郡奉行
1869年10月13日、河井継之助(39才)は、郡奉行に就任します。実質的にはこの時から、
彼の藩政改革が始まります。
そして、まず最初にやったことは賄賂の禁止です。
彼が郡奉行に就任したときに、そのお祝い(御役成祝儀)として藩内の色々なところから、
品物の付け届けがありました。当時このような付け届けは、慣習化されていたものである
が、継之助は一つも受け取らずに、全て突き返しました。そしてこのようなことを断然止
めさせるべく、就任後8日目に、庄屋と代官一同を奉行所に集めました。
まず皆の前で、彼の政治の基本方針を読み上げ、その後に賄賂を禁止することを言い渡
しました。
しかも、この時にそれが通り一遍ものではないということを、強く念押しします。具体的
には、「皆は、下々より様々な名目で付け届けを受けているようだが、これは代官などの
お手当が低すぎるためであろう。決して皆の欲得からそうしているわけではないだろう。
それでは、どれくらいの収入があれば、役を務めるのに不足がないのであろうか? わし
も努力するので、遠慮なく申し出よ。」と言い、ギョロリとした目で皆を見回します。し
ばらくした後で、下を向いていた誰かが「今まで通りの収入で結構です。」と言った。継
之助は、皆もそうであろうなと皆の確認を取った後に、それでは今後は一切の付け届けな
どの贈り物の受け取りの禁止しを、厳命しました。
同時に、農民が庄屋になったときの奉行や代官へのお礼回りの禁止や、田地売買の際に、
百姓が代官に、庄屋が奉行に治めていた裏書き料も禁止しました。
長年習慣となっていることを止めるのは、非常に大変なことだったでしょう。ショック 療法と、彼の率先垂範がなければとうてい出来ることではありません。しかしかなり上手 く行ったと言いますので、感心します。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想河井継之助」 中島欣也著
「良知の人河井継之助」石原和昌著
0/3/12(Sun) QYK10262 春秋
長岡藩では、藩内の437の村を7つの組に分け、各組に数人の庄屋の代表(割元)を置い
ていました。この割元が、藩と庄屋(農民)を結ぶ大事な役割を担っていましたので、河井
継之助は、割元の見直しを行います。
継之助は、鈴木訥叟(とつそう)を熱心に説いて、北組割元とし、更に問題の多かった栖
吉村庄屋を兼任としました。
この栖吉村は、庄屋と村民の仲が悪く紛争が絶え間なく起こり、庄屋が更迭されたことが過
去20年の間に10回以上もあったそうです。鈴木訥叟(元々割元であったが当時隠居)は、そ
の名の通り訥弁であったが、至誠で公明な人であったので、継之助が是非にと頼んだもので
す。
そして割元を引き受けるという時には、割元の委任状の他に、継之助が大事にしていた山田
方谷の詩編(松山を去るときに贈られたもので「春風詞」と題してあるもの)を贈っていま
す。いかにこの役割を大事に思って、鈴木訥叟を熱心に口説いたのかが分かります。
鈴木訥叟は継之助の見込んだとおり、よく庄屋と割元を勤め、栖吉村の村民の紛争も収まっ
たといいます。
継之助が、割元や庄屋のことまで良く知っていたのは、継之助の若い時分から、彼に師事
している庄屋(当時は庄屋の息子)がいたからだと思われます。
外山脩造や大崎彦助(山中騒動で継之助に同行しています)がそれで、庄屋の息子時代から
河井継之助に師事して、この頃には割元になっているようです。この二人は、学問も相当行
っているようです。継之助が身分に囚われずに、能力で人を見ていたからでしょう。
また継之助は、彼らから得た情報を大事に活用しています。例えば、農作業に一生懸命に
努めた人達を、精農家として表彰しています。このことは継之助が、上っ面だけではなく、
農民層まで見つめた本格的な改革をしようとしていたことの現れであると思います。
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
水腐地の見直し
長岡はご承知にの通り、日本一の大河信濃川沿いにあります。当然水害には悩ませられ
ました。
水腐地とは、大きな水害を受けた土地のことで、水腐地の指定を受けると5年間は免税
とされていました。また、場合によっては逆に、藩から御手当米を出すこともありました。
制度としては社会保障的なものであるが、これが当時は慣習化して、一度水腐地の指定を
受けると、5年の期間が来ても担当の代官等に賄賂を贈り、まだ土地が十分回復していな
いとして、延長されるものが多数ありました。制度は良いものでも、長い間には、少しぐ
らいなら良いだろうということで、役人や村人がお互いに甘えてしまいがちになります。
現在でも、租税特別措置法等で一度減税をすると、期限が来てもなかなか廃止するのは難
しいのと同じ様なことでしょう。
また、水腐地の指定の実際としても、当時は村ごとの課税が原則だったため、村全体が水
腐地となります。しかし、村の全部の田畑が水害に遭うことはまれで、被害のない土地も
あるので実体に即していないわけです。
そこで河井継之助は、水腐地の実体を調べ、贈収賄の甚だしい代官・元締め等数名を罷 免処分としました。こうして、今までとは違うと宣言してから、藩吏を水腐地へ派遣して、 詳しく検査させました。こうして、水腐地の指定を厳しくやり直しました。 この水腐地の指定のやり直しと御手当米の廃止により、年間6千俵の増収となりました。 石高にすると1万3千3百石にもなったそうです。 このことは、長く長岡藩の勘定方にあった村松忠治右衛門(継之助のブレーンでもありま す)をして、河井継之助のことを「非凡の英才と言うべし」と書いています。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「河井継之助を支えた男」立石優著 恒文社
