見えにしました。 これで、残っていた村民も家へ引き上げます。

 翌15日朝、村人達は庄屋の家に集まってきます。頃合いを見計らって継之助が村人達の 前へ出て、皆をあの鋭い目で睨み付け、突然首謀者4名の名前を呼び、開口一番一喝しま した。反論しようとすると更に、おっ被せて鋭く叱りつけたのです。御奉行様が、まさか 自分の顔と名前を知っているとは思わなかった首謀者達は、すっかり毒気を抜かれて圧倒 されます。そこで継之助は、今度は皆に解るように諄々と説きました。 「道理があっても徒党を組んで不穏の行動をすれば、道理もなくなり一揆と言われ、処分 を受けるようになる。そうなったら残された妻子はどうなるのか。そこのところをよく考 えよ。」と情愛のこもった言葉で説くのです。こうして、村人達が詫びを入れたところで、 庄屋の徳兵衛を呼び出し、皆の前で論説し、双方が誓約書に署名して解決します。
 継之助の鮮やかな気合い勝ちです。この気合いは、見事なものです。 河井継之助は人間的な迫力が巨大で、他人に有無を言わせぬところがあったことが分かり ます。

 参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
    「愛想河井継之助」中島欣也著 恒文社 

0/3/5(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


08235/08236 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 山中騒動4 (15) 00/03/11 07:28 08111へのコメント

 さて、無事に解決した後に、継之助はいくつもの包み金を取り出しました。 この金は前回の裁判(7月)の時と今回の時のお礼だとお前達が持ってきたものであると 告げ、裁判をする側がこういうものを貰ういわれはないとして、その金で酒と肴を運ばせ 庄屋や村人達と飲み明かしています。当時は賄賂が公然と行われていたので、村人達は驚 いたことでしょう。この辺りは、騒動の根が残らないようにとの心配りですが、心憎いと ころです。
 また、庄屋の今井徳兵衛は継之助に感謝し、この日を記念日として毎年継之助の肖像と 好物の桜飯を供えました。今井徳兵衛の曾孫の語った話では、「戦前は11月15日に、書院 の床の間に、河井さんの肖像を掲げ、好物だった味噌漬飯を供え、父常栄が子供たちに、 騒動の経過、その処理について、落涙絶句しながら話してくれたのが印象に残っています。」
(「愛想河井継之助」中島欣也著)として、継之助に非常に感謝して、子供に伝えていっ た ことが分かります。

 「良知の人河井継之助」(石原和昌著)では、このような継之助の解決策には、いくつ かのポイントがあると書いています。

  1. 行動第一主義
    自らが先頭に立って行動する、率先垂範型のリーダーである
  2. 誠心誠意を以て事態に立ち向かう
    単身で事件の現場に行き、誠意を以て対処する。しかも彼の身辺は清廉であるので、誰にもおもねることも遠慮することもない。
  3. 解決に当たっては、あえて罪人を作らない
    儒教の「仁」の精神を持っていたことの証であろう。
  4. 最初に相手方の不意をつく
    相手の心理状態を読んで、機先を制するやり方を採っている。
 4については、著者は後年の北越戦争の長岡城奪回作戦に、この戦法を駆使すると書い ています。 成功した事例が長岡城奪回なら、失敗した事例が小千谷会談かもしれません。

 参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著


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