0/3/19(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
社倉の設置
御手当米を廃止したことにより、新たに社倉を設置しました。
御手当米は水腐地の際にも少し書きましたが、災害や不作などの際に1年間又は5年間等
にわたって、年に幾らかの手当を出す制度です。これも水腐地と同様に、運用面で実際に
はそれほど困っていない村が、毎年のようにお願いをするなど悪影響が出ていました。
更に、お手当米を貰った村々が、盆暮れ節句などの際に、御家老以下の担当の諸役人へ、
土地の産物などを付け届けすることが当たり前の慣習となっていました。当然御手当米の
期限が到来するときには、庄屋が村人へ割り当てを決め、集めた金品を期限の延長のため
に、藩の重役や担当役人へ配って挨拶回りすることも慣習となっていました。これでは本
来支出しなくても良い藩のお金を、皆で不正支出して、盆暮れ等に役人が貰っているのと
同様の結果になります。
実際上は、上記のように適正に運用されていないばかりか、むしろ弊害が大きいと判断
して、御手当米の制度は断然廃止にします。長い間には、少しずつ制度が歪められていき、
毎年行っている内に、誰もがそれが当然だと思ってしまうのでしょう。
そして、各村に収穫時にその作物の一部を納めさせ、凶作の際には、それらを供出する
貯蔵のための倉を造ります。これが社倉ですが、藩の助けの前に、まずその村の中で助け
合う制度です。河井継之助は、その制度は各村村で状況にあった任意の掟を作るようにし
ました。
水腐地の見直しや御手当米の廃止については、勘定方の村松忠治右衛門が以前から実施
を主張していたのですが、いずれも長い習慣となっていることなので、なかなか実行され
ずにいたものです。河井継之助が藩政に参加するようになって、素早くしかも適正に、実
行されたことになるでしょう。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「河井継之助を支えた男」立石優著 恒文社
0/3/20(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)
河川の改修工事
信濃川の支流で、三条から信濃川から分かれ、下流の黒崎で再び信濃川と合流する中之
口川というのがあります。信濃川から、分かれるところの川幅が大きいのに比し、下流の
合流地点の川幅が小さいこともあり水害の基になっていました。従って工事は、上流の信
濃川との分岐点の川幅を狭めて平均的にし、水の流れる量を一定にする工事でした。
河井継之助は、この川に関係のある村上藩と協調して、改修工事を行いました。
この普請奉行は、長岡藩では河井継之助、村上藩では夏目吉兵衛でした。河井継之助は幕
府から工事の許可を取り付け、工事に入りますが、総工費7千6百両の内約7割の5千6
百両を幕府から補助させています。
また近くにある、やはり水害のために、江戸時代に排水用に新たに造った新川と、それに
交差して流れる西川の補修工事も行っています。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想河井継之助」中島欣也著
0/3/20(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)
毛見の廃止
当時田畑に対する年貢は、検地帳に登録された土地や家屋敷等に対して行われていまし
た。そしてそれは、登録された各個人に対して行われていたのではなく村を単位として行
われていました。藩は年貢を村に対して課し、その村の村人に連帯して責任を負わせると
いうやり方でした。
具体的な年貢の決め方は、過去の平均的な取れ高を参考にして、決めていたようです(定
免法)。しかしながら、農作物は天候や害虫等によってもかなりの影響を受けます。その
ため、不作の時には藩へ願い出て、役人に実際に収穫を調べてもらい、年貢を減免するこ
と(毛見法)も採られていました。
毛見は検見とも言い、稲の収穫直前にその年の作柄や収穫量を、現地で坪狩り等により調
べることですが、時代や場所(藩)によっては、毛見取法が原則のこともあります。
長岡藩ではこの毛見についても、数々の弊害が出ていました。 役人が毛見のために出張すると、その応接は村々が行いますので、少しでも収穫高を低く 見積もってもらおうとして、色々な贈答を行います。また奉行等の検見役人の出張先での、 食事は朝昼晩と出張先の村が出すことになります。ここでも上記の理由から、午前午後の おやつや茶菓子、そして夕食の際の酒と肴を出すのが当然となっていたようです。さらに は、検見役人の自宅へ付け届けをすることも慣習となっていったようです。 凶作で苦しい村が、凶作を認定してもらうために、このような出費をするのはまさに理屈 に合わないわけです。
河井継之助は、藩内での反対を押し切り、毛見の全廃をしました。不作の場合の年貢の 減免は、過去の実績を調べて行うことにしました。そして、徴税作業の現場を不正が生ま れやすい庄屋屋敷から、代官所で行うこととしました。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「河井継之助を支えた男」立石優著